kubotaの日記: 国家という名の宗教
「みんなのため」のルールというのはあります。 みんなの利益のために個人ががまんを求められるということもあります。 まあ、ほんとに文字通り「みんな」のため、 というのはなかなかまれでしょうから、 「周りの人のため」くらいに言っておきましょう。 でも結局は人間のためですよね。
かれらは、人間の権利が場合によっては 制限されうるということばかりを強調しています。 それは事実なんだけど、その制限は他の人の権利を守るため という明確な目的があってのことでしょう。そういう「場合」に限る。 わたしたちは、民主国家に住んでいるので、 自分たちで自分たちのルールを決めるべき立場にいます。 ルールは守るべき、ということを教えるだけで、 ルールの目的を問わないのなら、 それは独裁国家に住んでいるのと一緒です。 だって、ルールは守るべき、と言うだけなら、 人々の利益ためのルールも、独裁者の利益ためのルールも、 あるいは国家という宗教のためのルールも、 一緒ですから。かれらは、この点をあいまいにしておいて、 そこに、国家という宗教のためのルールを持ち込もうとしています。
言いかえれば、その「周りの人のため」のルールを認めたら、ぼくは、 国家そのもののためのルールをも認めたことになってしまうのですか? たとえば、国旗・国歌を敬うのは、誰のためですか? それはルールではなく、宗教と呼ぶべきです。 やりたい人は勝手にやっていいけど、決して他人に押しつけるな。 公立の学校でそんな教育をするな。私立だったら宗教教育もありだけど。
というか、「個」に対する「公」として「国」しか想定していない、 というのも、かれらに対する批判のひとつです。「公」がひとつしかなければ、 「公」どうしの対立、ということを考えなくてもいいでしょう。 そもそも「公」どうしの対立なんてものが存在すると、 「公」の神聖さが失われ、かれらの布教活動に支障が出るので、 わざとそこは隠しているのでしょうが。 で、Gony さんもできれば、国以外にも多種多様な「公」が存在している、 ということを視野に入れて議論していただければと思います。
ちなみに、当時の人々を現代の価値観で見れば狂気の沙汰としか思えない 行為に駆り立てたのはこういう人達の涙ぐましい扇動だったようです。
なんか矛盾してるような。 極限状態のなかで、そういうルールになるのは自然なこと、 というのが Gony さんの主張じゃなかったのですか? それとも、当時としても、そういう煽動がなければそういう ルールは生じてこなかったはず、でしょうか?
それに、煽動の第一の責任はまず国家でしょう。 だって当時は言論の自由がなかったのですから。 それに当時の国家は、Gony さんの嫌いな (ぼくも嫌いな) 国定教科書を使ってましたよ。しかも、日本は世界で唯一の神の国だ、 みたいなばかげたことが記述された教科書。 マスコミ (朝日はほんの一例ですよね?) が無罪だと言いたいわけではないですが、 ほんとうに煽動の罪を逃れるためには、当時は、 報道を廃業するしか道はなかったと思います。 つまり、当時のマスコミは、「廃業しなかった罪」に問われます。
家永裁判の話ですが、あれは、検定側が変だということを言いたいために 持ちだした話です。家永教科書が不合格で、つくる会教科書が合格なのは 基準がよくわからない、ということです。