live-gonの日記: 平等な受容体 - IT観察
ネットワークゲーム(オンラインゲーム)を舞台にしたフィクションはいくつかある。.hackとか空談師などだ。作っている人間がかなり力を入れているのは分かるのだが、なぜかのめり込めない。簡単に推測できる理由としてはそれがゲームをやっているだけの内容になってしまうからだろう。どんな戦闘シーンでも、ミステリアスな謎解きでも、舞台がゲームでは、それを見ている方はその上のレイヤからフィクションを見てしまうことになる。そもそも、受け手が感情移入するのはゲーム内のキャラクターではなく、そのゲームを操作している人間なのだ。そうするとフィクションの中の人間もマウスをクリックし、キーボードを叩いているだけということになってしまう。夢中になれる要素ではない。
ファンタジーや異世界ものなら、そのままの舞台にしたフィクションでいい。それを舞台にしたゲームなどという仕組みを用意するからややこしくなるのだ。そのような凝った仕組みを用意するなら、それでなくてはいけない展開でなくてはならないのだけど、ゲームを舞台にしたフィクション――繰り返すがファンタジーなどといったジャンルではなく、フィクションの中の登場人物がゲームをしているフィクションのことである――で、これはというほどのめり込めたものはない。
小道具として使われることは多いにある。綿谷りさや田口ランディを想像したけど、心理描写の小道具としてなら大いにあり得るし、ゲームオーバー以上の緊張感を持たせることもできる。長門有希のタイプする文字がディスプレイに出たとき、その一文字一文字を読み逃すまいとしたし、もっと印象に残ったシーンとしては、村上春樹の「ねじ巻き鳥クロニクル」で失踪した妻とチャットするシーンがある。あれには、もう一度やり直せるという楽観的な雰囲気はまったくなかった。ゲームではなく、一発勝負のやりとりだったのだ。
リモートネットワークとして携帯や掲示板、それにもしかしたらオンラインゲームが演出上のやりとりを仲立ちすることは大いにあるだろう。うまく小道具として使われている例もたくさんある。けど、それはフィクションの中の登場人物がダイレクトにやり合うものとして使われているからであって、登場人物がその中でさらに架空の人間を演じているわけじゃない。表現されているものが「生」なら分かりやすいのだ。ゲームを舞台にしたフィクションはあまりうまくいってない。
作り手がしかし、その舞台での表現について考えることは実に自然だと思う。私も中学生の頃はゲームに夢中になる人間たちの物語が、娯楽にならないだろうかと思ったものである。自分が夢中になっているテーマで作品にならないかと考えるのだ。それに、自分が夢中になっているんだから、その豊かさをなんとか形にしてみたいと思うのも自然なことだろう。
今はまだうまくいってないだけなのか、それともそういうインスパイアのされ方は何も生み出さないのか、結論はおそらく近いうちに出るだろう。
「Second Life“不”人気、7つの理由」ってことだけど、これはスラドの記事にも関連ストーリーが出ている。「セカンドライフ」は日本で受け入れられるか?だ。
世界的に見てもそれほどヒットしているわけではないそうである。そして、それもそうだろうなと思う。セカンドライフでは自分の作ったものを中に持ち込み、それを人に売ることができるそうだ。じゃあ、ゲームの中で売り買いされたオブジェクトはなんなのだろう。ただのCGデータではない。ただのCGデータをセカンドライフの中に持ち込むことで二重のフィクションになってしまった代物だ。
その気になればセカンドライフの中で小説を売ることもできるだろう。その場合の小説とはなんだろう? セカンドライフの中でしか読めない物語か? そうじゃないと思う。フィクションの中のフィクションは、入れ子になったり深い階層になることはない。それはやっぱりフィクションで、セカンドライフのオブジェクトをダウンロードしてきたCGデータが、セカンドライフとは関係のないCGであることと同値である。
虚構と現実は違うものだ。だけど、虚構の中の虚構はそれ以上の虚構になることはない。虚構の世界は常にフラットで、それを受け取る頭の中に平坦なデータとして入力されるだけである。
すごく当たり前のことだけど、フィクションの中身は受け手の想像力という一つの対象を刺激するための道具に過ぎないのだ。由来の複雑さに意味を持たせることなど出来やしない。もっと正しい言い方をすれば、受け手が由来の複雑さの意味を汲み取ることなど出来やしないのだ。
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