パスワードを忘れた? アカウント作成
493372 journal

live-gonの日記: フラックス - IT観察

日記 by live-gon

「こいつはなんだ?」荻原は目の前のポストカードを見て呟いた。

ポストカードは一般的な大きさ、一般的なデザインだ。切手を貼るスペースには何かのキャラクターの顔があしらってある。『五十円切手を貼ってね』という吹き出しは特にない。1999年の消印があり、宛て先は治田市二丁目のアパート。長松弦師様と書かれている。関係者かもしれない。差出人は同じ治田市の住所で名前は仙頭孝三とボールペンで書かれている。メールアドレスや電話番号の類はない。宛て先も差出人も同じ面に書かれていて、上下二段に分かれている。本文は下段に書かれている。大きな文字で殴り書きされている。漢字ばかりで読めない。宛て先を書いた人間とは別の人間の字のように思う。これだけ筆書きだ。

萩原は顔を近づける。

ポストカードは富士通、世界最小・最軽量のビジネス向けPCを発表と先日発表されたばかりのパソコンの表面に貼り付けられている。セロテープの類は見当たらないが、上に乗っているわけではない。なぜならそれは寝室の引き出しに立てかけられているからだ。引き出しの中身は四、五歳と見られる男の子の死体で、染み出した血が引き出しの角から滴り落ちて畳に深く染み込んでいた。血はまだ乾いていない。実際、引き出しを開けたときは底に溜まった血がたぷんと波打ったくらいだ。

鉄の臭いが充満している。

かなり気分は悪くなったが、萩原は殺人事件の現場で吐いてはいけないという善良な一市民の義務感から――それと男がそういうことをするのは恥ずかしいという見栄から――耐え、目当てのものを探した。

こうなってはあまり意味はない。ボランティアをしている関本珠里から頼まれて、忘れ物の手袋を取りに来たのだが。

立ち上がる。天井には裸電球。指紋をつけてしまった。立ち上がってみ下ろす形になると、引き出しの子供のコンパクトさが網膜に焼きつく。よくこんなところに入ったものだ。安っぽい明かりの中で膝を抱えたまま丸くなっている。シャツが血を吸っている。どこから血が出ているのかわからない。

「電源を入れろ」その声は引き出しから聞こえた。子供の声だ。

萩原はびくりとして目をこらした。

引き出しの子供は膝を抱えた胎児のポーズで収まっている。体の左側を下にして、顔を角にぴったり付けている。詰め込むならこれしかないだろうという入れ方だ。その、隅にぴったり付けた顔が、いつのまにかわずかに上を向いていた。眼がこちらを向いていた。頬は白く、血の気はまったくない。口元が動いた様子もないが、眼球だけを萩原の方に向けて、「電源を入れろ」とまた言った。

萩原は小さな子供にそんな風に命令されて言うことを聞くような男ではない。大体、子供は嫌いだ。

「電源って、パソコンでいいのか?」

「入れろ」

引き出しの隅に顔を押しつけたままなので、それはひどくくぐもって聞こえた。それどころか、溜まった血が口元で波打っているのが分かった。

萩原はパソコンを手に取った。ポストカードは血で貼りついていた。蓋を開き、電源らしきボタンを押す。ブーンという音が聞こえた。

引き出しの子供は今度は下に顔を向けた。後頭部を見せる。突然、ずずずーっと味噌汁をすするような音が聞こえた。

ほとんど本能的に嘔吐を催した。どこかに駆け込む暇もなく、手にパソコンを持ったままゲロを吐いた。両手を上げ、腕の間から畳に豪快に吐き出す。

引き出しの少年がすする音は萩原の耳にこびりついた。

パソコンを持ったまま、玄関横の流しに向かう。洗い物はない。シンクにお情け程度のゲロを吐き、蛇口をひねった。パソコンは流しの横に置いた。流れる水に口を付けて、吐きながらうがいをした。ひょっとしたら半狂乱になっていたかもしれない。

背後から小さい影が近づいてくるのが分かった。見たくはなかったが、そばに来る前に見ておく必要があった。

体の左側が血だらけだ。髪もシャツもべっとり。深さ五センチほどの血の池に沈んでいたんだということがよく分かる。少年の口元に大量の血が付いていた。黒目が異様に大きく、昆虫か獣の目を思わせた。口元になぜか笑いを浮かべている。

「それを剥がしてくれ」少年は言った。パソコンを指している。

萩原は目を離さずに蛇口を締めた。音が消える。少年との距離は二メートルほど。彼は寝室の敷居の辺りに立っている。

口元をぬぐう。

「剥がせ」

萩原はパソコンに手を伸ばした。縁に指をかけて引き寄せる。ステンレスの上を滑って、台の上から落ちた。掴んだままなので、それはぶらりと揺れて彼の体の横に収まった。貼ってある紙はそのままだ。

「近づいてきたらこれをぶっ壊す」萩原は言った。

子供が躊躇したのが分かった。一息おいてから、「あまり意味は無いぞ」と言った。「お前を仲間にするように頼まれている」

「誰だ?」口にしてすぐに分かった。関本珠里だ。彼女以外に誰がいる?

「仲間になれば貸してやってもいいぞ」近づかずにその子供の姿をした生き物は言う。「妊娠を心配する必要はない」

どう見てもただのガキだ。身長だって彼の腰くらいだ。全力で蹴っ飛ばせば壁の反対側まで吹っ飛ぶだろう。「うるせえよ」

「パソコンを置け。それから深呼吸をするんだ」子供の高い声だ。「煙草は体に悪い。塩分の摂りすぎはよくないな」

足の力が抜けた。両足で立てなくなった。後ろに重心がズレる。腕を振り回し、足を上げてバランスを取ろうとするが、腕は動いても足が動かなかった。倒れる。キッチンのテーブルが派手な音を立てた。倒れてから、太ももの太さが半分になっていることに気づいた。盛大に血が出ている。手に持ったパソコンが血だらけで、放射状にナイフが突き出ていることに気づいた。よく見るとパソコンを持っていた手の指がすべてなくなっていた。それでもなお表面にはポストカードが貼りついている。内側から突き出したナイフのせいで穴だらけだ。

恐ろしいことにそれでも痛みがまったくない。指のない自分の手に気が遠くなるばかりだ。

無事な方の手でキッチンの椅子を掴む。横になったまま這いつくばり、パソコンにそれを叩きつけた。金属音が響く。ナイフがすべてひしゃげる。本体が少しだけ折れた。

「なにをするんだ!」ガキがまったく的外れなことを言う。

椅子を振り上げるのは這いつくばったままだと難しい。彼は指のない手のひらを床に付くと、無事な方の手の肘を落とした。音はパソコンそのものだ。プラスチックの割れる音がする。歯を食いしばり、エルボードロップを繰り返した。

音を立ててパソコンが真っ二つに折れる。中身は泡立つナメクジのようだった。眼のようなものが表面に浮かんだかと思うと、内部から血管に被われた泡のようなものが浮かんでそれと混ざりあって消えた。半透明な部分が伸縮を繰り返し、折れたパソコンを修復しようと努力していた。萩原はなんなのかまったく理解できなかったが、それを手で掴んで床ですり潰した。感触としては腐った水槽の藻の塊が近いだろうか? 萩原はそんな物に触ったことはないけれど。

すり潰すと表面が破れ、ゲル状のものが溢れ出した。なんだか分からないまま、冷たくなっていく足のことを考えつつ、萩原は目をつむった。

物音が聞こえた気がして、目を開けると、子供の形が崩れていくところだった。口から大量の水を吐いていた。それは透明で、何も混ざっていないように見えた。水が吐き出されると、そいつの体はみるみるしぼんでいった。萩原は再び目を閉じた。

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
typodupeerror

日々是ハック也 -- あるハードコアバイナリアン

読み込み中...