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live-gonの日記: 彼女は探索の呪文を唱えて先回りする 後編 - IT観察

日記 by live-gon

前編より

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翌日、錦織が栗原の部署に薬を届けに行くと、彼は待ちかねていたようにそれを受け取り、すぐに使った。相手は事務をしている二十代の女の子で、身長は百五十センチくらいなのに、体重は六十キロありそうだった。

はい、コーヒー。あ、そうだ。この香水使ってみてくれる?

栗原に話しかけられると彼女の顔はパッと明るくなった。分かりやすい。錦織は心の中だけで顔をしかめた。

栗原のやり方はほとんど電光石火といえた。身振り手振りが大きい。笑顔にわざとらしさがあった。同時に二人の女性に意地悪をすることができるのだから、彼にとっては最高のシチュエーションなのだろう。間違いなくサディスティックな快楽を意識していた。女性に使うためのものではないと承知の上で、きっと似合うと思うんだなどと吐いたのだ。

「社内はほとんど魔術師だから、退社後にあとをつけよう」

栗原にそう言われて錦織は自分の席に戻った。通常業務が始まったが手につかなかった。薬の効能としては問題がないはずだった。性別に依存した部分は異性という特定の仕方であり男女の別はなかった。だがセクハラ対策としてはどうか? セクハラというのは男性から女性にするものだ。理屈だけの反論はともかく事実はそうだ。言い寄られることの不快感など女性がわざわざ薬で体験して学習するようなものではないだろう。一方で錦織が何が起こるのか分かっているかというとそんなことはなかった。頭を切り替えてこのデータを集めるのだと自分に言い聞かせた。

栗原と連絡を取り合って事務の女の子の退社に間に合わせた。顔がよくて人気の男性社員と一緒に帰ることは何かしらの噂を招くことになるだろうが、錦織はほとんど考慮していなかった。

二人が受け付けの物陰にいると、事務の女の子が出てきた。まわりに挨拶をしながらビルを出ていく。二人は早足で追いかけた。彼女が外に出ると、最初のそれが引っかかった。

前を通りかかったスーツの二十代が彼女に話しかけた。身長が高い。病的に痩せているが、髪が長いのでアーティストっぽく見えなくもなかった。なにかの職人を思わせる切れ長の目。細い眉。薄い唇。ニキビの跡が残っているがまあまあの顔だ。ネクタイは淡い緑と青のグラデーション。「やあ。素敵な服だね。もしよかったらこれから夕食に行かないか?」

栗原が吹き出し笑いを思い切り我慢した。ぶー! 鼻水が噴き出た。

笑い出す気持ちは分かる。

彼女の方は凍りついてなにもできない。あ、の一言さえ発すことができないでいた。目を白黒させている。口をぱくぱくさせ、相手の顔を一瞬見たあとは顔を伏せてしまった。全身に力が入っているのが遠目でも分かった。

「すいません。ぶしつけでしたか?」相手はあくまで紳士だ。薬による異性へのアプローチの方法は影響を受けた人の性格や習慣に依存する。この男はずいぶんスマートだ。

薬の性質上、下心がみえみえになってしまっているところが実に惜しい。

別の男が割り込んできた。「ちょっと待ってくれ。僕にもチャンスをくれないか?」

彼女が声をかけられて大袈裟に肩を震わせる。暗がりで驚かされた人のようだ。夜の公園で物陰から変質者が飛びだしてきたらこういう反応をするだろう。栗原がまた吹き出す。あっはははは、もう駄目。

三人目が現れると怯えた彼女は駅の方に向かって走り出した。さらに男が増えて、四人がそれぞれ、「あっ、待って」と声をかけて追いかける。それは恋に落ちた男の哀れさだった。古今東西、こんなシーンは枚挙に暇がない。逃げる彼女を追いかける人の群れはどんどん増えていく。道幅一杯になるとあっという間に追跡は不可能になった。

「お願いだから電話番号だけでも教えてくれーーー!」

栗原は身をよじって笑い続けている。錦織は駅までの道をたどったが、展開は目に見えている。旬の芸能人のような状態が改札まで続くだろう。解除するには八時間を待たなくてはならない。解毒剤のようなものもあるにはあるがうまく使えるかどうか。錦織は栗原を置いて駅へと向かった。

改札前での人垣は三十人程度だった。ある程度より増えていなかった。駅前の人気のパフォーマと同程度といったところか。彼女は下を向いて小さくなっていた。その周りの五人ほどは熱烈にアプローチしているが、さらにその周りはうろうろして見るだけであり、その外側は単なる野次馬と諦めのよい男が増えたり減ったりしていた。男たちには学生もいれば壮年のナイスミドルもいて、また明らかにカタギでないスーツの男やお洒落なエグゼクティブや鳶服を着た肉体労働者までいた。種類の違う男たちをまとめて見るのは非常に面白かった。つい顔がほころんでしまう。アピールの仕方も自信たっぷりだったりうっとうしかったり控え目過ぎて苦笑してしまうものや脅迫だかなんだか分からないものまであった。「いい女だな。メシをおごるからこれからどうだ?」「映画のチケットが二枚あるんだ。もしよかったらどうかな?」「これから一緒に遊ぼうよ」「大丈夫? 困ってない? 助けてあげようか?」「僕は君に何をしてあげられるかな?」「いいからちょっとこいよ」「あ、あ、あの、その」「結婚してください!」

思わず笑ってしまった。五人の、同じスポーツバッグを肩から提げた男子中学生が同じように笑っていた。スーツに身を包んだ女性が無関心に歩いていたが、「ひと目で好きになったんだ」という声を耳にして目をぱちくりして足を止めた。ぱちくりという形容がこれほどふさわしい仕草もそうはないだろうというような驚き方だった。男たちの全員が真剣なのだ。

おっかなびっくり取り巻いている人間は多い。とりまきの五人のほかはその外側から覗き込み声をかけるでもなくただ見ている。立ち去ろうともしない。人数は多いのだが、そういうつかず離れずな男が多く、錦織としても解除の行動に移せなかった。中心の彼女は俯いたままだ。得体の知れない状況に対応できなくて体を固くしてじっとしている。誰かが助けてくれるのを待っている。錦織は教室の前で晒し者になっている子供を連想した。

髪は切っただけの短髪で、青と赤の格子模様のシャツを着た男が熱心に彼女に話しかけていた。話しかけるときの挙動が腹を立てた鶏のようにせわしないためにキモい印象を受けたが顔は普通だった。なぜか自分がいかに星が好きか、晴れた空に山へ行って天体観察をすることの素晴らしさ、そして先月見た夜空の素晴らしさを熱心に語っていた。「星の光っていうのは何万年もかけて地球にやってくるんだ。この宇宙にはたくさんの星があって、それは核融合を繰り返して光を放ち、少しずつとても長い時間をかけて寿命を迎えているんだ。そういうのを見ると、僕は自分が何てちっぽけな存在なんだろうかと思う。同時に、自分もそんな宇宙の一部なんだと思う」

趣味の話を一方的に話す人間は意外と多い。「昨日も夜まで仕事だった。イベントの仕事っていうのは時間が読めなくてね。けど、当日になってみんなが楽しそうにしているのは最高の気分だし、それが終わったときの感動は筆舌に尽くしがたいものがある。苦労もいっぺんに吹き飛び、次も頑張ろうと思えるのさ。もっとも、大抵はイベントは平行で進んでいるから余韻に浸る時間も短いがね」

質問攻めも多い。「名前はなんていうの? どこに住んでるの?」聞いていたのはホストのようなジャケットを着た長髪の男だった。本物のホストかもしれない。

五十代と思われる髪の薄い男がいた。背が低く、太っていて、歯並びも悪かった。何日も洗っていないような黒い作業着を着ていて、肩にはフケが散っていた。目と鼻は小さくまとまっていた。話しながら手を合わせ、それを左右に振っていた。小さな女の子がお願いをするような仕草だ。「あのね、僕ね、君を食事に誘いたいの。どうかな? 付き合ってくれないかな?」

二十代とも四十代ともとれるアーティスト然とした格好の男がいた。肩からインドか中南米の民族衣装のような布をかけている。四角い口をしていて、幅の広い唇の左端にピアスをしていた。左の眉にもピアス。髪はドレッドにしていて、それぞれに小さな蝶か花をあしらったリボンをつけている。ほかの男たちが最前列で求愛しているその後ろに膝をつき、オペラのように手を伸ばした。口に薔薇を咥えていないのが惜しいくらいだ。咥えていない薔薇が見えるような気さえした。「もしよければ、君と出会いたい。そして知り合いたい」

事務の女の子はそちらをチラリと見た。

彼は言った。「もしよければ、彼女と僕のためにそこをあけてくれないか?」

男たちは二人の間に道を作った。不思議な光景だった。彼女は俯いたまま目をあげた。盗み見るような仕草だ。はっきり見ることでさらなるトラブルに見舞われることを恐れているような。そして一瞬の後に男の方が言った。「いや、いいんだ。忘れてくれ。すまなかった」立ち上がると男たちにすまないと声をかけながら改札へと向かった。事務の女の子は下を向いたままだったが、その視界で彼を追っていることは明らかだった。

あけられた道はふさがれ、また男が入ってきた。

男たちの輪は彼女から離れると急に間隔を広げていた。路上ライブの一般客といった体だ。そのあたりでは邪魔にならないような間隔をあけて頭と頭の間から彼女の方を覗き込んでいる。どれも一様に、それほど興味のない野次馬といった態度を取っている。媚薬の効果があるのだから実際に興味がないわけではないのだ。ただそれを表面に出さないことを選択した男たちだった。そのような男たちは少しずつ間隔を広げながら駅の通りの向かい側にまで広がっていた。錦織が観察の目を広げると、十メートルも離れた学習塾入り口の階段前に少年が三人並んで立っていた。会話はしていない。三人ともが腕を組んで仁王立ちのまま輪の中心を見ている。

マクドナルドの二階席や隣のビルのただの事務の窓からも人が覗き込んでいる。俺にも見せろの押し合いではない。計ったような等間隔で通りを覗き込んでいた。表情はない。観察しているような目つきだ。

足を止めて観察する男ばかりではなかった。人ごみに興味を引かれ彼女を見て媚薬に影響されるのだがそこから無視して立ち去る者もいた。振り返る老人もいれば振り返らない中学生もいた。媚薬の効果は八時間で消えるがその影響は残る。立ち去る者にとってはそれは気になる女性がいたけど勇気がなくて声をかけられなかったといった存在として残るのだ。それは後まで残る媚薬の効果ではあるが副作用と呼べるものではない。日常のささやかだけど印象的な出来事という奴だ。媚薬の影響を受けてもライバルと争おうとまではしない男たちが大半だった。通行人は足を止め彼女を見るがそのまま立ち去る。最前列では諦めのいい男が退場し、いなくなったところに別の男が入り、前に詰められて、そうすると通行人の何人かが足を止めて見学者の仲間入りをする。別の男は「iPhone 3G」がもたらす“ケータイの未来”の話をしながらチラリと見るだけで通りすぎる。

立ち去るタイプや立ち止まるタイプや積極的に輪の中に入る男などに一定のタイプはなかった。自由業もいればビジネスマンもいる。デブも痩せもチビものっぽもメガネも長髪もイケメンもブサイクも通りすぎる男は通りすぎるし立ち止まる男は立ち止まった。中には錦織の好みの童顔の男の子っぽいタイプもいて、うわーと思ったりもした。無視したことに安心したのもあるが、どんな風に求愛するのか見てみたくもあった。朗らかに「やあ、こんにちは」とか話しかけて欲しかったな。

大学生くらいのバックパックを背負った青年がいた。猫背で髪はぼさぼさ。ぱっとしない服装。理系の大学にいそうなタイプだ。身長は一六五といったところ。輪の中に入って彼女に近づこうとしてた。下を向いたまま人を押しのけている。肩を割り込ませたり腕を突っ込んだりしている。彼女の正面ではなく横から近づこうという計算のようだった。割り込みが強引でまわりの反感を買っている。だが押し返されるほど決定的ではない。

髪の薄い中年の男性がしつこく、「あのね。お願いなのね。一度だけでいいの」と誘っていた。祈るような手つきとくねくねした腰つきを続けている。バックパックの青年はその横から回り込んで事務の女の子の目に入らない角度に移動した。人の後ろから彼女に近づき、そこで頭が低くなった。膝を折ったのだろう。錦織の位置からも消えたように感じた。

女の子が体をビクリと動かした。下を向いたまま混乱が過ぎ去るのを待つ態度は変わらない。足の位置を変える。囲まれているのに、そこから距離を取ろうとしていた。

おい、という声が聞こえた。怒鳴り慣れている人間の声だ。人ごみの中にさっきの青年が現れた。近づいたときと同じように強引に立ち去ろうとしている。同じ声で再び声が発せられた。まわりの男たちはそれほど反応しなかった。青年が去って行く。駅のホームのアナウンスが聞こえた。男たちの音が一斉に止まった。錦織も息を呑んだ。彼女が小さい声で何かを呟いているのだ。まわりの男たちはそれに全力で耳を傾けている。これまでにないほどの集中力で聞き耳を立てた。しかし錦織の位置からでは彼女の声はぼそぼそとした音でしか聞こえなかった。静まりかえっていた。そして徐々に音が復活してきた。男たちは声を掛け始め、遠巻きが様子を窺い、多くの人間は気のないふりをして通りすぎた。

小太りの年配男性が現れた。黒のスーツに身を包んでいる。傷跡の残る口を横に堅く結び、誰も喧嘩を売っていないのにいつでも買える態度で睨みつけている。舌打ちをしながらやってくると男たちは道をあけた。女の子の腕を取るとそのままどこかに連れ去ろうとした。少し彼女がつんのめる。輪をかきわけてから男は振り向き男たちを牽制した。集団がその一人の男を相手に怯んでいた。女の子はされるままに引っ張られてどこかに連れていかれるところだった。

自分の薬は安全だと思っていたので錦織は反応できなかった。そばに栗原が来ていた。無責任な口調で責める。「こういうときはどうなるんだっけ?」

使用者が薬を犯罪に利用することはできない。本人が好意を持ったり欲情すると無効化されるからだ。だけど嫌っていたら? 薬を使用した人間が暴行されるとしたらどうだろう? もともと使用者が不愉快な思いをすることを目的として作った薬なのだ。この状況には薬のガードは役に立たない。

錦織は栗原を睨んだ。とっさに睨んでしまった。

「なんだよ、睨むなよ。いい気味なんだよ」彼は言った。「あいつ、職場の男にセクハラしてたから」

錦織は目を丸くした。彼女がセクハラしてた?

「あっはっは。なにビックリしてんだよ?」栗原はテレビのバラエティのようにノリの軽い突っ込みを入れた。

多くの人が見守る中、男は手を引っ張って歩き続けている。女の子は歩幅を小さくして足を懸命に動かしてついていっている。叱られる子供のように見えた。既に五十メートル、そして百メートルと離れていき、いつのまにか見えなくなった。

栗原の声のトーンは下がった。「行ったな」錦織の顔を覗き込む。「助けるんなら行けば。俺は手伝わないぜ」

思わず彼女は笑ってしまった。それから彼の方を見る。「え? なんで?」

「なんでって……なんで助けるんだ?」

即答できなかった。それどころか理路整然とした言葉がまったく出てこなかった。え、あ、と口から漏れるだけだ。

「そういうわけにもいかないか」栗原は呟いた。面倒なことこの上ないといった調子で。

一方の錦織は栗原が見捨てるのを諦めたときでも状況を認識していなかった。拉致の現場を見たのは初めてだった。

栗原は呟いている。「あー、けどやっぱりやめようかな」

そのとき彼女は人々のざわめきを耳にした。男が一人、また一人と動き出していた。一人が早足で歩き出し、別の一人が走り出した。その後ろから何人かが駆け出す。連れ去られた女の子を追いかけ始める。

信頼できそうな男もいた。そうじゃない男もいた。笑っている男もいた。友人同士らしき二人組が「二人がかりな?」と約束を交わしていた。助けることを目的とした男たちもいた。そうじゃない男たちもたくさんいた。

錦織は身動きせずに彼らを見ていた。女の子を追いかける動きは少しずつ加速度を増していった。誰かがぼそりと、「早い者勝ちだ」と呟いた。その声は錦織だけでなく耳に入ったすべての男たちの意識を切り替えた。耳にした男たちがルールを把握した。彼女は男たちが向かう先を目で追った。背中が並んでいた。身長や年齢がバラバラの、共通点が性別のみの背中だった。

「いたぞ」と誰かが叫んだ。

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日々是ハック也 -- あるハードコアバイナリアン

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