live-gonの日記: カウンターするカルチャー - IT観察 2
その時代を体験したわけではないが60年代70年代というのは、若者による古い伝統を打ち壊すのが時代の流れだったそうで、それも少なくともアメリカと日本ではかなりメインの風潮だったらしい。欧州や他のアジアについては知らないが、そういうヒッピー文化の影響のようなものはあちこちにあったようだ。
具体的に聞くのは、フリーセックスとか親の敷いた人生のレールを外れるといった行為、教会やキリスト教を疑ったり、フォーマルな場にカジュアルな格好で行ったりするような行為だそうな。疑いを持たずに受け入れている既存の価値観を疑い、反旗を翻すべきといった風潮である。
どこで見たのか忘れたが、当時の若者がテレビのインタビューに答えている映像を見たことがあるけど、今の視点──私の視点という意味だが──で見ると、大学生のくせに完全に中二病といった塩梅である。なんかやたら難しい思想や哲学の用語を使い、「こんなことも勉強してないの?」と言わんばかりのドヤ顔には、まさに黒歴史という言葉がぴったりだと思ったもんである。まあ、実際には中二病をこじらせて殺人までしていたそうだから、もうちょっと過激な集団ヒステリーと呼べるものだと思う。歴史上の魔女狩りを集団ヒステリーと見なすか、それも当時のカルチャーと見なすかはそれこそ世代によって変わるだろう。
現役で送ってきた人にとっては、自分の青春を黒歴史などと言わないでくれって反論もあるかもしれない。
ちょっと話はズレるが、『マツコと有吉の怒り新党』において、「昔好きだったアイドルが、当時誰と付き合っていたとか暴露するのに腹が立ちます。当時の純粋な自分を裏切られたような気持ちです」という意見に、「当時の純粋な自分っていうのもズルいね。当時の気持ち悪い自分じゃないの?」と言っていた(言い回しは違うと思うがそんな感じで)。
何かに一生懸命になるというのは黒歴史化と紙一重である。この日記も黒歴史っぽい部分があることは自分でも否定できない。
一体、なんの話かというと、以下の記事である。
友達が減っていくのが、大人の証です。:日経ビジネスオンライン
自身の全共闘時代の影響についても客観的に認めつつ、やっぱり、群れるのはコドモなんじゃないのっていう指摘をしている。
一方で、私が思うに、群れなくなるのが大人になるということでそれが伝統的イニシエーションだなどというルールがあったら……あとは言わなくても分かるよね?
親の世代の価値観に反する方向に若者は向きがちであり、親の嫌悪や反発が──おそらく、「これだからゆとり世代は」などという嘲笑を、「しょせん団塊ジュニア世代は」と嘲笑している層がある──行動の指針にすらなっている。自分が何をやりたいかではなく、何をすれば大人が怒るかを基準にするのである。
全共闘やヒッピーの活動が、当時の人達の本当にやりたかったことだとは思えないのだ。結局、大人を怒らせることが目的の、カウンターだったんじゃないかと。やってることは正反対でも、結局、周りの価値観ありきの言動だったんじゃないかと思うんである。
ここで説教くさく、ちゃんと自分の頭で考えて行動しなさいとか言うつもりもないし、自分がそうしていると言うつもりもない。また、みんながそうであったとひとくくりにするつもりもない。いつでも例外な人はいただろう。言いたいのは、時代とかそのときの価値観というものから独立した、純粋な言動なんてものはないんだろうなあということである。あるいは仮にそんなものがあったとしたら、今度はそんなものは誰からも理解されないだろうということである。
明言されていないから曲解誤解だったらゴメン。 (スコア:1)
あとは言わなくても分かるよね?
ぼっちは天性の大人気質とか早熟の発現である、または熟考したら彼岸へのフロンティアまでたどり着いてしまった悩み多き青少年の偉業とか?
// そういう解釈もできたので違っていたらすみません。
カウンターカルチャー世代が、それ以前やそれ以後のさまざま世代同様同質な同年代と群れていただけということでしたら異論はないです。
Re:明言されていないから曲解誤解だったらゴメン。 (スコア:1)
大人がそういう価値観だというなら、じゃあ群れてやろうというカウンター行動を取るのが若者なんじゃないか、と。
そもそも60年代70年代が、成人して共同体の一員になるべきという旧来の価値観に反発してただけかもしれない、と。
LIVE-GON(リベゴン)