maoyamの日記: チャリンコの乗りかたと永続する学習プロセス 2
日記 by
maoyam
チャリンコの乗りかたを一度憶えると、チャリンコに乗れないという状態がわからなくなる。
永続する学習プロセスというのも、同じようなものなんじゃないかと思う。
チャリンコに乗れるようになるには何度も転んだり擦り傷をこしらえたりしなくちゃならなかった。
永続する学習プロセスを獲得するには、教養を学んで血肉にしていく退屈をこらえたり頭を痛めたりしなくちゃならないだろう。
チャリンコに乗れるようになったヒトは、それに乗れないヒトを面と向かって嘲笑するわけにはいかないので、自転車をチャリンコと軽んじて呼んでみるのだろう。
永続する学習プロセスを獲得したヒトは、それを持っていないヒトをあからさまに愚弄するわけにはいかないので、“教養なんて役にはたたんよ”というアイロニカルな物言いをするのだろう。
チャリンコに乗れないよりも乗れるほうがよいのだし、生きている間は学習を続けられる心をもつのは、もっとよいことだろう。
うーむ (スコア:0)
細い車輪でバランスを維持できるという、乗れてない子供には魔法のように映る
状態を全面的に信用する、構造の理解は脇に置いておくという、
ある種の学習を放棄した状態で会得する現象もあると思います。
必ずしも、乗りたいと思う強い意志を持って乗れるようになっていないので、
会得のために支払った努力とその過程が、血になり肉になっていないと思うのです。
車やバイクに比べて免許が無くても乗れるチャラい、チョロい乗り物として、
それが不便なものとして、チャリンコというようになったのではないでしょうか。
乗れていない人だけでなく、乗っている人も小ばかにするニュアンスがある気がします。
私などは、自転車に乗るのが周囲と比較して遅く、長い間補助輪付き自転車に乗っていたので、
乗りたいという強い意志もあり、物心のつき具合から乗るために必要なコツを探り当てるのに
だいぶ注力した経験が残っています。社会では人より遅れて会得しているので、成績をつければ
低い得点になるのでしょうが、他の何かに応用できる過程を記憶出来たので良かったと思ってます。
乗れていない時の状態は、ある種の心理的ブロックですから、乗れないという状態がわからない
と言うよりも、乗れなかった時に障害になっていた原因を覚えていないか意識しないという事かも。
私は下り坂道を使い、ペダルによる加速、ブレーキの制動、ハンドルの制動を覚え、
それを登り坂に切り替える、という手順で会得しました。
自転車に乗れるようになる本で、漕いでる限りは倒れないという事を学び、
漕がなくても倒れない状況でブレーキを使って安全に降りる所作、安全の確保を最優先で徹底したので
まったく転ばずに会得しました。多分会得のメソッドは色々あると思うのですが、
乗れなかった時に障害になっていた原因を記憶している人の間でも、そのメソッドの違いで
学習に必要なモチベーションやブレイクスルーを獲得するアタリのつけ方は異なるかもしれないです。
メソッドの、優劣は簡単に決まるものではないですが、メソッドを意識して行動するというのは、
成功を再現するという体験を量産することに繋がる、とどこかの本で読みました。
#思いつくままに書いたので、見返したら赤面するかもしれないけど、送信
メソッドが流通するには… (スコア:1)
そしていくつもあるメソッドを意識しておけるようになるにはベースとなる教養も多くなり、“巨人の肩に乗る”作業が必要になる。
もちろん、巨人の背中をよじ登っていくルートはいろいろでしょう。
そして、いろんなルートを辿って肩に乗れたそれぞれの心には同質な意味を持つモデルが組み立てられる……
そんなことを思いました。
# チャリンコの乗り方にメソドロジカルなやり方もあったのか!と驚きでした。