masakunの日記: 箱根小涌谷と二子山に存在した噴気地帯について 2
「箱根火山に於ける瓦斯噴孔及鑛泉」平林 武、地質學雜誌 5(52), 142-154, 1898-01-20
噴出するガス体の性質によって三種に分かつとを得、これらは漸次相変邏し来るものにしてその初期には主として亜硫酸もしくは硫化水素ガスを吐くかくの如きを総称して硫気噴孔(Solfatara)と称す。その硫酸減少するにしたがって次第に水蒸気を増加し終いには全く水蒸気のみを発するに到るこれを水蒸気噴孔(Fumarole)と称す。その晩年においては水蒸気も衰え単に炭酸ガスのみを漏らすに到るこれを炭酸ガス噴孔(Mofette)と言う。箱根火山においては容易に異常の変遷を目撃するとを得可し。即ち大涌谷、早雲地獄、硫黄山、湯の花澤の四者は第一期の硫気噴孔に属し小涌谷は第二期水蒸気噴孔にして独り第三期に属すべき炭酸ガス噴孔を欠けども其の跡ならんと思うべきものは上双子山の西北麓にあり。
硫気噴孔は又さらに二分するとを得、即ち主として亜硫酸ガスを吐くもの及び硫化水素ガスを発するものにして、前者は第一期中にも初期にも属すべきものにして大涌谷及び早雲地獄の如きはこれなり。後者は第一期中の終期に属すべきものにして硫黄山及び湯の花澤なりとす。
(略)
小涌谷 一に小地獄と言う神山東方の一瘤出山の北址にありまた往時小爆裂の跡にして、現今はわずかに岩石の裂隙より水蒸気を吐出するのみなれどもかつて以前には硫気噴孔たりし事は霙爛せる泥土中に硫黄および黄鉄鋼の存在せるとにて知らる。硫黄は百分中一〇・五を含めりと言うまた少許の熱湯を湧出す。これ噴孔は小なりと難ともつとに至便の地をしむけると高燥至便の地にあるをもって大涌谷と併せて人口に膾炙する所となりとす風穴 上双子山の北麓にあり長方形の裂孔にしてその四近にいたれば涼風面をかすめて来るゆえにこの名ありと、あるいはかつてガス噴孔たりし遺跡ならんか
その他南方湯河原谷爆裂の跡も一時噴気孔となりしものにして、霙爛作用著しきも硫黄の存在なくまた黄鉄鋼をみると少なきより考えれば多分水蒸気噴孔たりしものならん。
小涌谷という地名は有名だが、噴気地帯の面影は今やまったくない(気づかなかっただけかもしれない)。記事によると「神山東方の一瘤出山の北址」とあるが、今でいう丸山(960mの北側)か。たしかに地理院地図をみると丸山の北寄りに「小涌谷」とある。やっぱり三河屋旅館の裏手なのか。
上二子山の北麓にあるという風穴は見てみたいが、特別保護地区につき一般人の立ち入りはできませんか。
戦前の箱根外輪山解釈の変遷 (スコア:1)
「箱根火山鳴動に就て」 [nii.ac.jp]小倉 勉、地質學雜誌 24(282), 140-149, 1917-03-20
平林先生の岩石学上の研究によって浅間山・鷹巣山が箱根外輪山とされていた大正時代に、早くも駒ヶ岳からの地形観察によって、浅間山・鷹巣山が「前期中央火口丘」と指摘していた方がいたとは。その後浅間山・鷹巣山が新期外輪山とされる久野先生の説が長らく支持されたが、21世紀に入ってから火山噴出物がつまびらかにされて、今浅間山・鷹巣山は「中央火口丘」とされている(というか久野先生が主張された新期カルデラの地形が明瞭ではないためでもあるが)。
さらに興味深いのは、早川泥流堆積物の由来と考えられる先神山があったと現在考えられる台地が「穂無平」と呼ばれていたこと。当時「火口原とならざる」と考えられていた早川沿いの台地(二ノ平や大平台)はいまや早川泥流堆積物が浸食作用で残った平地であることが判明しているし。
ちなみに「箱根火山鳴動に就て」は大正6年1月30日午後6時から31日午前2時にかけて頻発した有感地震の聞き取り調査報告。機械式地震計がまだ置かれていなかった時代のため、現在世間を騒がせている無感の群発地震とはちょいと次元が違うのだが、
大きな被害や暴噴すらなかったが、誇張した記事を書く新聞、出どころ不詳のデマが飛び交う事態だったようだ。あれから100年近くたっているわけだが、「大規模噴火」みたいなキーワードが独り歩きするところなんか、いまだに火山情報の伝え方は進歩していないなと。
モデレータは基本役立たずなの気にしてないよ
Re:戦前の箱根外輪山解釈の変遷 (スコア:1)
>久野先生が主張された新期カルデラの地形が明瞭ではないためでもある
と小林先生の論文に書いてあったのは覚えているが、オリジナルを読んだことはないのでついでに。
「箱根火山の構造と變選史」 [nii.ac.jp]久野 久、地質學雜誌 43(513), 376-377, 1936-06
これが長年教科書に載った「久野の陥没モデル」ですね。
モデレータは基本役立たずなの気にしてないよ