mkrの日記: 打ち上げ花火アニメ版がどうしてダメになったのか考察
原作TV版は未見なので浅い考察
結論:あの繰り返しギミックは入れるべきじゃなかった。繰り返す必要はない。
原作の監督、インタビューで曰く
http://www.1242.com/lf/articles/67966/?cat=entertainment&feat=cinema
「「if もしも」の脚本を書いている段階から、“if もしも”という設定を使わなくても「打ち上げ花火〜」という話を書けるはずだと思っていたんですよ。
この作品の大きな魅力はこの設定にはないということだ。
ところがアニメ劇場版はこの設定が過剰。なんどももしもをやるし理由づけの小道具も投入した。これがストーリー上必要でもなく無駄。この過剰設定とギミックは考察するだけ原作が目指した魅力から遠のいていくだけ。
やり直しのない主人公二人のロードムービーにでもした方がまだマシだった。今からでも今ある映像を編集し直して「もしも」部分全カットしたらきっと良くなる。
そして原作が小学生だったものを中学生に変更。これに合わせ主人公たちの精神年齢を引き上げるべきだったのだが、成功していない。取ってつけた感じで下ネタを喋らせるがそのほかの言動と一致しない。ウンコウンコ言ってる小学生レベル。原作レスペクトでセリフも似ているらしいがうまくいってない。
中学生に変更したことでヒロインに色気を持たせたが、これが制作会社シャフト風というか深夜アニメというかまんま「物語シリーズ」なので頭を抱える。かろうじて声役が声優ではないのでそのものにはならず救いがあるが、声優+シャフトヒロインを期待していた向きには大不評のようだ。アニメヒロインより声に生身っぽさがあるからだろうか。むしろこの組み合わせはこの映画の中で唯一、良かったのではと思う。
終盤はもしもギミックの過剰投入の収拾がうまくいったようには見えない。中盤、ヒロインとの逃避行が観客の心を掴んだかなというところで、またこのギミックが前面に出てきて観客がそちらに気持ちを向けたとき、映画は終わる。中盤のセンチメンタルな逃避行の記憶は「あのギミックはなんだったのか?」「でも、なんだかわからない」に上書きされて終わる。
映画鑑賞の記憶の中からこの小道具と繰り返しを取り除いてヒロインと主人公の家出物語のみ思い出すとそれなりに魅力的。
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