mujiの日記: 国立劇場 十二月歌舞伎公演
日記 by
muji
木挽町の賑わいをよそに(一応自粛)な客席。orz
いや、想定内とはいえ、こうまで露骨だと……(´・ω・`)
まあねえ、確かに新歌舞伎は好き嫌いはっきり分かれるし、まして(以下自粛(ちょw
- 頼朝の死(よりとものし)
正直、これが一番心配だった。
何しろ真山作品。理屈こね回しまくりの膨大な台詞をどこまでメインの二人がさばけるか、いや、はっきりいってしまおう、どこまで台詞が入っているか。
てえのがあっただけに、初日はハイリスクだなぁと思っていたのだが……
……すみません疑った私が悪うございましたもうしません許してつかぁさいorz
てなくらい。いや、これもはっきりいってしまおう、初日からこれだけ台詞の入った二人って初めて観たかも(ぉぉぉ
もうね、天王寺屋の地力を改めてまざまざと見せつけられた思い。一応後ろに通常の黒衣兼プロンプは付けてたっぽいけど(高脚の文机みたいなのに腰掛けてた、その後ろにぴったりと。文机も実に自然だった)頼った気配なし。威圧感というか殺気というか、秘密の扉云々では背筋が寒くなったし、「家は末代、人は一世じゃ!」の裂帛の気合いは右に出る人はいなかろうというくらい。2年前の昼の部睡眠タイム演目とは思えないよ(ちょwww
#つか、歌舞伎座は客電落としたけど、国立はほぼ明るいままだったからね、あれなら寝ないですみそうだ(ぉ
播磨屋も1、2度軽く詰まったがほとんど気にならず。んー、ただ、ニンじゃないやうな。これまた地力で天王寺屋と大いに張り合っていてぐいぐい引き込まれるのも事実だが、頼家にしては老成しちゃってる感が。松浦侯とか松江侯とか(って松江侯やってたっけ、と見たら1回だけやってるっぽい)、殿様が政子と渡り合っている感じ。癇性には見えないなぁ。
そうはいっても退屈している暇がないくらい。初日から素晴らしいものを観せていただいた、てな。ああ、吉之丞が侍女音羽で元気な姿を見せたのも嬉しい。これ、2年前は芝のぶだったなぁ。小周防より年嵩に見えたんだから大したもんだった。吉之丞は勿論年嵩だが艶やかさと若さが同居しているのも流石。 - 一休禅師(いっきゅうぜんじ)
箸休め。(笑
愛子ちゃんの禿を見る一休禅師がすっかり親バカだたーよwww
魁春(地獄太夫)を観ていてそういえば10月もそうだったな、と思ったのが、妙に呼吸が荒いこと。座っていても胸が上下するのがはっきり見える。激しく動いたあとならまだしも、そうでないときも呼吸が見える。体調に影響がなければいいんだが、って、最近、出演しても一役がせいぜいってそのせいか? 裲襠の髑髏と火炎がキッチュ。
1937年以来3回目の上演、てことで、ほとんど新作も同然。それかどうかは知らぬが、里長が唄の途中で出とちりしたよorz文五郎も長孝もいて個人的にはうはうはな今月の国立長唄連中だが、そもそも出とちり自体フツーないんじゃないかと……
あ、そうそう、天王寺屋2人の後見は例によって(ちょw)勘定奉行。ミスター後見と勝手に命名させていただきますw - 修禅寺物語(しゅぜんじものがたり)
政子と激しくやり合う頼家で精根使い果たしたと見えて、夜叉王の初日感あふれまくりなこと(苦笑)もう新歌舞伎じゃなくてただの世話物。例によって1957年9月歌舞伎座のVTRを見ていった(これ見ちゃうとある意味後悔しまくりなんだけどw)だけに、猿翁の凄さが改めて身に沁みる。今月はこれからだね。芸術家の突き抜けたところの表現に期待。
段四郎(春彦)は多少プロンプ頼みではあったがさほど気にならず。ただ、段四郎に春彦か…と見えてしまうのは致し方ないところか。勿体ないというか。本来なら頼朝の死の方に出ていておかしくはない訳だが、その辺は事情のあるところだろうし。高麗蔵(かえで)はイメージ的にはむしろかつらでもおかしくないような。かえで的な柔らかさがまだちょっと見えにくかった。で、かつらは芝雀。久々にきつい性格の女性役を観たような(笑)最近はその手の役はあんまり演じてなかったんじゃないかな。幕切れの「断末魔の表情」が素晴らしい。
錦之助の頼家、持ち役にしたいと本人が語っていたが、その言葉に違わぬ造形。いや、いきなり去年の御園座最終週レヴェルに持ってくるとは(って(^^;)感情の昂ぶりを安易に声の大きさに頼らないで表現するのは是非そのままで。
ああ、そうだそうだ忘れていた。屋台が多分今までのとはかなり違う。下手側、2階の部屋という趣で、春彦の作業場と思われる一部屋がある。春彦の最初の登場はそこから。いつもの暖簾口じゃない。背景も屋台のすぐ後ろまで山が迫っていて、原作の「そのうしろは畑を隔てて」の「畑」が見あたらない。文字通りの山家の風情。この辺、今回の監修が天王寺屋ということも関係しているんだろう。春彦の仕事場がもっと効果的に使われるかと思ったらそうでもなかったが、これから練り込まれていくんだろうか。
声の大きさ云々、で、常々感じていたことを今月のプログラムのコラムで神山彰氏が触れていたのでちょっと引用。
それにしても、新歌舞伎は、いつから大声で絶叫する芝居になったのだろうか。三代目市川寿海や八代目松本幸四郎(白鸚)の時代の新歌舞伎は、名調子を聞かせはしても、そういう印象は全くなかった。それどころか、彼らは伏し目がちで、思い入れもなく、しんとして何もしないところが実によかった。(後略)
いや全く。殊に真山作品だと叫びまくりで正直疲れることが多い。2年前の頼朝の死も後半は絶叫続きでうんざりだった。
声が大きいのと絶叫と、あと声が通るのとは似て非なるものでもあるし。まあ、新歌舞伎が出来た時代と現在とでは状況がいろいろ変わってきているてえのがあるだろうけどね。その辺、今月は絶叫頼みにならない新歌舞伎を魅せてもらいたいところ。
国立劇場 十二月歌舞伎公演 More ログイン