パスワードを忘れた? アカウント作成
304746 journal

nagajisの日記: 村田鶴が捕まらない2

日記 by nagajis

Kazu Murataさんとコンタクトが取れる見込み?になったので苛々をぶつける必要も失せたわけだが、書きかけで放っておくのも良くないだろうと思うので続けておく。

初めて村田鶴の名を知ったのは土木学会刊『日本の近代土木遺産2000選』でだった。この中に横山隧道、観音坂隧道、谷坂隧道の設計者として彼の名が出ている。谷坂隧道はAランク指定。これは国重要文化財に匹敵する稀有さがあるものに付与されるランクだ。自転車旅で古いトンネルを越え、感銘を受けたことは多々あったけれども、それが普遍的に「価値のあるもの」だとは思ってもいなかったから、このリストに---というよりも近代土木遺産という概念に---目から鱗が落ちる思いがした。そして設計者として挙げられている村田鶴という人物。意匠に凝った隧道ばかり作ったこの人は、一体どんな人だろうと思った。

リストの出典を見てみると『滋賀県の近代化遺産調査報告書』となっている。さっそく複写を取り寄せてみた。しかしそこに村田の業績が書かれていたりはしなかった。それどころか県の技術者であったという以外は一切不明の謎の人物、しかし土木史中の特異点として「経歴を明らかにする必要がある」という。(この言葉がなければ「ふーん」で終わっていたかも知れない。感謝をしなければならないだろう)

村田鶴が隧道群を設計したという話の出典は、滋賀県が昭和48年に発行した「滋賀県土木百年年表」だった。滋賀県設置から昭和40年代に至るまでの県下の土木事業について年表形式でまとめたもので、佐和山、横山、観音坂、谷坂の4つの隧道について「設計者 村田鶴」と記されている(その出典は土木課内部資料とあるだけで追うことができない)。結構遺漏があったり記述があいまいだったりする所もあるが、内部資料を元にした唯一の情報ということで、とりあえずはこれを原点にしなければならない。端々調べて

  1. 少なくとも大正7年から昭和10年まで滋賀県にいたこと
  2. 初め土木技手、後に土木技師兼道路技師(うろ覚え。逆だったかも知れない)
  3. 「隧道工営所」の2代目の所長、草津工営所の主任等を勤めていること

等を知った。知った、とはいえ……それぞれが何を意味するのかわかったわけじゃない。百年年表は文字通りの年表で、詳細な解説が加えられていたりすることはなく、要するに事実の羅列に過ぎない。そこから情報を拾うことは出来ても意味を読み解かない限りはどうにもならない。「隧道工営所」とはどんな部局なのか? 技手と技師はどう違うのか? そういう所から始めなければならなかった。そんなのでよくここまで来れたものだと思う。

303054 journal

nagajisの日記: 村田鶴が捕まらない 3

日記 by nagajis

村田鶴(Kaku Murata)という人のことを調べている。大正7年から昭和11年にかけて滋賀県庁に勤めていた土木技術者である。名前を知ってからかれこれ9年になる。あとちょっとで決着がつきそうなのだが微妙なすれ違いが続いて望み叶わぬままでいる。その苛々をここにぶつける。

彼は滋賀県で数々の道路隧道を設計した。均整な容貌の双子の煉瓦隧道、佐和山隧道横山隧道。コンクリートの自由度を生かした意匠的なC隧道群・観音坂隧道谷坂隧道。彼の在任期間中に滋賀県に作られた道路隧道は 、いずれも造りが一味も二味も違う。彼が関わった可能性があるかも知れない。

建築や橋梁の分野では設計者の名が伝わっていることは珍しくない。専業的にそれを手がけていた人も多い。しかし道路のトンネルにこれだけ集中的に名を残していて、それが今日にも伝わっているというのは極めて稀なケースだと言える。そもそも戦前に、道路隧道を意図的に飾り立てたという例が少ない。機能や施工性を追求した結果として結構な結講に至った例はあっても、もとより装飾に主眼を置いて隧道を設計した例は、そうあるものでない。関東にお住まいの方なら笹子の旧トンネルをご存知かも知れない。あるいは神奈川水道局の東隧道・大原隧道でもいい。あんなものばかり作った人が、かつて滋賀県庁にいたということだ。

それで、彼のことを調べるようになった。こんな変わったトンネルを作った村田鶴という人はどんな人だったのだろうと。動機は単純だった。

167025 journal

nagajisの日記: 多田銀銅山見学

日記 by nagajis

本日(21日)はKINIAS多田銀山の見学へ。長年このエリアの調査研究をされてきたIさんの案内。まず知ることはなかっただろうといういろいろを教わった。人の性(さが)に関する感動もあった。知ればおそらく埋蔵金伝説を笑えなくなる。少なくとも私は笑えない。

多田銀山の辺りは兵庫県猪名川町になるのだが、当時は市の教育委員会に埋蔵文化財の研究者がいず、それでIさんが調査に当たった。日生ニュータウンが出来る以前の話。以来40年近く多田銀山の調査をされているという。文化財登録されたのはつい10年くらい前の話だ。最盛期には*名のある*間歩(坑道)が990幾つもあったという。

薮と時間に阻まれて到達できず、Iさんがしきりに惜しがっていた、堀氏の精錬所跡のこと。これは必ず今年中に行く。こういうことを伝えたいがために私たちを案内して下さったのだろうと思う。川上村のIさんと同じものを感じる。

159437 journal

nagajisの日記: 工手学校土木科@明治41年 2

日記 by nagajis

工手学校という学校は面白いところで、工学の知識を持った職工を養成するため、東大や早稲田の教授といった錚々たるメンバーが教鞭を取っていた。例えば明治20年代には田辺朔郎が道路・隧道を教えていた。一次ソースは国立国会図書館デジタルライブラリー参照。工手学校一覧明治27年版同41年版
興味の中心は明治41年前後の土木科の教員なのだが、残念ながらすぐに判るような人物が少ない。設立当初の教員は理事になっている者が多いようだ。

折角なので教務主理も入れておく。

教務主理
石黒五十二(河港・東大土木科の最初の卒業生、海軍技監、貴族院議員、土木学会第4代会長)
中山秀三郎(港湾・土木学会第11代会長)

教員
実地測量・測量法 伊藤壽郎
製図 花和安年(中央工学校初代校長)
鉄道、道路、隧道、衛生 森早苗(東大教授・新永間高架橋の建設に従事)
海工、水理 山岡元一(上下水道、総督府技師)
施工法、河工、橋梁、材料強弱 米元晋一(東京市技師、日本橋を設計。意匠は妻木頼黄)
実地測量、製図 花村米三郎(明治40年9月〜)
測量法 柏木和一郎(明治41年2月〜)

事蹟その他はネットでざっと調べただけ。深追いはこれから。

154661 journal

nagajisの日記: 双頭レール(と堀田義次郎)

日記 by nagajis

滋賀へゆく時にいつも気になっていた物件へ立ち寄ってみたところ、それとは別件で双頭レールを発見してしまった。「やったぜイヤッホウ(AA略」と思ったものの、帰って調べると既知物件だった・・・という忙しい一夕を過ごした。

も少し詳しく浮き沈みを書く。場所は東山トンネルの西側に架かっている人道橋の北側たもと。境界柵に使われている。真っ暗な中予期せず発見してしまい、触診したら刻印がわかるかもと思って触った一本に見事に刻印があって、しかし真っ暗ゆえに何と刻されているのか確認できず、そこでふとOさんに教わった技を思い出し、ヒップバッグをガサゴソしたらLEDライトが出てきて……!

注記なし

注記あり(あ、Coのoが抜けてる(汗))

Oさんの言や違わず。刻印を調べる時は夜来て横からライトを当てて撮るといい。DARLINGTON IRON Co.,Ltd,の1873年もの。どこで使われてたんだろう?

--------------------

本来の要件は滋賀県民局で村田鶴関連の資料閲覧をすることにあったのだが、その成果物たるCFを県民局に置き忘れてきてしまった(馬鹿。送ってもらえるやろか・・・

梗概、一部書き直す必要があるかも知れない。村田の滋賀県着任は10月15日ではなく2日。その辞令と同日付けで初代隧道工営所主任・遠山貞吉は大津工区長になっている。したがって隧道工営所主任は常時2人体制ではなく、1人の主任が犬上郡坂田郡に駐在していたことになり(それはそれで佐和山隧道・横山隧道の設計者=村田鶴という保証になるのだけれど)、「隧道工営所2代目主任として」村田が滋賀県に呼ばれてきたことがはっきりした。

それから一つ面白いことを発見。堀田義次郎は大正4年〜6年にかけて滋賀県内務部長をしていたが、その前任地は三重県であった(滋賀県内務部長→愛知県内務部長を経て滋賀県知事)。両県の内部をつなぐキーパーソンがいたのではないかと想像していたのだが、その張本人が堀田だったとは。書をよくし、安来節普及の恩人でもあるらしい面白い人だとばかり思っていたが。侮れない。

大正13年、旧国道2号線鈴鹿峠に鈴鹿隧道が作られた。ここで採用された下見板張り風の意匠は滋賀県の百瀬川隧道(大正14年)、観音坂隧道(昭和8年)、谷坂隧道(昭和10年)に伝播した。一方、三重県内には鈴鹿隧道とうり二つの高尾谷隧道が作られている(昭和7年)。さらには鈴鹿隧道のゴチック三つ鉾ピラスターと同形のものが愛媛県の俵津隧道 高研隧道 土屋隧道に存在する。これだけの相似がなぜ起こったのか、どのような径路で伝わったのかは、いまだ解明されていない。そこに堀田というつながり、言い替えれれば滋賀〜三重のツテがわかったというわけで、解明の手掛かりの一つになりそうな塩梅だ。

しかも面白いことに(とは書くが面白がっているのは自分だけだろうが)、堀田が滋賀県知事である間に佐和山・横山・鈴鹿・百瀬川という初期意匠隧道群が立て続けに誕生しているわけで。堀田自身の働きかけではないことは間違いないと思う(堀田自身は文官であって技術者ではない)が、そういうのが推奨された/通りやすかった時代であったのかも知れない。そこに村田鶴は居たわけだ。

ついでなのでも一つ。大正14年(だったか?これはCFのほうに入っているのでいま確認できず)に内務部から内閣へ対し村田の叙勲内申が出され、却下されている。日露戦争従軍の戦功で勲八等を貰っていた村田だが、そこから「品行方正功績多数により七等に昇叙されたし」、みたいな申請。却下理由は「在任期間が短すぎるから」。当時の仕組み的には勤続●年で自動的に昇級するのが普通だったはずで、その流れで申請したのか、本当に「功績多数により」申請されたのか、非常に興味深い。

その後、昭和2年に改めて推薦がなされ勲七等を受取っている。その申請書類の隅に朱書きで「八等→七等は在任八年」(だったっけ?このへんはあとで訂正するかも)とかいう注釈がなされていたのも気になる気になる。

153781 journal

nagajisの日記: クランク交換

日記 by nagajis

10数年もののXC-PROの代替品を求めてイトサイへ行ったものの、ジャストなものが発掘されず、結局DEOLEになってしまった。四角穴のクランク自体少なくなっているうえ、シマノのBBシャフト長さ124mmを流用していたものだから、これに合うようなものが存在しないのだった。BBまで替えるんだったらDEOLEのほうが安上がりになる。

それにしても・・・このランクにまで中空シャフト(ホローテックちゅうんやて、知らンかった)が降りてきているとは。自分が記憶しているのはXTRが中空になってスゲーさすがフラッグシップとか思っていた時代。自転車に長く乗っている癖に最新パーツに関しては浦島太郎状態だ。

取り付けに慣れないものだからかなり苦労した(それ以前にどうやって固定されてるのか理解に苦しんだ。何のことはない、左右で挟んでるんだ)。シャフトとベアリング径の精度の恐るべきこと! 細い髪の毛が一本挟まっていただけでうまく入らなかった。

スターナットBBすら飛び越してやたらと新しいパーツがついた1980年代桑原の末裔。奢ってやったんだからもうちっと頑張ってくれな。

153461 journal

nagajisの日記: 実名を晒すこと 1

日記 by nagajis

乗り遅れてしまったので日記に書くという格好悪いことをする(すみませんねえ小心者なもので)。またいい加減なコメントしてアレするのも何だし。

個人的に実名を出さずにおられないことはさておき、ネットは匿名もしくはハンドルネームでいいんじゃないかと思う。皆さん指摘されているように実名だから質の高い議論ができるというものでもないだろうし、実名として書かれたものが本人を識別するものにも、本人の書き込みである保証にもならない。だいいちHNだって騙ることができる。わざとでなくても被ることはあるだろう。

インターネットはそういうものとして捉えるべきなんじゃなかろーか。誰が書いたか裏付けすることが不可能な情報が回っている世界であって、それをアレコレ議論したり難癖つけたり笑い合ったりするための場所だと。発言者そのものと書いたものとを切り離して捉えるべき場所なのだと。そう考えるといろいろ気が楽になる。こういうありきたりのことを平気で書き散らせるのも、どうでもいい書き込みを見て笑えるのも、自分の興味の範囲にない話題を無視できるのも、ネットだから可能なことなんじゃないかシラン。もちろん書き手=書いたもの、と捉えられる可能性を肯定しつつ。これ読んでテキ認証されることも無視されることも考慮しつつ。

しかしこの考え、現実世界にまで拡張するとえらいことになるな。辞書や教科書に書かれてあることさえ裏付けが取れない・根拠がないということになって、何も信用することができなくなる。絶対的に正しい情報というものはないだろうけど、ものを考える時のものさしになるような情報はあってほしい。そのへんの取捨選択が人格だとか人の個性だとかになるのだろう。実名/匿名議論が蒸し返されるのも、そういう基準が定まってないうえに、無闇に現実と結び付けようとするからじゃないかなあ。

152922 journal

nagajisの日記: 自転車旅にならんかった

日記 by nagajis

大和上市を出発した途端にペダルがもげてしまい、西河まで行って、あとはバスで移動するという体たらく。このメカトラは初めて&対処不能だとはっきり悟った。うーむ。ペダル左右付け間違えたとかいうアホなアレではない。12年ものだから老朽化しておったのだ。そうに違いないのだ。

--------------------

中奥道は諦め、神之谷右岸と高原旧道を確認。なによりTさんのお話を伺えたことが収穫。資料では解決しなかったいろいろな疑問が解きほぐされた。森と水の源流館のみなさんもさりげなく資料出して下さったりしてできる方々とお見受けした。nagajisだけ浮いてたよーな気がしないでもない。

以下箇条書きでメモる。

・神之谷は最後まで木馬(あの勾配で!)。右岸には柱穴・梁穴なし。ちなみにもくもく館においてあるのは「子供のオモチャ」。本物はあの4倍積む。

・伯母谷はトロ道。トロと木馬の使い分けは・・・平らなところはトロ、という話だったけれど。神之谷は古いから木馬が使われ続けたんだろうか。

第一期街道伯母峰峠道は辿ったところで正解。Tさんのお母さんがこの道を越えて北山へ行商に行っていたそうだ。荷は今西茶屋まで。ここで北山からの荷物と交換して帰る。仙岩峠のお助け小屋、請取峠の南の窪地と同じ。

柏木〜迫間にも換線!

鳴川山国有林、本来のアプローチ路は上谷口から阿古滝へはすに登っていく道。Tさんが植えた杉は50年生になんなんとしている。

神之谷⊇三之公なのと同様に中奥⊇北股。中奥から山越えして北股川に出た。

江戸時代の柏木は第一期の道筋でない所が幹線であった模様。Iさん保管の古地図。

高原川の右岸にも見事な木馬道あり。この谷の左岸も見事な一面の杉植林地也。

五社峠は明確な資料はないがTさんも同様の意見。Tさんの父親が馬で越えていたという話があって、それで牛車道と名付けられた>うねうねの方。

ひよこ登山会。

村井商店は日曜日お休み。簡単な食料(ラーメン他)なら上多古の酒屋でも買える。

やまぶきバスを使えば村内端から端まで300円。奈良交通は杉の湯で乗り換える必要がある?

--------------------

高原は「空が近い」。川上村のなかで最も開放感がある。昔から拓けていた在所だというのが実感されるよい世界。

typodupeerror

物事のやり方は一つではない -- Perlな人

読み込み中...