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683792 journal

nameforslashdotの日記: つづき。

日記 by nameforslashdot

Note 60 一般 (salon.general)
[ RESPONSE: 67 of 108 ]
Title: 雑談 (r.7,8,44,67 長文注意)-closed to125
Bytes: 29617 Date : 6:58am 4/19/98 Author:shimpei ( )

                見つかったので掲載します。これもまた「同人誌」に掲載予定だったもの。
                しかしフォント指定のタグは入ってません。なんでだったかな。
                最低限の編集 (改行挿入、同音異義語の訂正) をしました。

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94/01/04

    #○『主観と客観の狭間から』(※1)

    ##イントロダクション [ 哲学・思想の効用 ]

 題名(と主題)について前口上を。主観と客観なんていうことを考えているのは思想
・哲学の分野である(人工知能研究も関わるようになってきているが)。でも,思想・
哲学のコーナーにならんでいるような本(特に値段の高いやつ)が扱うことがらなど
は,知らずとも生きていく上でほとんど困らない。なぜだろうか。お分かりの方は
飛ばして次節へ。

    哲学・思想が扱うのは極限値であることがおおい。条件を日常から離れて厳しくして
いったぎりぎり,ないしあまりに根本的,基本的に過ぎて普通のひとならとうてい
考えている暇がないような事柄について考えたがるのである。たとえば,帰納法は
論理を構築する上での強力な武器のひとつだがこの正しさが実は証明済みではないと
言ってみたりする(※2)。

    もっと広範囲に,たとえば物理学の分野にも基本中の基本だがとんでもなく非日常的
な,常識外れの仮説が多くある(※3)し,史学だろうが生物学だろうが美術だろうが
機械工学だろうが心理学だろうが経済学だろうが,要するに,その学問分野の大問題で
あっても日常生活にはぜえんぜん影響のない現象,定説はちっとも珍しくない。さあ
答えが出た。ひとはこうした「学者の」問題は知らなくとも充分,人間社会を泳ぎ渡る
ことができるからだ。むしろ,知らないほうがうまくことも多いと思われる。考え
すぎたり,配慮しすぎたりすると迂濶に行動できなくなる(※4)のは,だれしも
経験することだろう。

 では,ゆるゆると本論に入る。

    #○1:: 脳が働くということ

    ##脳の機能

    ヒトの思考を司る脳は,個体の生存確率を極大化するために存在している(※5)。
その目的を達成するために,脳には「環境の認識と状況判断と,それに基づいた最適
行動の動作制御」という機能が集中しており,複数の脳がそれぞれ動作するときに
現れる個体間の微小な差異(※6)が個性である。ヒトの考え方の違いは個性から
発生している部分も多いが,それ以前に我々がヒトであることそのもの(あなたの
体,とくに感覚器と脳髄がいまあるようであること)からどうしようもなく付随して
くる,ヒト特有の知的限界について述べてみたい。ヒトという生物特有の知的個性に
ついてである。

    ##脳機能の一大特徴 「思考」について

 さて,考えるということについて考えてみる(※7)。

    #○2:: 認知の主観性

    数ある脳の機能のうち,思考とは「環境を認識」し,「その認識に基づいて評価する
こと」である。後者に個人の個性ないし主観が入り込むことはいわずもがな(とはいえ
後述する)だが,じつは前者にも主観が作用していることを述べる。まずは,前者,
「環境の認識」についての主観性について。

    ##知覚の主観性

 環境認識の大前提となる「ものごとが存在する・しない」ということそのものが,
人間という狭い範囲に閉じ込められていることを示してみよう。全てに先立ち,
いくつか明白な限界を述べる。

    )我々が思考を行える期間はたかだか数十年にすぎない。世界を知覚する期間もその
程度しかない。寿命は我々の行動と思考の全てに影響を及ぼしている。1日に1回転
するレコードの音が聞こえないのはそのためだ。そうした悠長な情報を処理する
必要性がないのだ。そうした能力を発達させる余裕がなかったわけだ。

    )活動するために地球地表の環境が必須で,認知対象との間にこの環境と類似のもの
を介在させざるを得ない。つまり真空や太陽表面を直接は知覚できない。

    )我々の感覚器は肉体から取り外すことができない。同時に多数の場所に存在
できない。つまり世界を,限られた肉体を通してしか理解できない。

    )現在に縛られており,過去や未来を直接知覚することができない。

    では,個別に。

 [視覚]:3750 オングストローム(紫)から 7750 オングストローム(赤)という
ごく狭い範囲を外れてしまえばもうその電磁波は見えない。

    三原色の組合せしか認識できない。ひとの網膜にはその3種類の色に反応する細胞
しかないからだ。ところが,鳥の網膜には4種類の色に反応する細胞がある。つまり
彼らの視野は四原色である。色盲のひとがそうでない視覚がわからないように,我々
には鳥の視覚を理解できない。

 [聴覚]:20,000 Hz を越えた空気の震動は超音波と呼ばれ,顕在意識では知覚
されない(無意識領域では 50,000 Hz 程度まで認識しているという説はある)。だが
そうした範囲をことさらとりあげてわざわざ「超」などと特別扱いしていると,
イルカやコウモリに笑われないだろうか。

 [嗅覚]:犬の嗅覚はヒトの数万倍という。おそらく彼らには「嗅覚による世界像」
が形成されているはずだ。それは,我々には想像もつかないとんでもない世界に違い
ない。

    [味覚]:基本的に,ヒトは甘さ・からさ・苦さ・酸っぱさの4種類しか知覚
できない。

 [触覚]:痛点と痛点のすきまに来た刺激は知覚できない。約 1000 分の 1 ミリ
程度以上の突起でないと触感が発生しない。肉体の限界以上の大きさのものは形が
わからない。たとえば地球が丸いことは地面を触ってみてもわからない。

 以上,我々は頭からすっぽり布団にくるまって目隠しをし,手袋耳栓をはめてごく
わずかに開いた隙間から外界を知覚しているようなものではないだろうか。それほど,
知覚できない範囲の世界は広い。赤外線をコンピュータ処理で視覚化したり,超音波を
可聴域に変換したりはできるが,やはりそれは我々の多くの感覚に影響しない
(※8)。

    ##論理的認知の主観性

 次に「判断」が主体に依存していることを述べたい。
 
    ○ 知覚心理学でよく使われる錯視図やエッシャーのだまし絵などでは,まったく
同じ図形を目にしながら見えてくるものが違う。また,X線写真やMRIの断面写真
などで,素人には影にしか見えない映像が,専門家にはちゃんとした情報になる。
情報が,外から与えられるものではなく内側で生成されるということの良い例である。

    ○ ガヤガヤうるさいパーティでカクテルを飲んでいるとしよう。すぐとなりの会話
も耳にはいらない。聞き流している状態。その会話の中にあなたの名前が登場したと
しよう。すると,いままで全く聴こえなかったはずの会話がいきなり知覚され,たぶん
あなたは何事かと回りを見回すことだろう。これはカクテルパーティ効果とよばれて
いる。ひとは自分の名前に強い関心があることから起こり,認知主体の内容如何,
関心如何で認知できる内容が偏向することを意味する。

    ○ ヒトの論理思考能力は,多くを言語に頼っている。エスキモーの言語には雪の
状態を表す単語が10以上存在しているという。日本語にはほんの数個しかないので,
彼らにはわかる雪の違いが我々には分からないことになる。逆に,ブラジルのバカイリ
族は鮮緑色,赤色,群青色をすべてまとめてオウム色と呼ぶ。英語を母国語とする人間
には「姉」や「クルマ」(わざわざカタカナで表記していることに注意)などの英語に
存在しない単語が表したい意味は,厳密には理解できないだろう。「Translator,
lier」と言われる所以でもある。言葉がないということはその概念がないということ
だから(※9)。我々がいまこの言語を使っていることから,どうしようもない制約が
発生していることはまちがいない。それはすべての言語について言える。

 以上のように知覚を離れた論理思考能力にもヒト特有の偏りが存在している。

    #○3:: 価値・意味の主観への依存性

    刺激には2つの性質がある。「情報」と,「エネルギー」である。

    知的活動物(ヒト,コンピューターなど)に重さ数十グラムのなにかが勢いよく
衝突したとする。その物体はまず力学「エネルギー」を伝達するが,このとき,
主体は同じ量を受け取る。ある主体にとっての1馬力が別の主体にとっては0.5
だとかいうことにはならない。

    力学エネルギー以外でも,1ルクスは1ルクスだし,1デシベルも1デシベル,
ヘクトパスカルも,ワットも,ファーレンハイトも,レムもみな等しい。つまり
エネルギーは,主体の如何に関わらず等しく伝達されるという意味で,主体から
独立している。

    では「情報」はどうだろうか。この場合の力学エネルギーは,感覚器(触・痛覚,
センサー)の関知できる種類のものなので,情報伝達路(神経,バス)を経由して
情報処理機構(脳,CPU)へ到達する。情報処理機構は評価を開始,可能ならば
他感覚器も動員してその意味を設定する。

    主体が人であれば,ボールが当たったのか,肩をたたかれたのか,銃で撃たれた
のか,影響(被害)はどうか,今後どう行動すべきか,などを置かれている状況を
加味して判断していく。衝撃を計測するように構築されたコンピューターシステム
であれば,センサーが受容したデータはCPUにより評価され,記憶装置に記録
されることになるだろう。

    仮に,情報(ものごとの意味・価値)が主体から独立して存在しているとしたら,
エネルギーがそうであるように,当然その意味内容・価値が全ての主体によって共有
されていなければならない。例を挙げるまでもなく到底そうは考えられない。つまり
意味内容・価値は,認識主体によって独自に解釈(または生成,創造,形成,
創出......)されることによってのみ存在する。だから,「絶対的な価値」という
表現は矛盾している。主観に全面的に依存・依拠しているのだ。

    なにやらわけのわからない混沌(厳密には混沌という表現では不適切。この単語には
既に判断が入っている)に認識者の意識が向けられた途端,そこに「ものごと」が
現れ,その「意味」がふっと沸いて出るのである(※10)。

 従って,この「ものごと」や「価値・意味」は,主体たる人間の認知と評価に介在
する主観によって,救いようなく絶望的に,ゆがんで,偏って,ねじれてしまって
いる。知覚と認知の主観性がゆがめている。『認識者の偏見が恣意的にその対象以外
から区別する』という形でのみ在ることを許されているにすぎない。さらに,意味・
価値の主体間のずれは,概念の抽象度が高くなるにつれてどんどん大きくなっていく。
人間以外の動物には縁遠い概念,人間固有の概念になればなるほど,個体間の差異は
大きくなる。つまり人間らしい考えであればあるほど,その意味を共有する個体数は
ますます減ることになる。

    にもかかわらず多くの場合,我々は「自分の主観は客観的だ」と無自覚に想定して
いる。自分の思考を公明正大だと看做している。人間の意見は全てを律すると考えて
いる。そのひとの,人間の,言ってしまえば手前勝手な偏見に満ちた主観がなぜか
立派な客観だと意識されていることが多い。

    ##ヒト存在の非特殊性

    ホモ・サピエンスの価値に対しては,多くの人が「客観的に見て至高の価値があり,
これは不変・普遍だ」と考えているだろう。だから相対化してみよう。もちろん
たとえばキリスト教徒にとっては明白だが,しかし自分は無宗教であると主張する
人間もほぼそう信じている。その理由はなんだろう。

    (ただし,最近の科学技術の発展により,宗教者も,「ヒトはどこからヒトで,
どこまでヒトなのか,己や己の子供の命に対してどこまで関与できるか」を自前で
考える必要が出てきた。

    たとえば,

    ○ 死の判定基準をどこへおくか。心臓死がその人の死とされてきたのは,特に科学
的な根拠があってのことではない。文化的なものだ。死,とはなにか。どこからヒトが
ヒトでなくなるのか。

    ○ 医療行為の限界をどこに置くか。疲弊しきった肉体が亡びるまで,集中治療室で
生存させておくのか。そうなる前の尊厳死(=自殺の一種だが,より緊急避難的)を
認めるか。己のアルツハイマー病が進行してゆくことに対して自殺という解決方法を
とった人がいる。認めるか。そうした人の尊厳死幇助をしたときに罪を問うか。

    ○ 現在,日本では妊娠22週未満の胎児は中絶する(つまり,殺す)ことが認め
られている。このときまでは人間ではないわけだが,それで良いか。摘出した胎児を
人体実験に使うことの可否は。献体は医学生が解剖しているが,それと同じ扱いで
よいか。

    ○ 治癒不能な遺伝病が事前に発見できるようになってきた。あるアンケートに
よると,そうした時に親の80%は中絶を望むという。その望みをかなえてやって
よいか。300グラム足らずの未熟児でも生存させることができるが,そうした場合
障害が残る可能性が非常に高い。こうなることが明らかな胎児を中絶することの
倫理性。

    ○ 対外受精を行う場合,時に受精卵が余ることがある。これを研究に無制限に
利用してよいか。受精卵は母体に戻せば育っていく可能性が高い。

    ○ もし可能になったとして,細胞1コから人体を再現するクローニング技術を
どこまで認めるか。生まれた時に肉体を丸ごと一つ複製しておけば,オリジナルが
損傷をうけたときにコピーからそっくり当該器官を切りとって移植することができる。
同じ年齢なのでサイズもよく合うだろう。コピーに対してオリジナルは免疫拒絶反応を
示さないので,理想的なドナーとなる。また,脳損傷が発生した場合に大脳新皮質以外
の部位ならば移植することでその人の個性を保ったまま生存できるかもしれない。
どうするか。

    ○ コピーのほうをヒトと認めないならば,たとえその生物に人格らしきものが発生
したとしても,実験動物としてこれまで厳重な制限をしてきた人体実験のやりたい
ほうだいになる可能性がある。医学/心理学が爆発的に進歩する可能性があるが
どうか。実際,我々は毛髪を処理することに対して倫理的問題を感じていない。
理論上は,髪の毛一本から人体が再構成できるのだ。

    ○社会慣習の変化を迫るようなものもある。

    ・代理母や人工受精への精子提供者の親権,レズビアンの「夫婦」が非配偶者間人工
受精で得た子供に対して精子提供者より優先して所有すると主張する親権,といった
ことにどう対処するか。

    ・ヒトゲノム解読プロジェクトによってヒトの遺伝子セット構造が明らかに
されようとしている。全ての解読にはまだ10年単位で時間がかかるとされているが,
完了した場合,人間の選別方法に遺伝子セットの優劣が用いられる可能性が出てきて
いる。また,一度は亡びた優生学(※13)が装いも新たに,しかも精度が向上し
復活する可能性がある。人間の選別精度が高いこととその倫理性は別物なので,
どこまで優生学的思想を許容するか問題になる。

  などなど)

  ◆ホモ・サピエンスの価値相対化試論:

 ●生息数からその価値を説明することはできない。トキより圧倒的に多く,大腸菌
より哀しいほど少ない。

    ●生存している年月としたらシーラカンスやゴキブリは億年単位を誇る。

 ●人間は一人ずつみな違うので価値があるとする。だが違いならば他のどの生物にも
存在している。まったく同じ,という生物などありえない。組織の個体間移植の際に
(同一遺伝子の保持者同士でないかぎりは)拒絶反応が起きることからわかる。同一
種族であろうと異物に対しては拒否反応が発生する(面白いことに,胎児ラットの脳を
別のラットに移植すると,当初は行動をするが成長するに従って脳が排除されて
しまう。つまり主体が脳ではなく体にあるという見方ができる)。

    ●チンパンジーとヒトの遺伝子構造はその 98% 以上がまったく同じである(一説に
よれば 98.4%,別の説は 99% 以上)。遺伝子上,彼らと我々は 2% 以下の違いしか
ない。チンパンジーの受精卵の遺伝子をわずか 2% だけ操作できれば,生まれてくる
生物はヒトになってしまう。チンパンジーとヒトの遺伝距離(いわば,進化の系統樹を
描いたときに互いがどれくらい離れているか)は,ウマとシマウマほどで,この二種は
雑種が作れるほど近い遺伝子構造をしている。ヒトとチンパンジーが別の属に分類
されているのはおかしいと主張する学者がいる。ヒトとチンパンジーで混血が可能だと
する意見がある。

 こうして見てきた場合,我々のチンパンジー1匹とヒト一人に対する価値感には
なにかとんでもないアンバランスがあるとは思えないだろうか。ヒトになぜこんなに
多くの価値をおいているのだろう。

    ●我々のほうが他生物より優れているので価値があるという主張がある。では,
いったいどういう基準で比べてなにが優れているのだろう。

 ・論理能力をもって価値を計るとすると,確かにヒトがダントツ一位となるだろう。
だが,イルカは明確な言語を持ち,前後左右といった抽象的な概念も含まれていること
が明らかにされており,これより劣る人間も存在する。にもかかわらず,我々は
そうした人間をイルカより価値が劣るとはしない。動かない車はちゃんと動作する
自転車より劣るし,そう処遇するが,知性を基準とした判断は人間に対しては適用
されていない。故に,高い論理能力をもって価値があるとするのは誤りであろう
(※11)。

    ・我々の社会はたしかに政治的,経済的,文化的に他生物と比べて複雑にできて
いる。あるいは最も複雑であるかもしれない。だが,これは必ずしも価値が高いことを
意味しない。ちょうど,占星術や呪術,錬金術や新興宗教は複雑きわまりない精緻な
論理を持つことがあるが,それをもって価値が高いかというと疑問があるように。

    ・最も道徳的だろうか。人間のようなあたたかい心,自己犠牲を示す生物が他に
ないから価値があるだろうか。悪を行わない,という意味であれば他生物に
かなわないと思うがどうか。戦争や犯罪という悪徳を知りつつ止めることができない
この非倫理性をどう評価するか。どう考えても動物に劣る,と思われるがどうか。

 ・いったい,生物はすべて,置かれた環境のなかでほぼ最適とおもわれる能力を
そなえている。彼らが快適に生きていく環境でわれわれはそうできるとは限らない。
彼らの能力を我々が全て備えているわけではない。その他,我々は他生物と比べ全ての
面で優れているではないし,むしろいろいろな局面で負けている(※12)。
となれば,彼我の違いは「優劣」よりもむしろ「差異(=それぞれの環境にあわせた
能力を備えている)」と看做すべきではないだろうか?

    以上,普遍的な「人間の価値」の根拠は見いだせない。我々が同族にもっとも価値が
あるとするのは,我々独自の主観だろう。他生物は「ヒトでないがゆえに」ヒトより
価値が劣ると我々は看做している,としか表現のしようがない。動物行動学的に
見れば,「同種を大切にする種族が存続する確率は,そうでない種族より高い」とは
言える。

    ただ,脱線だがヒトがすべて保護しあっているかというとそういうことは無論ない。
先にあげた,戦争・犯罪はその例。

    歴史上のいつの時点のことやひと(もの,動物でもかまわない)にたいしてでも,
共感できれば他人事ではなく,できなきゃ他人事だ。共感範囲をできるだけ広くする
ことが望ましいし,そうありたいと思う。思い通りにならずに悩むわけだが,韓国の
ひとの一部に「お前のところの秀吉が我が国を侵略した責任をどうするのだ」と恨み
辛みを言われても,彼らの遠い先祖に対する共感が実感できないのでポカンとする
しかない。そうまで言わなくとも,では,あなたは家畜や穀物に同情できるだろうか?
(※14)

    ##人の交換可能性

    よろしい,ひとには至高の価値があるという通常の感覚に従うことにする。次には,
ひとの生命はほかの価値あるいはより多くの人の生命と交換可能であることを示して
みよう。

 ●交通機関はまず確実に事故を起こし,乗客を殺す(数少ない例外の一つが新幹線で
ある。開業以来,乗客の死亡事故が一例もないという驚異の記録を誇る)。しかし危険
だとして廃絶されたりしない。無人列車が事故を起こした時にはさすがに無人運転を
とりやめてみたが,本質的な排除ではない。社会経済的な合理性があってそれは人命
損傷の可能性と引き替えにできる価値があると我々がみなしているから合法
なのである。その意味で,人は別の価値と交換可能だ。

 ●歴史上の例をひく。第二次大戦中のあるとき,イギリス首相サー・ウィンストン・
チャーチルは都市コベントリーへの攻撃が予定されていることが,ドイツ軍用暗号の
結果判明したとの報告を受けた。彼は最低48時間の余裕がありながら,なんら対抗
手段をとらず壊滅を座視した。「コベントリー化」という形容が生まれるほど,
徹底して破壊されつくしたという。

    コベントリーを防御しなかったのは,暗号がすでに解読されていることをドイツ側へ
察知させぬためであった。彼はそのとき既にノルマンディー上陸作戦という連合軍の
大博打に参加していた。上陸直前に空前の大欺瞞情報を流して連合国軍の上陸地点を
誤認させるために,枢軸国側には軍用暗号の信頼性を毛筋ほども疑わせては
ならなかったのである。

    彼の決定は,ノルマンディー上陸作戦がドイツ側に事前に察知されれば大量に発生
したはずの連合国側の死傷者を減らしただけではなく,連合国が敗北すれば失われるで
あろう,連合国間で共有していた(多少の齟齬はあったにせよ)正義の概念のためでも
あった。それらの価値のためにコベントリーは捧げられた。彼は戦後に到るも罪に
問われなかった。

 以上2例,許容可能なリスクに人命も含まれている。「人の命は地球より重い」
というお決りの台詞は,言った人物の思考停止をしめすだけの無意味な言説では
ないだろうか。なにか,となえるだけですべてを解決してくれる魔法の呪文と勘違い
しているようだ。人命を賭けなければならない事態は無数にあったし,これからも同じ
だろう。地球より重い人命の価値を,冷酷に比較する必要は存在しつづけるだろう。

以上。

    ## 補遺

  「からだ」

からだ〓〓〓〓うちなる暗がり
それが私
ただひとりの

そよぐ繊毛の林
うごめく胃壁の井戸
ほとばしる血液の運河

からだ〓〓〓〓闇に浮かぶ未知の惑星
それがあなた
わたしにほほえむ

いのちはひそんでいる
たったひとつの分子にも

だがみつめてもみつめても
秘密は見えない

見いだすのはいつも私たち自身の
驚きと畏れの………喜び

そんなにも小さなかたちの
そんなにもかすかな動き
その爆発の巨大なとどろきを
誰ひとり聞きとることができない

いのちの静けさは深い
死の沈黙よりも

とおくけだものにつらなるもの
さらにとおく海と稲妻に
星くずにつらなるもの

くりかえす死のはての今日に
よみがえりやまぬもの
からだ

                                                谷川俊太郎

 ##/////// 【 注 】

    (※1)ものごとの認知,価値,意味などについて,いろいろ書いてある。ところで
読者は注を,本文の後に読むか,と同時に読むか,どちらだろうか。

 (※2)帰納法とは,個々の事実から共通に認められる特徴を抽出し,その集団に
特有の性質を明らかにしていくやりかたである。が,その非正当性(不当性ではない)を
示すことができる。3例あげよう。

    1) ある仮定に添った事例が 100 例あつまったところで,n 例目が沿うことが証明
されていないかぎりは 101 例目が添うという保証はない。だが証明されていれば
そもそも帰納法を使う必要がない。そこで帰納法論者は絶対的な確信を放棄,確率論的
へと後退して「多くの事例を観察すればするほど言明が真である確率が高まる」と
主張する。

    その主張は妥当であるが,帰納法の絶対的・公理的・独立的な正しさを保証する
ものではない。あくまで確率的に,正しい。

    2) 「帰納法の無限後退」という批判。

    なぜ我々は帰納法という手法自体を妥当とみなすか。経験から,と,いわざるを
得ない。全ての白鳥は白い,という仮説を立ててみたところやっぱり真だった。
このような例が沢山あつまって,この帰納法というやりかた自体も有用で妥当だ,
ということになったわけだ。

    だが,この過程では帰納法をメタに使っている。「帰納法Aは有用・妥当である」
「帰納法Bは有用・妥当である」「帰納法Cは」と続けていき,これらの言明から
帰納法によって帰納法一般が有用・妥当であるという普遍的言明をひきだしている。
あるやりかたの正しさを証明すること自体に,そのやりかたを使っているわけだ。
裁判官と被告が同一であってはならない。帰納法の妥当性は,このような手法を
使用することによって確認されたことになっているにすぎない。

 3) 「犬」という概念を形成しようとして集合をあつめる際に,となりのミケや
タマ,石や木を収集しようとはしない。なぜかというとそれらはまさに犬ではないから
だ。概念形成とは帰納的抽象の手続きによって行われるものと日常的に信じているが,
実態においてはそうではなさそうであるということになる。

    以上3例は,帰納法は,論理的に正しいのではなく経験則的に正しいとされていると
主張する。統計の有意水準が 1 ないし 5% と,科学者集団のまったくの恣意で決定
されているにもかかわらず,それで正しい・有意であるとされているのと同じである。

    急いで言っておかなくてはならないのは,帰納法はちゃんと仕事をしているという
ことだ。その正当性が証明されていなくても有用だ。相対性理論の効果が日常的には
まったく無視してかまわないレベルでしかないとか,円周率は無限数列だが宇宙船を
飛ばすのにも最初の10桁たらずで十分だとかいうことと同じように,「厳密にいえば
間違っていても,そのまま使って実用上差し支えない」のだ。この,「正確さ・理論的
正当性」と,「実用性・利便性」の見極めは非常に大切である。

  ( ………学問,学者てのはこういうコトをうだうだうだうだ続けるわけだ。東神大の
修士論文の題を眺めたことがあるが,「まー,よくぞこんな役にもたたなそうな研究を
したものだ」と思うようなものが,けっこうあった。ちなみに,筆者の卒論の題名は

 【超心理学/超能力を一言のもとに「科学とはあいいれない」「近代科学のパラダイムから外れている」と切って捨てることが果たして本当に「科学的な態度」であろうかという,単純素朴・原始的な疑問にもとづく「超心理学」に関する一論文】

  である。「すごく」役にたつつもりだった)

 (※3)物理法則にはヘンなものが目につく。

    光の進む速度はおなじ慣性系上ではいついかなる場合でも秒速30万キロメートルで
一定とされている。どういうことかというと,全速力で南に向かうジェット機と全速で
北へ向かうジェット機が北へ光を発射しているとする。地上から観察すると,南行機の
光速度は飛行速度分遅くなり,北行機のそれは速度分だけ速くなるはずだ。ところが,
実際には違う。地上からは2本の光線は同じ速度に見えてしまう。

    また,光速度より速い速度はこの世に存在しないということになっているし,移動
速度が上がれば上がるほど移動体の時間の速度は遅くなるし,質量が増大する。速度が
速いものは,そうでないものより重いのだ。寿命も長い。重力は空間のゆがみだし,
ブラックホールからは光が脱出できないのでまっくらだ。

 熱力学という学問は,いまおっこちたボールが周囲からエネルギーを集め,ポンと
元いた位置に跳ね上がる可能性をゼロとしない。これらは物理学上は常識以前の知識
で,あくびが出たひともいるはずだ。

    (※4)このとき,考えすぎないひとからは考えすぎるひとがウジウジした頭
でっかちに思え,逆からは軽薄な功利主義のお気楽野郎に見えるだろう。幸か不幸か,
どちらかというと前者に分類される人のほうが数が多いので,世間は効率を高く評価
するために正当性や倫理性・個人の事情は軽視している。またたしかに,どちらがより
効率的に社会に貢献するかというと前者であろう。

 (※5)新しい科学理論が前のものを退ける方法は,基本的に「言い換え」である。
「神の御意志によりものが下に落ちる」よりも「ものが落ちるのは重力があるからだ」
のほうが科学的とされ,それよりも「ものが落ちるのは重力波が作用するからだ」の
ほうが一枚上手だ。この先,どういう仮説が有力とされるのかは不明だが,この手の
「言い換え」が果てしない階層をなすだろうことはまずまちがいないだろう。

    科学者を困らせる,あるいはうんざりさせるのはわけもない。ある現象の原理を
「なぜそうなるの?」と聞き,理由が示されたらまた同じ質問をすれば良い。ある
時点でかならず「だってそうなっているからだ」あるいは「どうしてそうなるのか,
まだわからない」という返事が返ってくる。

 この無限の言い換え構造に,価値判断を持ち込んだのが「目的論」と呼ばれる考え方
である。先の困った質問に,「それはね,~するためだよ」と応えることができる
考え方なのだ。少しまえならばデズモント・モリス(ヒトのメスが唇を赤くしたがる
のは,服を着たために臀部を見せることができなくなった代償行為である,とか),
最近ではリチャード・ドーキンス(遺伝子は己を維持するために生物を装置として
使っている。つまり生物は遺伝子を伝えるための乗り物にすぎない,とか)が有名で
ある。

    有名である,が。実は,目的論はその妥当性が検証できない。というのは,この
場合だと脳が存在することで個体の生存確率が増加するのは確かだが,そのことが
すなわち脳が存在するようになった理由とはならないからだ。犯罪で利益を得る者が
実行者とイコールではない。ただ,新しい視点を提供することができる。筆者は
目的論を,レトリックのひとつと考えている。

 (※6)異種間のパターンの違いから比べれば,同種個体間の差異など微小と
いわざるをえない。ヒトは種全体としてみれば概ね同じ刺激には同じように反応する。
心理学が世界各国で成立していることがその実証のひとつ。国民性,民族性が存在する
ことは確かではあるが,それにしても他生物とは際だって異なった心理性向を持つ,
と言いたいわけだ,ここでは。

 (※7)おひゃ~,哲学っぽくていいのぉ~

    (※8)脱線。我々の肉体には5つの情報取得システムしか備わっていないので,
当然のことながら世界を5種類の情報だけをもとにして認識している。この5種類の
選択に,どういう意味があるのだろう。なぜ電波を関知できるようにならなかったか,
ということだ。

    進化論を認めるとすれば地球環境で生存するのに都合がよかったというだけである。
我々はすでに肉体の限界を越えた生存圏を獲得しており,認知の範囲はさらに広い。
なにせ極微小の素粒子から,宇宙の彼方のことまで認識し研究しているわけだから。
レーダーだ電子顕微鏡だ電波望遠鏡だが必要になってくる。

 (※9)英語と日本語で「rice」と「米」という同じ意味の単語があるといっても,
その意味は厳密には(厳密には,と言い出すと単語の意味はそれを解する人の数以上に
存在しているわけだが)違っている。同一の植物を示してはいるが,言葉の意味は
それだけに留まらない。

    日米貿易摩擦の現場でアメリカ側がつかう論理に,「日本人にとって米がたんなる
経済財ではなく文化財だというなら,アメリカ人にとって自動車は文化財だ。我々は
日本人に我が文化財を輸出することを歓迎している。日本人も米についてそう
すべきだ」というものがあるのだ。歴史的経緯を眺める限り否定し去ることは
できない,うまい論理だ。もちろん彼らにとって米は単なる経済財である。

    (※10)とは言うものの,『ものごと』と『認識者』の異なるものふたつが存在
しているという図式そのものがあるいは誤りかもしれない。ものごと全般がいまここに
存在しているという認識は認識者が行っているものであって,認識者の外からの視点-
仏や神の視点と言ってもいい-からはそんなものは存在していないかもしれない。
この世にあるのは認識者とその妄想だけという心寒い構図が可能である。哲学用語で
「唯心論」というそうだ。

    (※11)逆に,ヒトを,それより頭の良い存在と比べたらどうなるだろう。
そこらに転がっている千円電卓の持つ計算能力は,まず確実にあなたより高い。
最先端のコンピューターシステムは高度な論理思考能力を持ちはじめている。基礎的な
数学知識を教え込んだシステムが,種々の物理法則を独力で発見したり,チェスで全米
チャンピオンと互角に戦ったりしている。専門家の知識を組み込んだ,いわゆる
エキスパートシステムは既に実用化が始まっている。彼らはいま急速に賢くなりつつ
あり,どこまで我々に追い付いてくるかまったく不明である。少なくとも,我々が
種として賢くなっているとは思えないので,両者の差は縮まる一方だ。あと数十年で
ニューロコンピューターが人間の脳機能を凌駕するだろうという意見もある。

    仮に,彼らに論理思考能力でまったく敵わなくなったとしたら,どうなるだろう。
彼らを,人間以上のもの(つまり,たとえば災害時に人間1人とそうした
コンピューター1台のどちらかしか救えない場合,後者を取るということ)と
しなくてはならなくなるが,それは到底うけいれがたいだろう。この面からも,
論理思考能力をもって存在価値が決っているとする仮説は違っていると考える。

(※12)蛇足ではあるが例示する。他生物を摂取しないと生体を維持できない,
我々は時速 100km で走れない,飛べない,発光できない,冬眠できない,水中では
呼吸できない,ビタミンCを合成できない。ノミは身長の 200 倍の高さまで跳躍
できる。ある種のウィルスは仮死状態で数千年を耐える。カメは心臓を取り去っても
  30 分ほど生きている。等々いくらでも。

    (※13)より優れた者の子孫をより増やし,より劣った者は産児制限や極端な場合
には断種により子孫を減らしていくことで,より優れた美しい素晴らしい社会を作ろう
という目的を持つ思想,学問,実践。ナチスのそれが有名だが,戦後アメリカでも
貧困層や黒人(しばしば同義だった)に対して同様の処置が取られたことがある。

    なにをもって「優れている」と看做すかには,もちろん恐ろしい程の偏った主観
(とそれに基づく価値観)が,強烈に作用する。例えば,IQテストや入学試験で
判定できるのは,時代と地域を限った特定の教育制度下での狭い知的能力にすぎない。

 (※14)健康上の理由以外からのベジタリアンに問いたいのは,いったいなぜ動物
を食することに倫理的に問題があり,植物ならばそれがキャンセルされると考える
のか,ということだ。生物を殺しその遺骸を摂取することで生命を維持するという
構造はなにひとつ変わらないということをどう考えているのだろうか。

    ここで提案だが,他生命体の生命を奪うということにではなく,エネルギー消費に
罪悪感を見いだしたほうが合理的ではないだろうか。「自分がこのエネルギーを利用
すると,後世のだれも利用できない熱エネルギーに劣化してしまうのだ」と考える
のだ。これはなかなか世のためになる罪悪感だと思うがどうか。この意味では,
例えば牛肉を食用に適するまでに成育させるためにはできあがった肉が持っている
よりもはるかに大量のエネルギーを必要とするので,菜食主義にも意味がないわけで
はない。
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                ・ DeepBlue はカスパロフを破っちゃいましたね。
                ・ドリーとかいう羊が話題になったのは何故でしたっけ。
                ・環境倫理学を勉強しないといけないと思っているのですが、
                  なかなか頭がついて行かない。加藤向武の文庫、新書程度であっても。
                ・廣松渉にしてもしかり。

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UNIXはシンプルである。必要なのはそのシンプルさを理解する素質だけである -- Dennis Ritchie

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