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日記

phasonの日記: 超原子価は実在か?:硫酸カリウムにおける理論と実験 9

日記 by phason

"Testing the Concept of Hypervalency: Charge Density Analysis of K2SO4"
M.S. Schmøkel et al., Inorg. Chem., 51, 8607-8616 (2012).

*今回の論文はかなり専門性の高い(=一般受けする要素が少ない),化学結合に関する話になります.元々はここで紹介する予定は無かったのですが,先日某掲示板にて議論されていたのを見て何となく記載.結構専門的な細かいところの話なので,化学結合に興味の無い人は無視してください.

共有結合というものがある.2つ(以上)の原子に広がった軌道に電子が入ることで個々の原子上に電子が局在化している状態よりも安定になる=エネルギーが低くなる事により,原子同士が離れにくくなる(なぜなら離れると電子が非局在化出来なくなり,エネルギーが高くなる)というものだ.身の回りの分子のほとんど全てはこの共有結合により結びついており,まさに物質を作る基本的な力であると言える(物理的な起源はクーロン力).
炭素,窒素,酸素や硫黄といった原子は,結合に使える軌道として1つのs軌道と3つのp軌道という原子軌道を持つ.これら「軌道」は数学的には一種の線形独立なベクトルであり(数学的には関数もベクトルである.詳しくは線形代数を参照のこと),空間的なベクトルと同様,n本の線形独立なベクトルは,混ぜて再分割することで別なn本の基底に取り直すことが出来る.例えば,3次元空間中の基本ベクトルとして(1,0,0), (0,1,0), (0,0,1)の3本を使う代わりに,xベクトルとyベクトルを混ぜ合わせて(1/SQRT(2),1/SQRT(2),0), (1/SQRT(2),-1/SQRT(2),0), (0,0,1)という3つのベクトルを基底としても空間が表現出来る,という事と同じだ.こういう操作により,炭素などではsp3結合(結合に使える1つのs軌道と3つのp軌道を全部混ぜ,4つの新しい軌道に再構築したもの)という,中心の原子から正四面体の4つの頂点方向へ伸びるような等価な4本の原子軌道が作られる.

さて,共有結合である.共有結合は,ある原子の軌道と,別な原子の軌道を混ぜ合わせて再分割するという,こちらもまた数学的には基底の取り直しに相当する操作によって表現出来る.
(細かいことをいえば,結合前の原子同士が近づくことで個々の原子軌道の直交性が崩れたのを,両者の原子軌道を混ぜたり分割したりにより正規直交系に作り直す作業になるのだが,まあ詳細は省略)
例えば水素原子では,2つの水素原子の持っていた1s軌道(計2つ)から,両者を足してSQRT(2)で割ったベクトル(大きさを1にするため)と,両者を引いてSQRT(2)で割ったベクトルの二つを作ることに相当する.前者が結合性軌道(元の1s軌道よりエネルギーが低い)で,後者が反結合性軌道(元よりエネルギーが高い)になる.ベクトルでいえば,(1,0)ベクトルと(0,1)ベクトルを,(1/SQRT(2),1/SQRT(2))と(1/SQRT(2),-1/SQRT(2))の二つのベクトルに再構築したことになる.
通常この共有結合は「原子Aの軌道a」と「原子Bの軌道b」から作られるので,sp3混成軌道により4本の結合に関与出来る軌道を持つ炭素,酸素,窒素,硫黄などの原子は,最大4つの相手と4本の結合を作ることが出来る.個々の結合(結合性軌道)には電子が2つ入ることが出来るので,これら原子の周囲には4*2で8個の電子が存在することになる.これがオクテットルールである.
(窒素,硫黄,酸素などは元々持っている電子が多いので,実際の結合は3本だの2本だので,余った自分だけで作る原子軌道に自分の電子2個を押し込むことも多い.これを非共有電子対と呼ぶ)

ところが,である.第3周期以降の元素,例えば典型的には硫黄が挙げられるが,この場合には4本以上の結合を作ることがある.例えばSF6という分子(安定性が高く絶縁破壊の起こりにくいガスなので,高電圧系の封止ガスによく使われる)は中央の硫黄原子から,正八面体の頂点に向け6本の結合が伸びている.この結合全てに電子対を配置すると12電子となり,オクテット則を破っているように見える.こういった分子を超原子価化合物と呼ぶ.
このような分子の結合をどう説明するのか?というのは初期の量子化学者が多いに悩んだところである.そこにライナス・ポーリングがあるアイディアを提唱する.「超原子価をとる原子は,第3周期以降である.ここで考えてみれば,第3周期の元素というのは,通常結合に使用している3s,3p軌道に加え,少し上のエネルギーに3d軌道を持っている.これを結合に使用していると考えれば良いんじゃないか?」と.つまり,1つのs軌道と3つのp軌道から4つのsp3軌道を作り結合するのでは無く,1つのs軌道と3つのp軌道と5つのd軌道を混ぜ合わせて,最大9本の軌道を作れば良いのでは無いか?というわけだ.SF6分子なら1つのs軌道と3つのp軌道と2つのd軌道を混ぜれば6本の軌道が生まれる.この6本が,それぞれF原子の軌道1つと混ざって結合性軌道を6本作れば解決,というわけだ.
これは当時非常にクレバーな解決策だと思われ,この考えかた(d軌道を混ぜる)は多いに広まった.今でも多くの教科書に記載されているし,多くの大学の無機化学の講義でこの考え方が教えられている).

しかし,この考えは実は誤りである.

実は提唱された当時から,「3d軌道はそりゃあるにはあるけど,エネルギーが高すぎて混成にはほとんど使えないはずだ」という異論が多くの理論家により指摘されていた.2つの軌道の混成に関しては,両者のエネルギー差を分母に持つような係数がかかってくるので,エネルギー差の大きい軌道同士はほとんど混ざらないはずなのだ.
実際,その後量子化学計算が進歩すると,確かにd軌道の寄与はほとんど無いことが明らかとなっている(にもかかわらず,未だに多くの講義で「d軌道の寄与が~」と教えられている.まあ,最近出版された教科書や,きちんとこの辺の研究も理解している人の講義では修正されているが).
#実際の結合に関しては,三中心四電子結合が3つと考えれば良い.詳しくは検索してください.
#まあ分子軌道の考え方に立てば,局在した電子数を議論するオクテット則自体がナンセンスなわけですが.

さて,今回の論文が対象とするSO4 2-である.このイオンの結合様式,(少なくともちょっと以前までの)多くの教科書では以下のように書かれている.

  O
  |
O-S=O
  ||
  O
 
  O
  ||
O-S-O
  ||
  O
 
  O
  |
O=S=O
  |
  O
 
  O
  |
O=S-O
  ||
  O

etc.(単結合で繋がっている酸素上には1つの負電荷が生じている)
こういった2重結合と単結合がいろいろ入れ替わった様々な構造の共鳴構造として存在していて,だからS-Oの結合は2重結合と単結合の間の強さなんですよ,というわけだ.なるほど確かに,S-O間の結合距離は通常の単結合のS-Oより短く強いため,説得力を持つ.そしてこういった結合本数の多いS原子は,d軌道も結合に用いることでこれらの4本以上の結合を持つ構造を実現している,という説明がされるわけだ.
そう,またもや3d軌道である.
エネルギー的に,d軌道の寄与は低いと予想される.だが一方で,「比較的エネルギーの高い酸素原子上の非共有電子対(結合に関与せず,酸素上に局在している電子対)からの供与ならあり得るのでは無いか?」などの説も出てきて,こんな単純な分子にもかかわらずなんと未だに議論が続いているのだ.

そこで今回の論文である.本論文では,理論計算による電子分布の予測と,放射光を用いた超高精度の単結晶X線回折による価電子密度分布の実測を組み合わせ,この問題に決着を付けている.X線回折では,X線は電子によって散乱される.通常の単結晶X線回折では,電子が沢山集まっている原子核周辺で散乱が大きく,結合に関与している電子(=広い範囲に広がっており,電荷密度が低い)による散乱波非常に小さく検出しにくい.しかし放射光のやたら強烈で平行性の高いX線を利用すると,原子間の空間中にどのように電子が広がっているのか(=結合軌道がどう分布しているのか)を測定することが可能になってくる.これを利用したわけだ.

さてその結果である.
結論を言ってしまえば,S-O結合は全て単結合であった.つまり,良く(古い)大学の教科書やら高校の教科書やらで書かれていた二重結合を含む構造式は誤りであることがほぼ確定した.また,各S-O結合においては,実は隣接する他の3つの酸素原子上の非共有電子対も流れ込んできており,単結合の2割程度はこういった他の原子からの寄与であった.他の原子からの寄与があるなら単結合以上の結合になりそうなものだが,実は本体のS-O結合において,酸素原子が電子を引き抜こうとする力が非常に強く,共有結合性が弱まりイオン結合にやや近くなっているのだ.このイオンペアに近づいて共有結合が弱まる効果と,隣接酸素原子からの援助で共有結合が強くなる効果が相殺し合い,結果としてほぼ単結合となっていることが明らかとなった.
じゃあ単結合ならなんで結合距離が通常のS-Oより短くて結合が強いの?といえば,こちらはもうイオン間に働くクーロン力である.つまり,S-O結合は,「単結合の共有結合」プラス「S4+とO-1.5の間のイオン結合」となっており,これが単なる単結合の共有結合より距離が短く結合も強い理由となっている.
論文の最後にはわざわざ念を押すように,「本分子の結合は全て単結合であり,結局SO4 -2分子は超原子価では無いと言える」とまで明記してある.

このあたりの話,理論的にはかなりのところまで既にわかっていたことなのであるが,実験的裏付けも加わったという意義は大きい.といっても,当分の間は「SO4 2-は1.5重結合で云々」という教え方も無くならないだろう.何せSF6でd軌道の寄与が低いなんて事は3-40年前にほぼ理論的には大枠で決着がついていることなのに,未だにdを含めた混成が教えられていたりするのだから.
ついでに補足しておくと,「d軌道が関係無いなら,なんで直上にd軌道を持つ第3周期以降でこういう5本以上の結合が可能で,d軌道が直上に無い第2周期では4本までしか結合が無いのか?」という点は,単純に原子の大きさが関係している.第2周期の元素は小さく,さらに共有結合距離も短い.このため,5本だの6本だのの結合を作ってしまうと,くっついている原子が混み合ってしまい反発が大きい(=エネルギーが高い)のだ.第3周期以降では元素のサイズが大きく結合距離も長くなるので,その外側に5つだの6つだのの原子を配置しても空間的に余裕があるというだけの話である.
#実際,無理に頑張ったり非常に小さい原子を用いることで,第2周期元素の外に5つだの6つだのの原子が結合した分子が作成出来る.

この議論は賞味期限が切れたので、アーカイブ化されています。 新たにコメントを付けることはできません。
  • あれはオクテットルールって言うのか。
    高校の頃は、元素ごとに隣とつながる腕が何本あって…というのを頑張って覚えてましたね。
    水素やアルカリ金属、ハロゲンなんかは1、酸素が2、窒素が3、炭素が4、といった具合に。
    電子が8つ埋まってれば腕がなくて反応しないので希ガスと。

    この結果からすると、ベンゼン環の結合状況に関する理解も影響を受けるのかな?

    • >あれはオクテットルールって言うのか。

      もしくはオクテット則,八電子則,八偶説とか呼ばれます.
      「最外殻電子が8個だから八電子則って呼ぼうぜ!」
      とか,化学の人間はネーミングにまるでセンスが感じられない……
      #いや,学術用語に凝ったネーミングされても困るんですけどね.

      >水素やアルカリ金属、ハロゲンなんかは1、酸素が2、窒素が3、炭素が4、といった具合に。

      このあたりも,実際には「そういう傾向が強い」ってだけで,例外だらけなんですけどね.
      そういうことを言い出すと学生は混乱するんで,高校までは「そうなってます」で済ますしかないんですが.

      >ベンゼン環の結合状況に関する理解も影響を受けるのかな?

      ああ,そちらは今のままです.
      共鳴状態っぽい理解が否定されたと言うより,硫黄の超原子価状態(結合に空のd軌道も動員する事で結合本数を増やした状態)という考え方の例がまた一つ崩れたってだけですね.

      親コメント
  • by Anonymous Coward on 2012年08月10日 13時58分 (#2209851)

    ずっと1.5重結合だと思ってた。
    新しい情報ありがとうございます。

    批判的な意味でなく、技術的、学識的な視点から、
    ”S-O結合は,「単結合の共有結合」プラス「S4+とO-1.5の間のイオン結合」”という解釈で
    これからどんな新たな世界が期待できるんでしょうか?

    • >これからどんな新たな世界が期待できるんでしょうか?

      あ,そういうのは特にないと思います.
      このぐらいのサイズの小さい(しかも不対電子の無い)系の計算は相当進歩していて,理論的には予想の範囲内ではあるので.
      実験との突き合わせがきっちり行ったのは見事なんですが,新しいことが劇的に判明,とかそういうわけでは無いと思います.
      異論があったところに,かなりきっちりとした証拠を突きつけてこれまでの説を確定的にした,とかそんな感じに近いですね.
      特に理論では無く実験での結果もあるところが良い点です.計算化学は非常に進歩しているんですが,日頃その手の計算に接している人で無いとどうしても「計算だとそうなるかも知れないけど,それって本当に信頼が置けるの?」という疑問が出てしまうんですが,実験も組み合わせることでそういう異論を無くす(減らす)事が出来る,と.

      高配位化合物へのd軌道の関与のような「一見凄くそれらしくって,しかもクレバーな発想」ってのは,一度広まってしまうとなかなか修正が効かないのですが,こういう実験結果が積み重なっていってそういう誤解が解消されるのが早くなると良いなあ,とは思います.

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      • by tenokida (42811) on 2012年08月10日 17時50分 (#2209980) 日記
        >あ,そういうのは特にないと思います.
        ・実験系の人の中で、計算機実験の信頼度が上がる。
        ・みんなで教科書を改訂する

        高校当りが問題ですね。
        #わかりやすさのためにあえて書く場合が増えるので。
        親コメント
      • by Anonymous Coward

        レスありがとうございます。
        やっぱりそうなんですね(´・ω・`)

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