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日記

phasonの日記: 核スピン状態の電気的な読み込みと書き込み

日記 by phason

"Electrically driven nuclear spin reconance in single-molecule magnets"
S. Thiele et al., Science, 344, 1135-1138 (2014).

(商業レベルで)実現できるかどうかはともかく,量子コンピュータの研究はここ最近盛んに行われている研究の一つである.量子コンピュータを実現するには量子論的な状態を保持しそのまま演算するための量子ビット(qubit)が必要なのであるが,これがなかなか難しい.よく知られるように,量子論的な奇妙な状態というのは外界(=多自由度の系)と相互作用すると簡単に消えてしまう.そこで,外界と相互作用しにくいような物理現象をqubitとして用いよう,という事になる.
そのようなものの一つが,原子核の持つ核スピンを使ったqubitである.原子核を構成する陽子や中性子はフェルミ粒子であるので,1/2のスピン(自転に似た,けれども厳密には違う量子論的な特性)を持っている.これらが集まった原子核にも核スピンを持つものが存在し,例えばMRIやNMRで使われる1Hなどの原子核が挙げられる.これら原子核は原子の中心の非常に小さな領域に納まっており,外界との相互作用は極端に小さい.このためqubitとして利用した場合の情報保持時間が十分に長く,量子コンピュータへの応用に期待が持てる系である.

さて,この原子核を利用したqubitに情報を書き込んだり,そこから情報を読もうとするとこれがなかなか難しい.何せ外界との相互作用がほとんど無いわけなので,外部から読み出し/書き込みを行う手段が非常に限られる.通常は外部磁場を利用するのであるが(核スピンは小さな磁石と見なせるので,磁場でコントロールできる),実用的な量子コンピュータを作るためには多数のqubitを集積する必要があり,それらを独立に操作するには各原子位置で異なる磁場を作ったり,照射するマイクロ波を変えたりする必要が生じてくる.
ところがこれが大問題なのである.磁場やマイクロ波というのはなかなか狭い領域でコントロールすることができない.ナノサイズの磁場を制御しようと思うと,同等のサイズで十分な磁場強度を持った電磁石を作る必要があるが,こんなものはそう簡単には作れないし,そもそも電磁石は応答速度も遅い.できることなら,電子素子的なもので核スピンをコントロールしたい.もしそれができれば,電子素子なんてものは既にナノメートルサイズのものが作れるのであるから,小さなチップに無数のqubitを集積し,それらを自在に操る事だって出来るようになるだろう.
今回の論文の著者らが開発を目指しているのは,そのような「電気的に読み出し・書き込みが可能な核スピン利用型qubit」である.著者らは既に2012年に電気的に読み出しが可能な核スピン系を発表しており,今回の論文はそれをさらに発展させ,書き込みもできるようにしたものとなる.

実験で用いているのは,Tb3+という電子スピン&核スピンを持つ希土類イオンを,平板状の分子であるフタロシアニン分子2枚で挟み込んだダブルデッカー型の錯体である.これを金配線にエレクトロマイグレーションで作成したナノギャップ電極(*)中に挟み込んだものを用いる.

*細かい配線中にある程度大きな電流を流すと,原子の一部が電子との衝突により移動し,配線中の原子が移動するという現象(エレクトロマイグレーション)が起こる(CPUなどでも問題になった事がある).細線に大電流を流すと原子がどんどん移動し,配線の一部がやせ細っていき,ついには破断しナノサイズのギャップが生じる.この瞬間電流もゼロになるのでこれ以上のエレクトロマイグレーションは起こらず,この構造が固定化される.

Tb3+中の原子核はI = 3/2のスピンを持っており,主軸(フタロシアニン平面に垂直な向き)に対しIz = ±3/2,±1/2の4つの方向を向くことができる.Tb3+は希土類元素でもあり,内殻のf軌道(7つ存在する)に8つの電子を持つ.従って電子の配置は(↑↓)(↑)(↑)(↑)(↑)(↑)(↑)となり,電子6個分(S = 6/2)のスピンが生き残ってくる.さらにf軌道は軌道角運動量(電子の公転周期による角運動量のようなもの.電荷を持った粒子の回転運動なので,これもまた磁石のように振る舞う)が生き残っているので,これも合わせると合成角運動量が6という大きなスピンとして振る舞う.今回の分子の場合,このスピンも主軸方向(フタロシアニン平面に垂直な方向)を向きやすいので,上向きか下向きの2つの状態をとることが可能である.
さてこのTb3+が持つ核スピンと電子スピンの間には,超微細相互作用というものが働く.これはまあ,電子のスピン(自転のようなもの)や公転運動が作る磁場が,原子核の持つ核スピン(磁石としての性質も持つ)と相互作用する結果である.本体,電子スピンだけだと磁場をかけてもなかなか向きが反転しないのだが,この超微細相互作用を使って核スピンとの相互作用が摂動として入ってくる結果,ある特定の磁場で電子スピンが容易に反転できるようになる.しかも,その磁場の大きさは核スピンのz成分の大きさによって変わるのである.
要するに,Tb3+に磁場をかけていくと,あるところで電子スピンが反転し,しかもその時の核スピンが+3/2なのか+1/2なのか-1/2なのか-3/2なのかによって反転する磁場が微妙に変化する,というわけだ.逆に言えば,電子スピンが反転する磁場を見てやることで,核スピンの情報を読み出す事が出来るようになる.

ではどうやって電子スピンの反転を読み出すのか?ここでフタロシアニンの出番となる.
ナノギャップ中に捕獲されたTb3+(フタロシアニン)2分子に対し電圧をかけると,電極からπ電子系を持つフタロシアニンへ(そしてさらに逆側の電極へ)と電子がトンネル効果により移動することが可能となる.この時,電極側の伝導電子のエネギーと,フタロシアニン分子上に移動した際の電子のエネルギーが等しくなると,トンネル確率が激増する.さて,分子には磁場がかかっているので,そこに移動した電子は(スピンの向きに応じて)磁場がない場合と比べエネルギーが少しずれた状態となっている.さらに,フタロシアニン上の電子はくっついているTb3+の電子スピンからの影響も受けるため(交換相互作用),より大きくエネルギー状態は異なってきている.このエネルギーのシフト量は,「外部磁場と,Tb3+の電子スピンが同じ向きの時」と「外部磁場と,Tb3+の電子スピンが逆向きの時」とで変わってくるはずである(効果が可算的になるか,打ち消す向きになるかの違い).
ナノギャップ電極の下に作成しておいたゲート電圧を変化させ,分子上の電子のエネルギーを共鳴状態(トンネルしやすく,電流の多い状態)からずらしておく.外部磁場を少しずつ変化させていくと,分子上でのエネルギー状態は少しずつ変化するが,大勢に影響はない.ところが磁場がある値になった瞬間,Tb3+の核スピンと電子スピンとの間の超微細相互作用の結果として,電子スピンが反転する.そしてそれは,フタロシアニン上の電子のエネルギーを劇的に変化させる.「Tb3+の電子スピンが反転した瞬間,共鳴状態になりトンネル電流が増える」という状態にゲート電圧を設定しておけば,トンネル電流をモニタしているだけでTb3+の電子スピンの反転を検出できる.

まとめるとこういうことになる.
・Tb3+の核スピン ----超微細相互作用----> Tb3+の電子スピンが特定磁場で反転
・Tb3+の電子スピンが反転 ----交換相互作用----> トンネル電流が増加
・トンネル電流をモニタしながら磁場をスイープ --------> どの磁場で電流が増えたか?から,核スピンの値が読める.

これが核スピンの検出である.なかなかクレバーな方法ではあるが,これ自体は2012年の論文で発表済みだ.
今回新しく加わったのが,核スピンの書き込みである.
これには,シュタルク効果と呼ばれるものを利用する.どういう効果かというと,原子に対し電場を作用させると,原子軌道同士がちょっとずつ混ざり合って再編成され,ちょっとだけ形状(とかエネルギーとか角運動量とか)が変わった状態になる,というものである.
軌道が変形すると,電子の軌道運動に由来する超微細相互作用も影響を受ける.するとどうなるかというと,核スピンを反転させるためのエネルギーなどが微妙にずれてくるのだ.これを利用すると,特定のTb3+だけ核スピンを変化させることが可能となる.
いくつかのTb3+が並んでいたところに,核スピンを反転させられる周波数からちょっとだけずらしたマイクロ波を照射しよう.この場合,Tb3+の核スピンはほとんど変化しない.その状態で,特定のTb3+にだけ,ゲート電極を用いて電場を印加し,シュタルク効果により核スピンを変化させるのに必要なマイクロ波周波数を変化させる.するとこのゲート電圧を印加したTb3+だけが,照射しているマイクロ波の影響で核スピンを変化させ,望みの核スピンの値へと変化するのだ.きちんと変化したかどうかは,前述の読み出し方を用いて読んでやればよい.

というわけで,今回報告されたのは,
・以前開発した,超微細相互作用と交換相互作用を用いた核スピン読みだし法
・今回新たに開発した,シュタルク効果を用いた特定の核スピンだけ変化させる手法
を用いて,Tb3+のスピンを任意に変化させ,その値をちゃんと読めたよ,というものとなる.
なお,今回は多数のTb3+を配置したわけではなく,単一分子においてちゃんと書き込んだり読み込んだりができるかの確認だけだ.

これですぐさま無数のqubitを持つ量子コンピュータが作れるわけでは無いが,データを自由に書いたり読んだりできるようになった,というのは大きい.小さな一歩ではあるが,着実な進展である.
※なお,利用している効果が非常に弱い効果であるため,素子自体は数十ミリケルビンという極低温でしか動作しない.

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ナニゲにアレゲなのは、ナニゲなアレゲ -- アレゲ研究家

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