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日記

phasonの日記: 水の液液相転移を再現できる(?)新たな水溶液 3

日記 by phason

"A liquid-liquid transition in supercooled aqueous solution related to the HDA-LDA transition"
S. Woutersen et al., Science, 359, 1127-1131 (2018).

今回,事前知識がかなり必要なので前振りがかなり長め.

水は非常に身近な溶液でありながら,その挙動には他の液体と比べかなり奇妙な点が多い.例えば通常の液体が温度の低下とともに単調にその密度を上げていくのに対し,水は4 ℃で密度最大をとったあと温度の低下とともに密度が逆に低下していく.これは一般には,「低温にいくと水素結合のせいで密度が低い氷の構造に近づいていくため」だと考えられているが,実際にはもっと複雑な事情が隠れている(と信じられている).現在の科学の認識では,常温付近の水というのは「異なる構造をもつ2種類の液体のミクロな混合物」であると推定されているのだ.

話は1980年代に遡る.当時,さまざまな金属であったりといった各種の液体を急冷することでのアモルファス固体の作製が研究されていたのだが,その中でMayerらは微小水滴を超急冷することでアモルファス氷を作成する手法を開発する.このアモルファス氷を加熱していくと,136~160 K付近(研究によりばらつきあり)でガラス転移を示し,液体となると報告された(*).

*ただし,液化した直後に結晶化して通常の固体となってしまうため,液体状態の研究は出来ていない.また,2004年には類似のガラス転移を示す無機固体の研究からの類推で,このとき熱測定で見出された「ガラス転移(ガラス状態 → 液体への転移)」と思われていたものは,実はガラス転移よりも低い温度で起きるガラス転移の「影」のような前駆現象である事が指摘されている.

一方,三島らは「氷の融点は高圧下で低下する.ならば,低温で氷に十分に高い圧力をかければ,極低温で液化させられるのではないか?」との発想から実験を行い,液体窒素温度の氷に高圧を印加するとあるところで体積が一気に縮み,高密度の別種の構造をもつ固体に転移することを発見する.この「高密度の固体」は圧力を除いたあとも(低温を維持していれば)そのままの形で取り出すことが可能で,X線などの結果からアモルファスの氷(ただし,過去に液滴の急冷で得られたものよりかなり密度が高い)である事が判明した.
また,のちに行われた実験により,液滴に急冷で得られる低密度のアモルファス氷(Low Density Amorphous Ice,LDAと称される)に圧力をかけていくと,この高密度のアモルファス氷(High Density Amorphous Ice,HDA)に転移することがわかった.アモルファスな物体というのは通常「構造が完全にランダムな固体」と考えられていたため,「2つの構造の異なるアモルファスな状態」が存在する(しかも,それらは熱力学的に異なる相で,間に相転移がある)という事実は驚きをもって迎えられた.

さて,アモルファスな固体というのは,一般には「液体を急冷することにより,その構造を保ったまま凍り付いた固体」と認識される(絶対そうだというわけではないが……).アモルファスな氷の構造が2種類あるということは,液体の水も2種類の構造があるのではないだろうか?(**)

**この観点からも多くの研究が行われており,現在の「液体の水」の理解としては
・一分子当たり4つぐらいの水素結合を作っている「氷に似た構造の低密度の水」と,3つぐらいの水素結合を作っている「高密度の水」がミクロに入り乱れたモザイク構造.
・230 K付近に第二臨界点があり,これより高い温度では低密度水と高密度水は連続的に変化できる.
・高温になるほど,高密度水の領域が増大する.
・塩類を溶かすと,その周囲は「高密度の水」に寄っており,均一な溶液に見えて実は「塩を溶かした高密度の水」と「塩があまり溶けていない低密度の水」の混合物となる.
・塩類の溶液を冷却すると,「塩があまり溶けていない低密度の水」の部分で結晶核が生成し,それが成長し氷となる.
と考えられている.ただし後述の通り実験的検証は難しく,異論もある.

アモルファス物質の特徴として,温度を上げていくとどこかでガラス転移を示し,液体になるはずである.であるならば,LDAを加熱していくとどこかで低密度な液体の水になり,HDAを加熱していくとどこかで高密度な液体の水になるのではないだろうか?
そう考え多くの実験が行われたのだが,残念ながらそれらは失敗に終わってしまっている.低温のLDAやHDAを加熱していくと,ガラス転移(液化)が起こるよりも前(=より低温)に結晶化転移が起こり,結晶質の単なる氷へと転移してしまうため「LDAやHDAが融解した過冷却液体状態」にアクセスできない.一方高温側から過冷却液体を慎重に冷却していっても,自然核発生温度(自発的に液体中に結晶核が生じ,急激に結晶化してしまう温度)で急速に結晶化してしまい,より低温(=LDAやHDAになる前の液体状態)にたどり着くことは基本的に不可能である.この「高温側からも低温側からも接近できない,(過冷却)液体の水の温度領域」はNo man's land(未踏領域)と呼ばれ,水の構造研究を難しくする最大の要因となっている.

そんなわけで「水は実は2種類の液体の混合物で,それらの間の相転移が(第二臨界点以下の低温では)存在する」というのは非常に面白い仮説なのだが,実験的な検証が困難である.これをなんとか乗り越えるため,実験家は
・ナノ細孔に閉じ込め結晶化を阻害(ただし,そもそもの液体の状態が変わるため微妙)
・常温の液体中の分子の状態を分光学的に調べ,2種類ある事を示す(ただし,それらが相分離しているかは謎)
・臨界点そのものには辿り着けなくても,そこに近づく過程の振る舞いの変化を理論と照合(決定打に欠ける)
・シミュレーションにより解決(計算量は多いが,最近だと結構頼りになる)
など,さまざまな工夫を行っている.今回紹介する論文の手法は,「いっそ,単なる水以外の系で同種の振る舞いを探す」というものになる.
そもそもの液液相転移や水のもつ2液ある事に由来する異常な物性も,水の専売特許というわけではないはずだ.適切な物質を持ってくれば,同種の現象は起こるはずである.そういった系の中で,(水では結晶化してしまうため到達しにくい)第二臨界点近傍が測定できる系もあるのではないだろうか?近年では,そういう研究も数多く行われている.
そのような観点から今回著者らがたどり着いたのが,「水に14.4 mol%ほどトリフルオロ酢酸ヒドラジニウムを加えた水溶液」である.トリフルオロ酢酸イオンは酢酸イオンの水素原子を全てフッ素で置換したような系で,CF3-C(=O)Oという構造をもつ.二つの酸素原子上の5つの非共有電子対を使って,水との水素結合を多数作る事が出来るし,フッ素原子もまあある程度は水素結合を作る事が可能である.対イオンのヒドラジニウムはH2N-N+H3という構造を持ち,5つの水素原子を使って周囲の水分子と水素結合を作る事が出来る,構造的には水分子が二つ結合したものに非常に近い構造を持っている.要するに,カチオン,アニオンともに水素結合を作りやすく,水の水素結合ネットワークをあまり破壊しない(=水の構造を良く保つ)という特徴を持ちつつ,余計なものを溶かすことで結晶化を阻害して低温まで過冷却液体状態を保とう,という戦略だ.

では著者らの実験結果を見ていこう.まず載っているのが,比熱のデータだ.通常の過冷却水を冷却していくと,-50 ℃付近(=第二臨界点と目されている温度)に向け比熱が発散していくような傾向が見られる(そして臨界点に到達する前に結晶化してしまう).それに対し14.4 mol%の溶質を溶かした今回の件では,20 K/minという比較的速い速度で冷却していくと,もう少し低温の-80 ℃(約190 K)付近に向け発散するような鋭いピーク=転移を示したあと,より低温まで液体状態を保っている.これは今回作製した溶液が明確な液液相転移を示している一つの証拠である.不純物を入れつつも出来るだけ水素結合のネットワークを壊さない,という設計により,(推定上の)水の液液転移を測定可能なところに引きずり出したと見なすことが出来る.一方,同程度の濃度の単なる塩であるLiClを入れて水の水素結合を壊してしまうと,今回見られたような液液相転移は確認されず,単にもっと低温で結晶化するだけであった.

続いて,分光学的手段による調査として,赤外吸収によりO-H(とN-H)伸縮振動を調べ,水素結合の情報を得ている.室温付近では3420 cm-1付近のそこそこ強くて非常にブロードなピークと,それよりかなり弱くこちらもブロードな3300 cm-1付近のピークが確認できている.前者はO-H伸縮によるものであり,後者はN-H伸縮によるものなのだが,前者の値や線幅は純粋な水の場合とほとんど変わらず,溶質としてそこそこの量のトリフルオロ酢酸ヒドラジニウムを入れているにもかかわらず,水分子の水素結合の状態がほとんど変わっていない事を示唆している.
7 K/minの速度で温度を下げていくと,3420 cm-1付近のO-H伸縮は低波数側に徐々にシフトしていくのだが,190 Kあたり(=比熱で液液転移が見られた温度)を境に急激な変化を見せ,3420 cm-1付近のピークは消え代わりに3300 cm-1付近にピークが現れ,温度の低下とともに成長していく.これは190 Kの液液転移により水素結合の様式ががらりと変わったことを意味している.続いて7 K/minで加熱していくと,やや上の温度である204 Kあたりでもとの波数へとまた急激に変化する.冷却時と加熱時で転移温度に差がある(=ヒステリシスを示す)ことから,この液液相転移は一次転移である事が示唆される.ちなみに,もう少し温度を上げていくと210~220 Kあたりで結晶化して氷となる.
190 Kで見られた液液転移が,ガラス転移(見た目液体だが,実際には運動が凍結してガラス状態になっている)ではないことがこのO-Hの振動数からわかる.ガラス転移は単なる凍結なので,振動数が劇的に変化することはないためだ.また,高温側で3420 cm-1のブロードな吸収,低温側で3300 cm-1のややシャープな吸収という今回観測されたO-H伸縮の振動数は,純水における高密度アモルファス相におけるO-H伸縮が3340 cm-1でブロード(ただし,測定温度が11 Kなのでそこそこ低波数シフトしている可能性あり),純水における低密度アモルファス相におけるO-H伸縮が3300 cm-1でややシャープ(同80 K),という事と良い一致を示しており,今回作製された溶液での転移が,純水において推定されていた液液相転移と起源を同じにしていることを示唆している.

なぜ今回の系では,これだけ水に似た特性を再現できたのだろうか?著者らは分子動力学計算からその理由も探っている.計算が示すところによれば,水の第一配位圏(水分子と,それに隣接する分子の位置関係)の構造は,純粋な水と今回の溶液とでほとんど変化がなかった.そればかりか第二配位圏まで広げて考えても,常圧の水とはやや異なるものの,約6000気圧というほどほどの圧力を印加した際の水の第二配位圏と非常に酷似しており,「溶質が溶けて結晶化を阻害してはいるけど,ヒドラジニウムイオンもトリフルオロ酢酸イオンも周囲の水分子とよく水素結合を作って,周りの構造を阻害していない(=元々の水に近い構造を保っている)」事を示唆している.結晶化を阻害することにより低温での液体状態を実現しつつも,元々の水の示す(と推測される)特異な液液相転移の特性は良く維持しているわけだ.

というわけで,観測不可能であると考えられている水の液液相転移を,(ちょっと系が変わるとはいえ)実測できるところまで引きずり出して見せた面白い研究であった.

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  •  第二臨界点の水の観察ができるだなんて、裸の特異点を観察できるのと似た感動があります。あの手この手で自然の制約の裏をかいてやろう(でもって、自然が隠している知識を得てやろう)、という実験家の方々の努力とアイディアにはほんと頭が下がります。

     そういえば、「我々の宇宙は、事象の地平に隠されていない裸の特異点を許容しているかも」という研究も、ここ何年かの結果でしたね。こちらの方もいつか実現するのだろうか。

  • この分野、実験手法の工夫の仕方もバラエティがあって面白いですよね。
    過冷却から自発的に凍るまでの一瞬のうちに観測できればいい→パルスX線を使って構造解析 とか
    いろんなアプローチを思いつく人がいるなぁ、と常々感心してしまいます。

    •  「凍る寸前の一瞬のうちに解析してやろう」の手法で、自然核発生温度を下回る227Kあたりまでのバルク液相の水が観察できるようですが、今回のように「 20Kmin-1で冷却して比熱のデータをとる」みたいな実験はなかなか困難そうです。

       なんにしても、明るくて鋭い光源とか、高性能の計算機が使えるようになった現代の実験家のこれからの活躍にご期待ください! なのです。

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ハッカーとクラッカーの違い。大してないと思います -- あるアレゲ

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