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日記

phasonの日記: 水の二相モデルは幻か?:新たな実験結果 3

日記 by phason

"Absence of amorphous forms when ice is compressed at low temperature"
C. A. Tulk, J. J. Molaison, A. R. Makhluf, C. E. Manning and D. D. Klug, Nature, 569, 542-545 (2019).

水というのはかなり特異な振る舞いを示す液体である.例えば通常は固体は液体より密度が高いのに氷は水より密度が低かったり,融解後に昇温とともに密度が増加する(4 ℃で極大)など,他の物質ではなかなか見られない変わった挙動はよく知られているだろう.これだけなら氷で見られる水分子の水素結合による四配位構造が昇温とともに崩れていく,というだけで説明できるのだが,実は水にはほかにも低温で比熱や圧縮率に発散傾向が現れたり,粘性率に異常が生じたりとさまざまな異常を示し,これら全てを説明するのは現在でも困難である.そんななか生まれた一つの仮説が,「液体の水には二つの異なる構造があり,我々が目にする『水』はこの二つの相がミクロ&動的に入り乱れている」というものだ.

発端は日本の三島らによる高密度アモルファス氷(High Density Amorphous ice,HDA)の発見だ.微小な水滴などを極低温の基板に降らせると液体の水が急冷され,液体の構造を保ったまま固まってしまう.このようにしてできるアモルファス氷は比較的低密度であることから,Low Density Amorphous ice(LDA)と呼ばれる.通常の水が低温でどのような構造をとるのか?ということを知りたかった三島らは,氷の融点が加圧により低下することに注目,十分低温であっても,圧力を印可していけば融点が下がり液化するに違いない,と実験を行ったのだが,そこで発見されたのは結晶性の氷が高圧の印可によりアモルファス構造の氷となる,という実験結果であった.このアモルファス氷は圧力を抜いた後もその構造を保ち続けることが可能であり,しかも通常の氷から加圧だけで作れるためその後多くの実験が行われることとなる.
三島らはこの結果を「通常の氷(ice-Ih)が加圧により融解し超過冷却液体となり,そのまま瞬時に固化してアモルファス氷となった」と解釈した.ここで重要であったのが,この新たなアモルファス相は以前に知られていたLDAよりも明らかに高い密度を持ち(ゆえに,高密度アモルファス氷,High Density Amorphous ice, HDAと呼ばれる),温度を上げると分子運動が活発になった結果としてそれまで知られていた低密度アモルファス氷へと明確な一次転移を示したことだ.これはHDAとLDAが異なる相であることを示唆していた.アモルファス状態(液体のような乱雑の構造のまま低温で分子の動きが鈍り,固体化した)が2種類あるということは,そのもととなる液体の構造が2種類存在する可能性を示している.

さらにその後Pooleらが過冷却水の分子動力学的シミュレーションを行い,過冷却水の安定構造として2つの異なる相があるのではないかと報告した.一方は氷に近い4配位構造を持ち,隙間が多いために低密度である(Low Density Liquid,LDL相).もう一方は水素結合が部分的に壊れ3配位に近くなり,崩れたネットワーク構造の隙間に水分子が入り込むことによる高密度の液体(High Density Liquid,HDL相)となる.
これとHDA,LDAの実験結果を組み合わせることで,液体の水について以下のような仮説が提出されている.

・液体の水は,低温において3配位の高密度構造HDLと,4配位の氷に近い構造を持つ水である低密度構造LDLの異なる相を取り得る.
※そのまま急冷すると,その構造のまま固まったHDAとLDAの異なるアモルファス相を生じる.
・実は室温付近の水というのは微視的にはこのHDLとLDLが分離し,大きなスケールでは混合している状態である.
・温度が上がると,LDLの比率が下がりHDLの比率が上がる.
・塩類などを溶かすと,そのイオンの周囲ではHDL構造があり,周囲のLDL相とは異なる構造となっている.

「均一に見える水が,実は内部では分離した2液の混合物である」というのは非常に刺激的で面白い仮説であり,しかもさまざまな実験結果を統一的に説明できることから大きな注目を集めた.そして実際のそれら2種の液体間の相転移を見よう,という試みもいろいろとされたのだが,

・2液が相分離する臨界点の温度(の予想位置)が低すぎる.このため,高温側から温度を下げていくと先に結晶化してしまい,それだけ低温の過冷却液体が得られない.
・逆に急冷して作ったアモルファス相の温度を上げていく(低温側から近づく)と,ガラス転移温度を超えると同時に液化 → 結晶化が起こりやはり過冷却液体にはならない.

という問題があり,純粋な水においての液液相転移の観測には成功していないのが現状である.
#そして,この「超低温の過冷却状態の温度領域」は,誰も到達できていないことから「No man's land(未踏領域)」と呼ばれている.

さて,そんなわけで三島らの実験以降徐々に市民権を得てきた水の二相モデルであるが,異論も多い.特に問題とされているのが,氷に圧力を印可することで生じたHDA相が本当に水の安定相なのか?という点である.まずそもそも,三島らの実験条件で通常の氷Ihが融解すると予想されていた圧力域は,実際にHDA相が生じた圧力よりももっと低いため,実はあの実験は高圧の印可により氷Ihが壊れ,別の氷の相に移行する過程に過ぎないのではないか,という指摘は以前からあった.
※氷は圧力・温度で非常にさまざまな構造をとることが知られており,17種類以上の結晶構造が知られている.

また,圧力印可時の位置による圧力の微妙なばらつきや,急激に圧力をかけることによる不完全な構造転移なども指摘されており,また近年では理論計算の側からも「液体の水に2つの相はないのではないか?」という話も出てきている.

今回の論文の著者らは,通常の氷である氷Ihにできるだけ均一かつゆっくりと圧力を印可した結果,三島らが報告したようなHDA相への転移は確認されず,別の結晶系の入り乱れた構造を経由して最終的に結晶質のIce-VIII'相への転移が観測された,ということを報告している.

実験の内容そのものは「実験しやすいように重水使って,ゆっくり均一に圧力かけました.構造は中性子回折で見てます」以上のなにものでもないのだが,100 Kにおいてice-Ihに十分ゆっくり圧力を印可するとまずice-IX'に転移する.そしてそれがice-XV'を経由し,その後ice-VIII'相へと転移することがわかり,その途中でHDA相は生じなかった.実はice-VIII'相というのは分子が2グループに完全に分離し,それぞれが作る水素結合のネットワークが完全に分離,互いのネットワークの隙間を貫通しあっているような構造である.これは全体がつながった1つのネットワーク構造を持つ通常のice-Ihやice-IX'からは直接遷移できず(何せ,ひとつながりのネットワークが,2つの互いに交差する別のネットワークに再構築されないといけない),そのため途中であちこちで水素結合が切れたようなice-XV'を経由する必要があるためにおこる変化だと考えられる.
全く同じような加圧を,同じ温度で,ただしもう少し素早く行うと,ice-Ihはいきなり構造が崩れHDA相となり,その後Ice-VII'相へと変化することが確認された.
これらの実験結果が示唆しているのは,これまで「ice-Ihを圧縮すると,別な安定構造な液状構造であるHDLを生じ,その分子運動がそのまま凍結することでHDA相になる」という結果を真っ向から否定する実験結果である.HDA相が生じるのはそれが安定相だからではなく,単に「本当ならice-VIII'相になりたいのに,そのためには水素結合ネットワークの大規模な再構築が必要になって,早い圧縮ではネットワーク再構築が間に合わないため別のごちゃごちゃな構造で固まってしまった」ということになるわけだ.

なんというか,これはまた盛大なちゃぶ台返しである.もしこれが事実だったとすると,水の二相モデルはその根拠としていた柱を失うこととなる.今後,水の二相モデルを支持するグループ,否定するグループそれぞれで活発な実験や計算が行われることとなるだろう.今後の展開に注目である.

  • #個人的な素朴な疑問ですが
    『「本当ならice-VIII'相になりたいのに,そのためには水素結合ネットワークの大規模な再構築が必要になって,~』
    というところがすごく奇妙に見えます。

    プルシャンブルーのような配位結合の組み換えが大変なのは分かるのです。
    配位結合は原子間距離が共有結合並みに接近しているから、隣接原子との干渉や
    原子軌道の方位などが絡んで、配位子側の結合の方向が一定になる、
    共有結合並みに接近した結合を切るには、より配位しやすい配位子が
    隙間から入り込めないといけない。

    水素結合は電気の分極から生じる緩い結合じゃないですか。
    それなのに高圧化でもO-H-Oの角度が180度になるのが安定という不思議。
    周りにOがいっぱいあるなら、分極だけで結合しているなら、ホイホイ乗り換えできても
    良さそうなのに。

    ここに返信
    • >水素結合は電気の分極から生じる緩い結合じゃないですか。

      水素結合も結構強いですよ.
      配位結合の典型的な強さ(これもまあ,何の配位かによって大きな差がありますが)が確か40-60 kJ/mol程度なのに対し,水中での水の水素結合の強さが20 kJ/mol程度ですので,同じオーダー程度の強さはあったかと.

      また距離に関しても,例えば手元のMn3+にNCS-が配位しているような錯体でMn-Nの結合長が2.14 Åぐらいと,Mn3+のイオン半径0.78 Åと窒素原子のファンデルワールス半径1.55 Åの和2.33 Åより0.2 Å短い程度ですが,氷(Ih)におけるO-H-Oの結合長は2.76 Åと,酸素原子だけのファンデルワールス半径の和3.04 Åよりも0.3 Å程度も短くなっています.実際にはその間に水素原子もあるわけで,かなりギチギチに詰まっています.

      また,水素結合は単なる分極間の引力ではなく,複数の効果の合わさったものです.
      例えば水素原子の量子性や,水素を介した三原子間での共有結合(3中心結合),軌道間の反発,そして古典的な分極による引力などが結びついた結果として生じるものです.このため,結合方向にそこそこ強い制約がかることが知られています.
      (この辺は,計算精度の向上もあり今でもちょくちょく議論が出ています)

      あとはまあ,この実験自体が低温で行われており,運動エネルギーが小さいという点,連続した一つのネットワークが,分断され交差した2つのネットワークという対称性的にも大きく異なるものに転移することが難しい点などが効いているのかと.

  • by Anonymous Coward on 2019年05月27日 21時35分 (#3622137)

    たしかに相図を見る限りでは、
    ゆ〜っくりやればIc→XV→VIIIと変化するのは自然に思えるし
    一気にグチャっとやればHDAを経由して、VIIIよりは低秩序のVIIになるというのも自然に思える。
    #自然すぎて逆にホントかなぁと思ってしまうくらい

    ここに返信
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