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raycyさんのトモダチの日記。 最新から新しい日記やタレこみを確認できますよ。

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idle

shibuyaの日記: 唐突だが仏教説話を連想した。 2

日記 by shibuya

ストーリーコメント

人間の子供を喰らっていた鬼女がいて、
お釈迦様がその鬼女の子供をキッドナップしたんだったっけ
その子が死にそうになっったのでお釈迦様に助けてくれと言ったんだっけ

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スラッシュドット

shibuyaの日記: あなたにモデレート権が回ってきました。あと8点のモデレーションポイント

日記 by shibuya

(期限: 2018-01-27)
前回来た依頼に気づいたのは1週余り1日前、そいつを使い切ったのがその3日後。

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日記

akiraaniの日記: 昨日の雪の話 6

日記 by akiraani

 東京に越して来て1年ちょい、初めて体験する本格的な積雪。
 電車も色々混乱しているだろうし、粉雪で風もあんまり吹いてなくて折り畳み傘でもぬれたりはしないだろうと踏んで会社から自宅までの約3kmをあえて徒歩で帰宅することに。

 手袋は自転車に乗るとき用のかなり厚手のものをつけていたのだけど、撥水加工がされていなかったためさすがに帰り間際にはだいぶ指先が冷たくなった。あとは、粉雪だったので一部が襟元から入ってきてインナーが少しぬれたくらいか。足元は革靴っぽく見えるスニーカーだったけど、意外なことにほぼ被害なし。

 寒いのは寒いのだけど、途中、雪景色なんぞ写真に取りつつ、ちょっと風景を楽しむ余裕すらあった。
 交通標識に粉雪が張り付いて見えなくなってたり、駐車場の車に10cmくらい積もっていたりで、なんちゃって雪国の風情を味わうことが出来た。
 残念だったのは、府中駅前の並木道のライトアップ期間が終わってしまっていたことか。ライトアップされてたらかなりきれいだったと思うのだけど、街灯や信号の光に移るだけでもなかなかの風情。(リンク先の写真三枚目がそれ)

 なれない雪道を歩くのはそれなりに疲れる作業だったけど、いい徒歩帰宅訓練になりました。

13508175 journal
日記

akiraaniの日記: 本日のねためも

日記 by akiraani

“食品ロス”を減らせ 期限が近い商品を買うと「dポイント」 NTTドコモが実験(ITmedia)
 なるほど、見切り特価とかを待たずに、賞味期限、消費期限に応じて勝手にポイントが入ってくるのか。これやってくれると、買う側も何時頃行けばどれだけポイントつくか予想できるから便利だな。

Amazonで9割近い高評価を集める光セラピーランプの中身は単なる電球型蛍光灯と判明(GIGAZINE)
 紫外線遮蔽フィルター付きの電球ね。まあスペクトル解析とかしてる時点で、メカニズムに興味を持ったと言うより、そもそも懐疑的だったんだろうな。セラピー系の商品ってだいたいこんな感じなんだろうな。ちゃんと効果あれば医療機器に採用されてるはずだからな。しかし、プラセボ効果ぱないな。

ガンホー、「パズル&ドラゴンズ」でレアガチャの的中確率表示へ(ITmedia)
 実際にガチャのあるゲーム始めて思ったんだけど、これ表記として必要なのは確率ではなくて、引くのにかかる期待値なんじゃないかなぁ。確率表記していようが、このコメントでしたみたな変則ガチャにしたり、あの手この手で実感しにくくする手法を編み出してくる。そういうのもうやめて、このカードを手に入れるためにはどれくらいつぎ込む必要がありますよってのを表記するようにすればそういうごまかしはできなくなるよね。

Wi-Fiモデルは“技適”あり――Lenovoの「Daydreamカメラ」、日本上陸なるか?(ITmedia)
 えー、スマホが別に必要な単体カメラが300USドルすんの? それだったらProjectTango対応のスマホでよかったやん……。

タワーを飛び移り撃ち合うVRシューティング 東京ジョイポリスで2月から提供(ITmedia)
 VRでFPSしたいけど、場所確保の問題で移動がどうしようもないからこういう形式にしましたって感じだなぁ。どの場所をどう確保するか、移動するときのフォローどうするか見たいなFPSの醍醐味をまるっと捨てちゃってて目新しさが抜けるとクソゲー扱いされそうな気がするな。

niconico“炎上発表会”の舞台裏 「新しいものは賛否両論あっていい」 新トップ栗田取締役独占インタビュー(ITmedia)

栗田 川上は「新しいものを目に見える形で見せないとユーザーは納得しない」「機能改善はやって当たり前だから、いちいち報告するのは格好悪い」という考えの持ち主。改善も少しずつしていましたが、しっかり告知できておらず説明不足なのは確かで、ユーザーに対してきちんとコミュニケーションしてこなかったのは問題でした。

 あー、こういう考え方の人居るよね。やっても当たり前のことだから言われてなくてもやるってのはまあその通りなんだけど、それができてないってのが致命的だったなぁ。レガシーなシステムが足引っ張っていろいろ滞ってる部分はあるし、そもそもの話をすると軽い重いは主観的な思い込みバイアスがだいぶかかってて、実際そこまで致命的な問題かと言われると、本来そうではない問題な気もするんだよな。自分自身はプレアカだからかもしれないけど、ニコニコ側の問題で生放送とかが重かった体験って実はしたことないんだよね……。

ビットコインの高騰は数名による価格操作であった可能性があることを研究者が指摘(GIGAZINE)
 まあ、あんだけ乱高下してたらそういう指摘が出てくるのもしょうがない気がする。けどまあ、高騰してるときに暴落時期を決定するトリガーを仕掛けるとかで、相場全体を押し上げたりなんてのはさすがにできない気がするな。しかし、この記事だと、そのトリガーとなる取引自体がハッキング的なもので仕掛けられた不正なものだって話になってるんだけど、果たしてそれがどこまで本当なのか……。本当なら当時に大問題になってるはずなんだよね。

「けものフレンズ」のフレンズたちが食べる「じゃぱりまん」がファミリーマートで実際に登場、チーズカレー&チョコ(ラム酒風味)2種類を食べてみました(GIGAZINE)
 さすがGIGAZINE、こういうのにはすぐに飛びつくね。しかし、このじゃぱりまん、Twitterでバズってたやつがコミケでいつもお隣さんのリアル知り合いのTweetで思わず笑ってしまった。

エプソン、大容量を実現するインクパックシステム採用のビジネス複合機「PX-M884F」など2機種(ITmedia)
 うわ、ついにカートリッジですらなくなった……。でもこれ、残量の減り具合がリアルに見えて便利そうだな。ランニングコストがインクタンクモデルに比べるとだいぶ悪いのが気にかかるが、オフィス向けだからかなぁ?

「スマホ動画はYouTube」が9割 niconico、Amazonビデオに圧勝 MMD調べ(ITmedia)
 いやそりゃそうだろ。Appleが動画サービスはじめでもしない限りスマホではYouTubeが強いのはしょうがない。任天堂のハードで任天堂のソフトが強いのと同じ理由で。しかし、スマホの回線だと滅多なことで動画を見ること事態を避けるんだけど、見てる人どうしてるんだろう。wifiスポットとか利用時のみ見てるとかか?

Nintendo Switchの「VR」や「4K」へのアップグレードはあるのか?(GIGAZINE)
 SwitchでVR……? なんでそんなことを任天堂がすると思うんだろう。あれはセンサ類はコントローラ側についてるし、ポータブル機能自体はみんなで遊ぶことを第一目的に設計されてるからでかいし重いしでVRゴーグルみたいなのには極めて不向きだと思うんだけど……。

「切る」と「つかむ」がひとつでできる! トング付きキッチンハサミ(家電Watch)
 あ、ばらして洗えるんだ。これなら油ものでも思い切って使えるな。キッチンばさみはダイソーで買ったのを使ってるけど、油汚れとかが軸の内側にこびりついちゃうと洗うのが大変なんだよな。そろそろがたがきてるんだよな。ただ、鋏って不燃ゴミで尖ってるので捨てるのがまずめんどくさくてなぁ……。

YouTubeの広告掲載基準厳格化、人間によるチェックも(ITmedia)
 何かと思ったら、アフィリエイトの足きり基準を引き上げるのか。広告収益で投稿者を誘引するというモデルは、日本で言うところの地上波テレビと同じだから、最終的に大手プロダクションが組織力でほとんどの人気番組を仕切る形になるだろうし、それでGoogle的には全く問題なさそうだな。

900万円の女 AI搭載の受付ロボ「協栄アイちゃん」の実力(ITmedia)
 なんでまた好き好んで入る必要のない不気味の谷に足を踏み入れようとするのか……。可動部が極端に少なそうだし、サーボの駆動音隠せてない。結局、マイクに向かってしゃべれって言ってるんじゃ、この外見にするメリットがいまいち見いだせない。文字表示するタブレット一緒に飾ってた方が便利なのではないかと。

13507827 journal
数学

taro-nishinoの日記: B. L. ファン・デル・ヴェルデンへのインタビュー

日記 by taro-nishino

"わが父アンドレ・ヴェイユ"の前置きの中で昨年、つまり2017年に一つも"私訳"を紹介出来なかった言い訳を書きました。実はもう一つ理由があったのです。ヒルベルトとクーラントのMethoden der mathematischen Physikの読破に専念したからです。もちろん独語原書の第3版です。読み終えるのにほぼ1年を要しました。独語は私にとって第3外国語であり、しかも本の内容は私の専攻分野ではありませんので時間がかかることは覚悟の上ででした。
では、何故わざわざ苦労してまでヒルベルト-クーラントを読もうとしたのか? 理由は2つあります。先ず、何だかんだ言っても結局ヒルベルトを中心とするゲッティンゲン学派の雰囲気に私は憧れを持っているからです。現代の私達がゲッティンゲン学派の雰囲気を知ろうとするには、もう残された古典的名著を紐解く以外に方法はありません。これが一番目の理由です。当時のゲッティンゲン学派から出た本はヒルベルト-クーラントだけではなく、ファン・デル・ヴェルデンのModerne Algebraも代表的です。しかし、単純に古典を鑑賞して愛でるだけならModerne Algebraでもいいのですが、その内容は現在では学部学生が代数系の講義で勉強するであろうものばかりで、少なくとも第一巻はその範囲内に収まるはずです。従って、どの専攻分野の人でもほぼ常識になっているのです。ですから、苦労した代償に雰囲気を味わえて、知らなかったことを勉強出来る(つまり、守備範囲を広げること、もしくは視野を広げること)という条件に合致しないのです。よってヒルベルト-クーラントなんです。これが二番目の理由です。
ヒルベルト-クーラントを実際に読んだ人なら納得すると思うのですが、この本が少なくとも戦前まで物理学学徒の必読文献だったことも頷けます。それほどに苦労しても読む価値があると思います。そうでなければ、若き日のゲルファント博士がヒルベルト-クーラントを研究するはずがありません。ゲルファント博士は読んだとは言わずに研究したと言っているのです。
さてヒルベルト-クーラントの読了後、今は亡きゲッティンゲンの人々のことを思い浮かべていましたら、ここでも先ほど出ましたファン・デル・ヴェルデンの印象が私には薄いのでちょっと驚きました。ヒルベルトが病気と老齢で表舞台に立たなくなって以降、ナチス政権に対するワイル、クーラント、ネーター、ジーゲル等の行動や苦闘はすぐに思い出せるのに、ファン・デル・ヴェルデンは何をしていたのか全く憶えていないので、慌てて書棚からコンスタンス・リード女史のHilbertCourantを取り出して、パラパラとめくって目を通しましたが、ファン・デル・ヴェルデンの伝記的記述が意外なほど少なく、どうでもいい少年期のエピソードなど私でもどこかで聞いたことのあるものしか書かれていないのです。仕方が無いのでMacTutor History of Mathematics archiveの"Bartel Leendert van der Waerden"を読みましたら、ライプツィヒで安穏と暮らしていたと思いきや、全く違っていました。ドイツを出るに出られなかった(つまり、時期が遅すぎ)ファン・デル・ヴェルデンの苦悩の一方で、ナチスに占領されたオランダでは彼の父親が癌で亡くなり、母親も夫との死別後、ナチスの占領に苦悩して家の近くの湖に投身自殺しました。痛ましい限りです。
今回紹介するのは"Interview with Bartel Leendert van der Waerden"(PDF)です。このインタビュー記事の存在は以前から知ってましたが、今回のことで初めて読みました。その私訳を以下に載せておきます。なお原文にある注釈は省きましたが、インデックスはそのままです。
最後に一つだけ申し立てしたいことがあります。このインタビュー記事の中でファン・デル・ヴェルデンはヘルマン・ワイルのGruppentheorie und Quantenmechanikを難し過ぎて誰も理解しなかったと貶し、同じ趣旨の本をファン・デル・ヴェルデンが書くと、その本はよく売れて、物理学者に歓迎されたと言っています。確かに彼の言う通りワイルは数学的美しさのために書いたということは頷けますが、誰も理解しなかったというのはおそらくブラフだと思います。決してそんなことはありませんから、皆さんは誤解しないで下さい。

[追記: 2018年1月21日]
上記で意図的に"ヒルベルト-クーラント"と書きましたが、特に外国の方と話す時には、この本のことを"Courant-Hilbert"と呼んで下さい、念のため。

B. L. ファン・デル・ヴェルデンへのインタビュー
1993年5月4日 Yvonne Dold-Samplonius

Dold: ファン・デル・ヴェルデン先生、数学への興味はどのように始まったのですか? これに関して最初の思い出は何ですか?
van der Waerden: 私の父は数学教師だった。従って、この学科の本が家にあった。彼は断じて私にこれらを勉強して欲しくなかった。数学の本にのめり込むよりも外で遊ぶべきだと彼は主張した。だから彼は本を鍵をかけてしまい込み、私はそれらに触れられなかった。それが私を時折刺激した。例えば、コサイン法則から始まって三角函数のすべてを再発見した。どういうわけか私はコサインが意味することを知った。コサイン法則も知った。私の調査から、私が呼ぶところの"{1-(コサインの平方)}の平方根"という式が出現した。その時父が私を助け、これは"サイン"と呼ばれるのだと言った。当時私はアムステルダム(私はこの町で1903年2月2日に生まれた)のHogere Burger School(HBS)の生徒だった。それは初等学校に続く学校であり5年制だった。幾何学は勉強対象だったが、三角函数はそうではなかった。後のクラスで教えられるものだった。
Dold: その時期の他の"数学的"体験を語っていただけますか?
van der Waerden: 私は"ピタゴラス"と呼ばれるゲームを持っていた。それは自由に動かせるピースから成り、それを用いて正方形、長方形、または、それらを様々な方法で組み合わせることにより三角形を構築することが可能だった。私はそれをプレゼントとして受け取り、この上なく喜んでそれを遊んだ。ほとんどいつも私一人か、または父と一緒に遊んだ。私の2人の兄弟は、このタイプのゲームに全く興味を持たなかった。
Dold: 貴方の母は数学に興味があったのですか?
van der Waerden: いいえ、無かったと思う。私は母をすごく好きだった。よく私達はボートでザーンダムへ行ったが、そこに彼女は親類がいた。これらの親類も帆船を持っており、私達はよくそこで帆走に行った。
Dold: HBSの後、何があったのですか?
van der Waerden: HBSの後、私は勉強を続けた。当然、専門家に従って私は数学者にならなければならない。しかし、特別な数学教師を一人も憶えていない。だが、学校で理論を知っており、私達のために実験をする素晴らしい物理学教師がいた。しかし、私はまだ数学に熱心だった。
Dold: アムステルダム大学では誰の許で勉強したのですか?
van der Waerden: その時はブラウワーがおり、彼は最も有名だった。そしてヴァイツェンベックは不変式論を教えたが、彼はそれに関する本を書いた。しかし、マノリーに最も多くを学んだ。彼はオランダをトポロジーへ導いた数学者だった。マノリーは共産主義者で、独創的な数学者でもあった。
Dold: 貴方はこれらの人々と非専門家的な付き合いがあったのですか?
van der Waerden: マノリーは父の友人だった。父は社会民主党員だが左派だった。共産主義者達が社会民主党員達と別れた時、父は共産主義者達に親近感を覚えた。彼は多くの友人がいたが、その多くが共産主義者だった。しかし、彼は民主主義者だから社会民主労働者党にとどまった。
Dold: 貴方はブラウワーと親しい関係だったのですか?
van der Waerden: いいえ、彼はコースを教えに来たが、ラーレンに住んでいた。一週間に一度しか来なかった。普通それは許されなかっただろう、彼はアムステルダムに住むべきだった。だが、彼のために例外が作られた。
Camilla van der Waerden[訳注: ファン・デル・ヴェルデンの奥方]: 貴方、彼が貴方に静かにしてくれと頼んだ時のストーリーを話すべきよ。
van der Waerden: おお、そうだ。一度私は講義の間に質問をするため彼の邪魔をした。翌週のレッスンの前に彼の助手が来て、ブラウワーはクラスで彼にする質問を欲しくないと私に言った。彼は全くそれらを欲しくなかった。彼はいつも黒板を見ており、学生達の方に向けることは無かった。
Dold: かくて彼は解説があまり得意ではなかったようです。しかし、貴方は彼から多くを学んだでしょう?
van der Waerden: いいえ。たとえブラウワーの最も重要な研究貢献がトポロジーにおいてであっても、彼は決してトポロジーにおけるコースをせず、いつも彼の直感主義の基礎についてのみだった。彼のトポロジーにおける結果は直感主義の観点から正しくなかったので、もはや彼はそれらに確信が無いようだった。彼が以前やったことすべてを、彼の最大の生産物を、彼の哲学に従って間違いだと審判を下した。彼は非常に変わった人で、彼の哲学を愛することに夢中だった。
Dold: 貴方もトポロジーにおいて研究したことがあります。
van der Waerden: はい、マノリーからトポロジーを少し学んだ。彼は美しい論文"曲面イメージ"を書いた。彼は独創的な人だった。
Dold: そうすると貴方の勉強はどのように進行したのですか?
Camilla van der Waerden: それらの最中に彼は兵役をしていたの。
Dold: 貴方は勉強を終える前に兵役を要求されたのですか?
van der Waerden: いいえ。私はそれらを終えていたが、まだ卒業していなかった。既に必要な試験をすべて終えていた。兵役は最終試験の後まで延期された。
Dold: 貴方はブラウワー、マノリー、ヴァイツェンベックの許で最終試験を受けたのですか?
van der Waerden: いいえ、ド・フリースの許だった。ド・フリースも非常に独創的な人だった。彼は"数の幾何学"、すなわちシューベルトの数え上げ幾何学(それを彼はとても感心していた)に関するコースを行った。だが、この幾何学の基礎は駄目だった。だから、例えば数不変の原理は、幾何学的問題の解の数は随伴するパラメータが変化する時に変化しないと述べている。これが彼の主要論文だった。しかし、一つが一般的な場合から特殊な場合へ変化し、パラメータも変化すると仮定しよう。一般的な場合に対して複数の解が存在し、特殊な場合において一つの解のみ存在することがたまたま起こり得る。しかし、特殊な場合において解は重複度を入れてカウントされるべきだ。例えば、2つの円錐曲線は必ず4つの交点を持つ。それらが接する所において、そんな接点は重複点としてカウントする。これがシューベルトに不足していたことだ。彼は重複度の定義も、それを見つける方法も、それをどうやって計算するかも与えなかった。またイタリア幾何学者達は代数幾何学において注目すべき結果を得ていたが、基礎をほったらかした。従って、私は基礎を考え始めた。これに関するすべてのことを博士論文で議論した1。非常に短い時間で勉強を修了したから、私はゲッティンゲンでもう一つ別の学期を許してくれるか、そのための費用を払えるか父に尋ね、彼はいいよと言った。
Dold: 何年にこのことがあったのですか?
van der Waerden: えっと、世界大戦が終わるまでの間、1919年までHBSにいた。それから1923年にゲッティンゲンへ行き、ゲッティンゲンで私は数不変の原理を証明した。重複度の定義とそれを計算する手法を与えた。私は序論の中で次のことを書いた。"'数え上げ幾何学'と呼ばれるようになった代数幾何学の分科は今日まであまり安全とは言えない基礎に支えられている。幾何学の大部分が基づいている、シューベルトの数不変の原理はシューベルトの定式化においても、引き続く定義においても厳密ではなく、それらは欠陥もしくは不十分である"。それから私は数え上げ幾何学の厳密な基礎を与えた。私はそれを博士論文に仕上げたかったが、長すぎた。他にも、2つの言語オランダ語、ラテン語の内一つのみで博士論文は書かれるという規約があった。こうして私はドイツ語で提出を出来なかった。それで私の数え上げ幾何学の基礎をMath. Annalenに複数論文にして発表した。そして、私の博士論文として、これらのテーマの命題を証明抜きで提出した。この解決は受け入れられ、私の博士論文指導官は既に言及しているようにヘンドリック・ド・フリースだった。博士論文―えっと、日付はいつだったかな? 1926年3月24日にアムステルダム大学の大ホールにおいて私は自分の論文を擁護した。
Dold: こうして貴方はゲッティンゲンで博士論文について研究し、そのちょっと後で兵役をしなければなりませんでした。今回の間に論文について研究出来たのですか?
van der Waerden: デン・ヘルダーで海兵隊員をしている間に論文を書いた。当然、論文を議論するためにアムステルダムへ行く自由は無かったし、ほとんど自分一人で論文をやった。ゲッティンゲンでは、何よりもエミー・ネーターと知り合った。その時までになされたどんな研究よりも、彼女はずっと一般的に代数学を完全に改装してしまった。もっとはっきり言えば、彼女はゲッティンゲンにおける私の先生だった。このように私は彼女が開発していた手法を用いて私の定理を証明した。
Camilla van der Waerden: ゲッティンゲン滞在のためロックフェラー奨学金も貰った。
van der Waerden: そうそう、ゲッティンゲンで一学期後に、クーラントが私に注目し始めた。彼はエミー・ネーターの推薦をもとに私のため一年間のロックフェラー奨学金を獲得してくれた。これを使用して、私はゲッティンゲンでもう別の学期と、ハンブルクでアルティンとの一学期を勉強した。
Dold: その時にゲッティンゲンでは誰がいたのですか?
van der Waerden: 当然ヒルベルトがいたが、彼は非常に愛想がよかった。彼はよく私を家に招待したが、私の研究が彼にとって如何に興味深いか言えなかった。
Dold: 他に誰がいたのですか?
van der Waerden: フェリックス・ベルンシュタインもゲッティンゲンにいた。そして、その時"私講師"としてヘルムート・クネーザー、つまり3人のクネーザーの2番目(アドルフ・クネーザーの息子、マルティン・クネーザーの父)がいた。他では私の時代で、先ずハンズ・レヴィーとカート・フリードリヒがいて、彼等は偏微分方程式を研究しており、一緒に解の存在と一意性を証明していた。しかし、私が最も親密なのはヘルムート・クネーザーだったが、彼にブラウワーが私を紹介する手紙を書いていた。こうして始めから私は彼と親しかったし、彼から本当にトポロジーを学んだ。クネーザーと私は一緒に昼食を取るのが常だった。食事の後で彼は家に帰ったが、時折り私達は最初に軽い散歩をした。ゲッティンゲンの森をずっとぶらぶらし、彼は私に多くのことを教えた。いつも次のようだ。彼は私が完全には理解しない意見を述べ、それから私は彼が本当に言っていたことを調べるため図書館に入った。翌日に私は彼に解釈が正しいか訊いた。このように私は例えばトポロジーを学んだ。
Dold: ゲッティンゲンの高名な読書室をよく耳にします。
van der Waerden: はい、それは見事だった。自分で本を書棚から取れた。これは実にどこか他所で可能でなかった。アムステルダムでは大学図書館に入る時、最初にカタログの中を覗き、所定用紙に記入し、それを箱に置かなければならない。それから半時間して、リクエストされた本を得た。代わりにゲッティンゲンでは自分で書棚から本を得られたが、探していた本のすぐそばで、もう一つ別の興味深い本があることがよくあった。
Dold: ゲッティンゲンの雰囲気はそれらが言うように自由だったのですか?
van der Waerden: 私はそう思う。
Dold: 貴方がゲッティンゲンにいた間、その時に奥様と出会ったのですか?
van der Waerden: いいえ、それは後に起こった。私はゲッティンゲンで職を得た。
Camilla van der Waerden: しかし、貴方はゲッティンゲンからフローニンゲンへのオファーを受けた。
van der Waerden: それは次のような経緯だった。アムステルダムの公共図書館の読書ホールでバローによる解析幾何の中の記事を私は勉強していた。その本のパートⅡは不十分に証明された多くの定理(不十分に定式化されたものさえも)を含んだ。私は著者バローに手紙を書いた。私はまだ大学の学生ではなかった。まだHBSにいた。バロー(その時はフローニンゲンの教授)は職を去るならば、関係者はファン・デル・ヴェルデンを後継者としてノミネートしなければならないと言った。そして、事はそのように起こった。彼はユトレフトへ行き、関係者は私にフローニンゲンの職をオファーした。
Dold: いつフローニンゲンへ行ったのですか?
Camilla van der Waerden: 1927年か28年。それから1929年に私達は会った。
van der Waerden: 1927年だった。
Camilla van der Waerden: 同時にロストックへのオファーがあった。
van der Waerden: そうそう。
Dold: フローニンゲンでの状況はどうだったのですか? 何人学生がいたのですか? 貴方は単科大学に興味があったのですか?
van der Waerden: フローニンゲンではヴァン・デル・コルプトがいた。私は彼から多くのことを学んだが、特に漸近展開だ。私が読んだ漸近展開についての本を彼は書いた。
Dold: フローニンゲンにいた間に、代数学に関する本を書き始めたのですか?
van der Waerden: はい。それから1929年に私はゲッティンゲンの客員教授を獲得し、そこで細君と会った。
Camilla van der Waerden: 私がゲッティンゲンへ来た時、貴方はそこにいなかったが、私の兄(フランツ・レリッヒ)がいた。私は兄と生活することになり、薬局で働いた。後で、夏に貴方が客員教授として来た。そういうふうに私達は出会った。それから私達は結婚し、すべてが上手く行き、素晴らしかった。いや、非常に素晴らしかった。私達は7月に会って、9月に結婚した。それからフローニンゲンへ行った。しばらくして、私は確かに憶えているが、エミー・ネーターが電話で"ハネムーンを終える時よ。再び仕事に戻りなさい!"と言った。それから彼は仕事に戻り、一気に本を終えた。私は確かに憶えている。
Dold: 代数の基礎に関する、この本(Moderne Algebra I, Berlin, 1930)は非常な成功でした。始めからすぐに多くの読者を持ったのですか?
van der Waerden: はい、始めから。私の本Algebraに関して、経緯はこうだ。アルティンは本を書くことになっていて、私と一緒に書きたかった。第1章を書き終えて、それをアルティンに見せた。それから私は第2章を彼に送り、本の彼の担当部分の進み具合を訊いた。彼はまだ何もやっていなかった。それから彼は私と一緒に本を書くアイデアを諦めた。それにもかかわらず、本はアルティンとネーターの講義に基づいている。
Dold: どれくらいフローニンゲンにいたのですか?
van der Waerden: フローニンゲンでは2年間だ。それから私達はライプツィヒへ行った。
Camilla van der Waerden: これは1931年だった。1933年では、もう私達は行かなかっただろう。
Dold: その時、どの数学者がライプツィヒにいたのですか?
van der Waerden: ケーベがいた。
Camilla van der Waerden: 物理学者ハイゼンベルクとフント(彼等は数学者でないが)を除いて数学者達は貴方を魅了しなかった。
van der Waerden: ハイゼンベルクとフントは一緒にセミナーを持ち、私は出席した。私が物理学を学んだのは、この機会だった。アムステルダムでは物理教育が良くなかった。アムステルダムで私はファン・デル・ワールス、つまりノーベル賞受賞者ヨハネス・ディーデリク・ファン・デル・ワールスの息子に習った。
Dold: これらの交流が貴方の研究に影響しましたか?
van der Waerden: 私は群論と量子力学に関する本を書いた。当時ジョン・フォン・ノイマンとウィグナーによって作られた、群論から量子力学への応用がある。ヘルマン・ワイルがGroup Theory and Quantum Mechanics(だったと思う)とタイトルされた議題に関する本を書いていた。しかし、彼の本はとても難しく誰も理解しなかった。ヘルマン・ワイルは美しさのために数学を書きたかったが、私はあまり美しいと思わなかった。このように私は量子力学における群論手法に関する新しい本を書いた。その本は物理学者達に上手く受入れられ、すぐに売り切れた。後に私はそれを英語で書き直した。今だに入手可能だ。
Dold: ハイゼンベルクとフントはライプツィヒに残りましたか?
van der Waerden: ハイゼンベルクはベルリンへ行った。
Camilla van der Waerden: ずっと後、戦争の最終年に彼はベルリンへ、更にカイザー・ヴィルヘルム研究所(現在はマックス・プランク研究所)へ行った。
Dold: 戦争の間、物事は通常に続きましたか? 学生達はいたのですか、もしくは彼等は皆徴兵されたのですか?
van der Waerden: 学生達の殆どが徴兵されたが、私は後に有名になる一人を持った。彼は中国人ウェイ・リァン・チョウ(1911–1995)だった。私達は共にパラメータを使って代数多様体を表現する手法に関する論文を書いた。すべての代数多様体には私が発明した形式が付随される。チョウは証明を与えた。これに関する共著の論文を発表した。
Dold: チョウの有名な学位論文は、この共同研究から来ているのですか?
van der Waerden: はい。私達は方程式によって代数多様体を表現する方法を見つけた。すなわち、r-次元多様体がr超平面と交叉する時、私達は交叉の点を考える。各超平面により次元は一つ減り、このようにr超平面を持つ交叉は点の有限集合だ。各点はその座標によって決定される。さて一つがr+1超平面と交叉するならば、これらのr+1超平面に対して多様体と共通する点を持つための条件が存在するだろう。これが私達に方程式をもたらし、方程式の係数はチョウ座標だ。私はアイデアを思いつき、それを言った時チョウは証明を見つけた。今やW-L. チョウは米国におり、有名な数学者だ。
Dold: チョウは貴方の最も高名な学生です。しかし、貴方は有名になった学生達を持ったことがあります。ヘルベルト・ザイフェルトはライプツィヒで貴方の学生ではなかったのですか?
van der Waerden: いいえ、ザイフェルトはライプツィヒで私の助手だった。しかし、私の学生ではなかった。私がライプツィヒへ行った時、彼は既に立派な数学者だった。彼はトポロジーについて素晴らしい本を書いた。私は後にチューリッヒで二次形式について研究する多くの学生達を持った。彼等の学位論文は私の研究の一つと共に私が発表したが、それは私とハーバート・グロスにより編纂され、題名がStudies on the Theory of Quadratic Formsだ。グロスの他にもAeberli、Germann、Benz、Demuthを思い起こす。
Dold: ライプツィヒで貴方は哲学者ガダマ3も知りました?
Camilla van der Waerden: 私達は大親友だった。実に非常に素晴らしかった。
Dold: ギリシャ数学における貴方の興味を目覚めさせたのはガダマでしたか?
van der Waerden: はい、ガダマはプラトンについて非常に研究していた。私は彼のコースを受講さえした。
Dold: これはいつだったのですか?
Camilla van der Waerden: 終戦時。彼は素晴らしいコースをやった。
Dold: そして、これが貴方のギリシャ数学への興味を増大させました?
Camilla van der Waerden: 確かなことは言えない。戦争の間、私達は科学について彼等と話さなかった。リットとガダマは両方哲学者だが、彼等とはナチズム及び、いつまで続くのかを話した。二人ともナチスでなかった。その時私達は科学について話さず、ただ、もっとはっきり言えば、いつまで続くのかだけを話した。私達はナチズムの全時代の期間に閉じ込められていた。代わって、ハイゼンベルクとフントとは政治についてではなく科学について話した。それは奇妙なことだった。
van der Waerden: ガダマはプラトンの国家篇についてのコースを行ったが、私はそれに受講した。これはナチズムの期間だった。プラトンが国家篇で示す通りにガダマは独裁者は必ず筋道の通った人に敵対し、最後に独裁者は必ず自分自身を殺すと解説した。独裁者は最初に敵を、それから友人達を、最後に自分自身を破滅させる。クラスにはナチス学生達もいたが、彼等は理解しなかった。
Camilla van der Waerden: 彼等は何も決して理解しなかった。
Dold: これが戦争の間でした。それから貴方はライプツィヒを去らねばなりませんでした?
van der Waerden: 1943年12月4日に私達は空襲で焼け出され、細君と私は子供達を連れてドレスデンへ去った。
Camilla van der Waerden: 私の兄がドレスデンにいた。しかし、私達はそこで一晩しかいなかった。
van der Waerden: 兄はフランツ・レリッヒだった。ライプツィヒからドレスデンへの旅行の間に、私達は私の学生達の一人に出会った。彼女は同じ列車に乗っていて、"ビショフスヴェルダへ私達の所へいらっしゃい。そこでは安全でしょう"と言った。ビショフスヴェルダはドレスデン近郊の小さな町だ。
Camilla van der Waerden: 私達はそこで一年、もしくは多分もう少し長くいた。1944年の終わりに私達はライプツィヒに戻った。街は度重なる空襲にさらされた。
Dold: 貴女は何かものを持ち出せたのですか?
Camilla van der Waerden: 夫は"何も持ち出す必要はない"と言った。しかし、私は秘かにナップザックの中に私達5人各自の銀食器(ナイフ、フォーク、スプーン)を入れた。後にこれがとても役立った。
Dold: それから第三帝国の陥落が来ました。
Camilla van der Waerden: 私達はオーストリア内の国で生き延びた。1945年には絶え間ない爆撃をもう受けなかった。だから私達は私の母の所へ行った。彼女はグラーツの近く、タウプリッツに住んでいた。
Dold: 貴方はそこで数学に打ち込めたのですか?
van der Waerden: いいえ、かなりの間、私は何もしなかった。
Camilla van der Waerden: そこでは食べ物を生産することが如何に困難か分かった。そこから私達はオランダへ行った。
Dold: いつオランダへ戻ったのですか?
van der Waerden: 1945年7月。タウプリッツで私達は"難民"だった。米国人達がそこにおり、私達をバスで連れ去った。
Camilla van der Waerden: 米国人達は"今や皆が生まれた国に戻る"と言った。このように私達オランダ人はオランダに戻るべきだ。ヨハンネス・ヘースタース(夫は彼からのアドバイスを求めた)はオーストリアに残った。彼はオランダに戻らなかった。
Dold: 貴方はオランダに職があったのですか?
Camilla van der Waerden: 当時私達のいる状況を説明することは不可能だ。誰もこれを想像出来ない。
van der Waerden: ユトレフトからオファーがあった。戦争中、関係者達はユトレフトに私が来たいか書いて来た。私は"今でないが、戦後に私は来るでしょう"と返事した。ナチズムの間に私がオランダに行ったならば、ナチス内務大臣から称号を受けたであろう。そして私はこれが起きて欲しくなかった。それから私達は実際バスで到着した。その間に私の両親は死に、私の父がラーレンに建てた家に私達は住んだ。
Camilla van der Waerden: 私達は金無し、何も無しで到着し、指図にも他のどこにも仕事が無いことが分かった。
van der Waerden: その時ユトレフトからの、このオファーがあった。ユトレフトには私の良友フロイデンタールがいた。書類が大臣に行ったが、ナチス時代のすべての期間において私がドイツにいたので、女王は書類に署名することを拒否した。
van der Waerden: 人は実にそれを理解出来る。後で私はそれを完全に理解した。
Dold: このように貴方は職がありませんでした。家を持っていたが、他に何も持っていません。どのように暮らしたのですか?
Camilla van der Waerden: ある日、彼が帰宅して"ひと月以上暮らすには十分だろうが、それからは残っているものは何もないだろう"と言った。
van der Waerden: 終いに、ある日フロイデンタールが電話をかけて来て、私に話をするためアムステルダムに来て欲しかった。アムステルダムへ行き、フロイデンタールは私の職をシェル[訳注: 私は正直驚いたのですが、このシェルと言うのは紛れもなく、あの世界的石油会社シェルのことです]で見つけられたと言った。"受けてくれるかい?" はい、もちろん。私はこの上なく喜んで引き受けた。
Camilla van der Waerden: だから私達は救われた。彼等は私達の知性以外のすべてを奪えると私はいつも言って来ている。そして、その通りだった。
Dold: シェルで貴方は何をしたのですか?
van der Waerden: シェルではエンジニア達が難し過ぎると思う問題を私は解いた。楽しかった。彼等は全く異なる問題を抱えていた。例えば、調整機器の最良の回路は何か? 一言で言えば、最適化の問題だ。シェルでは、もう一人別の数学者がいて、彼と一緒に最適化の問題を研究し、素晴らしい解を見つけた。
Camilla van der Waerden: 私達にとっていい時だった。しばらく、何かがかなり違った。
Dold: どれくらいシェルにいたのですか? その後何があったのですか?
van der Waerden: 1947年にボルチモアで一年を過ごした。彼等は私にいて欲しかったが、私は断り、アムステルダムを選んだ。アムステルダムは市の大学であり、そこでは女王が干渉出来なかった。調停をし、関係者達に私へのアムステルダムのオファーをさせたのはヴァン・デル・コルプトだった。
Dold: それにもかかわらず、貴方はアムステルダムにそれほど長くは残りませんでした。
Camilla van der Waerden: それがそこでは大きなトラブルを与えた。関係者達は彼のために大変な努力をして来た。彼はチューリッヒからオファーを貰ったから去った。
van der Waerden: 私達は2年アムステルダムにいた。
Camilla van der Waerden: そして、1951年に私達はチューリッヒに来た。
Dold: 貴方の残りの人生をここチューリッヒで使いましたか?
Camilla van der Waerden: 2年後、ミュンヘンからオファーがあった。1953年に私達は行けたであろう。しかし、私達の子供達が変化全体に不安になっていたので、私達は受けなかった。
Dold: その時チューリッヒで誰が同僚でしたか?
Camilla van der Waerden: フィンスラーとネヴァンリンナ。
van der Waerden: そうそう、フィンスラーとネヴァンリンナ。私達は当時たった3人の教授だった。現在、数学で7つのポストがある。チューリッヒに関して特別なことはETH[訳注: チューリッヒ工科大学のこと。因みに言うとETHは国立大学ですが、チューリッヒ大学はチューリッヒ州の管轄ですから州立大学とも言えます]もあることだ。ハインツ・ホップとベノ・エックマンがここにいた。エックマンと一緒に私は、クーラントによって始められたシリーズ"イエローシリーズ"を刊行した。これらは黄色い表紙を持つ本だ。私の代数学はそこで刊行された。エックマンと私はかなり長い間(私が彼に完全に任せるまで)編集した。
Dold: 貴方はETHの同僚達と親密だったのですか?
Camilla van der Waerden: 大変けっこうでした。彼がいつも出席するセミナーがあった。夫はETHと大学の間に区別をつけなかった。時々彼は"これらのクラスはETHで取る方がいい。それらはETHでハイレベルだ"と学生達に言った。
Dold: いつ貴方は数学史に興味を持ったのですか?
van der Waerden: 私が学生だった時、ヘンドリック・ド・フリースが数学史のコースをした時。その後、私はユークリッドといくらかのアルキメデスのものを読んだ。このように私の興味は早く始まった。ゲッティンゲン(最初に私がいた時)でノイゲバウアーの講義に出席したが、彼はギリシャ数学に関するコースをした。
Dold: ノイゲバウアーはバビロニアに関して主に研究しました。彼はギリシャ数学に関するセミナーもしたのですか?
van der Waerden: 彼はギリシャ数学に関しても講義した。当時ゲッティンゲンでノイゲバウアーは特にエジプト数学に関して研究し、それに関するクラスをした。彼の学位論文はまさにエジプト数学についてだった。これは非常に刺激になった。後に私は一度コペンハーゲンに彼を訪問し、その時彼は私にバビロニア天文学を語った。これは私にとって最も興味深かった。
Dold: いつ数学史に関する研究を始めたのですか? 貴方の本Science Awakeningが50年代の始めに出現したと私は思います。オランダにいる間に本を書いたのですか?
van der Waerden: はい。ここに(ドイツ語訳の)序論の中で"私の本、1950年にオランダ語で最初に刊行されたOntwakende Wetenschap[訳注: これはオランダ語で、"科学の目覚め"]の多くの親切な評者は本がドイツ語に翻訳されることを勧めた"と書かれている。Helga Habicht-ファン・デル・ヴェルデン、私の一番年長の娘がそれの正確で読みやすい翻訳を終えてしまっている(Erwachende Wissenschaft, Basel/Stuttgart, 1956)。第2版、増補版は1966年に出版された。
Dold: 本に対する反応は何だったのですか? Erwachende Wissenschaftに対して?
van der Waerden: まあ、広く読まれた。よく売れて、よく引用されている。多くの言語に翻訳されている。日本語、英語、ロシア語。
Dold: 数学史に関する貴方の最初の刊行はこれだったのですか?
van der Waerden: そう思う。
Camilla van der Waerden: はい、それが最初だった。
van der Waerden: その時以降、私は数学史に興味を持ち続けた。天文学史にも。それはずっと最近に私に非常な興味を持たせている。
Dold: 量子力学の歴史に興味を持ったこともありますか?
van der Waerden: いいえ、量子力学の歴史においてではない。私のSources of Quantum Mechanicsは資料本だ。
Dold: 貴方が50年代にチューリッヒへ来た時、数学史に関するコースをしたのですか?
van der Waerden: いいえ、しなかったと思う。私は数学におけるコースをしたが、天文学と数学の歴史に関する研究もした。
Dold: 私の間違いでなければ、貴方はインド数学にも熱中しました。
van der Waerden: インド数学、いいえ、インド天文学だ。インド天文学について、アーリヤバタについて私は研究した。
Dold: チューリッヒへ来て以降、何の数学について研究したのですか?
van der Waerden: ええと。私の重要な論文はMath. Zeitschriftに載った。そしてMath. Annalenには"On Algebraic Geometry"というタイトルの論文のシリーズ(ZAG): I, II, ..., XXが載った[訳注: ZAGとはZur Algebraischen Geometrieの略称]。
Camilla van der Waerden: 代数幾何学に関する、これらの論文は50年代より前よ、チューリッヒに来た時からではない。チューリッヒではもうしなかった、違う?
van der Waerden: これは間違いだ。最後の論文ZAG XXはかなり最近、1971年だ。
Dold: そのように貴方は、群論、代数学、ハイゼンベルクとフントとの共同で力学、数論(代数学の一部分だと考えられますが)、数学史を研究しました。これらはかなり異なる分野です。これらの分野のうち、どれが最も貴方を喜ばせましたか?
van der Waerden: こともあろうに、代数幾何学だよ。
Camilla van der Waerden: まさか、しかし、私の知っている限り、それは数学史よ。
van der Waerden: うんうん、そして天文学史だ。
Camilla van der Waerden: 実を言うと、これが長年彼を最も喜ばせた。
Dold: 奥様はいつも数学史に興味を持っていらっしゃるのですか? これは本当に数学よりも理解することが易しい。
Camilla van der Waerden: 私はいつも彼がもっと数学に関わったことを好んでいる。しかし、彼はそれをしなかった。歴史についてもっと時間を増やし、数学についてもっと時間を減らしなさいと私は彼に言って来ている。
Dold: 貴方達のお子様達は数学に興味があったのですか? 貴方達の娘Helgaは本(Science Awakening)をドイツ語に翻訳したのですから、彼女はいくらか興味がありました。そして、他の二人は?
van der Waerden: 断固として、いいえ。3人の誰もが興味を持たなかった。私の孫達のうち一番年少が多分いくらか持っているが、まだ早すぎて語れない。彼はたったの10歳だ。
Dold: 貴方の指導の許で、チューリッヒの研究所は大きくなりました。貴方はもっと多くのポスト獲得に成功しました。貴方が着任した時、たった3つのポストしかありませんでした。1973年、貴方が引退した時にいくつあったのですか?
van der Waerden: 多くはないと思う。しかし、うんうん、私の引退前にグロスが大学に来た。彼は一時的にETHにいた。
Dold: 貴方が引退した時、(チューリッヒ州の)教育秘書官キュンチが貴方の70歳の誕生日の機会に数学史のための研究所を図書館付きで造りました。
van der Waerden: はい、しかし、図書館の一部は私の個人的な蔵書であって、それを研究所に寄贈したんだ。
Dold: 貴方は長年この研究所で研究を続けました。
van der Waerden: はい、ノイエンシュバンダーは彼の学位論文を私と書きました。
Camilla van der Waerden: 最初彼が学位論文を貴方と書き、その時に研究所が設立された。しかし、貴方の後継者は研究所に関する何事も他のことも知りたくなかった。
van der Waerden: 研究所は私の後継者によって廃止された。
Dold: スイスでは数学史に対する興味は非常にまれです。これに対する説明を持っていますか? 本当は豊かな国です。国が何とか出来るでしょうに。
van der Waerden: はい。
Camilla van der Waerden: 現在関心を持たれている唯一の人はCostantinescuだ。彼はETHで研究し、何かを、少なくとも"私講師"によってなされるコースを組織しようと努めている。彼は学生達が大変興味を持っていることを何度も気づいている。彼がイニシアティブをとる時はいつでも、いつも多くの注目がある。しかし、彼も勝てない。
Dold: 多分、適任の人々がここにはいないのでしょう。
Camilla van der Waerden: これは確かに理由。人々が欲しいのは数学者でもある数学史家。これは多くの人にとってハンディーキャップだ。この意味で私の夫は何の困難も無かった。
Dold: 研究所が廃止された後、ここ家で研究を続けたのですか? 私は貴方が古代数学について研究していたこと、代数学の歴史、とりわけ現代代数学の歴史(その中で貴方は一部分だった)に関する本(A History of Algebra, Berlin/Heidelberg, 1985)を書き上げていることを知っています。
van der Waerden: はい。私の最新の論文は天文学についてだ。第一部はブルクハルトと書いた1968年の"The Astronomical System of the Persian Tables I"である。第二部はずっと後、1987年に刊行された。
Dold: 貴方が着任した時、ブルクハルトは既にチューリッヒにいたのですか?
van der Waerden: 私は彼とずっと前、ゲッティンゲン時代に知り合いになった。これが私達の唯一の共同論文だ。
Camilla van der Waerden: スイスの状況を知らないで私達がここへ来た時、ブルクハルトは夫の大きな助けだった。彼がここにいなかったならば! 彼は夫にすべてのことで助けアドバイスした。1951年、スイスにおける状況は全く異なった。
Dold: 天文学的システムについて研究を続けていますか?
van der Waerden: いいえ、この議題は今や終わっている。それ以降、私は何も発表していない。しかし、議題はまた私に興味を持たせる。
Dold: 貴方は他の数学史家と親しい関係にあったのですか? 例えばフロイデンタールと。
van der Waerden: はい、フロイデンタールは教授になる前にブラウワーの助手だった。
Camilla van der Waerden: 彼は私達がまだオランダにいた時に教授になった。フロイデンタールは貴方より年少なの、それとも年長なの?
van der Waerden: 彼はずっと若かった。
Camilla van der Waerden: 彼はかなり前に亡くなった。彼はずっと若かった。彼はユダヤ人だったのに、オランダで生き延びた。
Dold: ドイツの数学史家との関係は何だったのでしょうか?
Camilla van der Waerden: 私はもう一人、ヴァイトナーを言わねばならない。彼はグラーツにいた。毎年夏に私達は私の母を訪ね、毎回夫はヴァイトナーとしばらく過ごした。彼と一緒にいることが最も楽しかった。そして、他の歴史家? ライプツィヒで誰がいたのかどうか憶えていない。ライプツィヒで数学史に興味を持っている人がいたの?
van der Waerden: いない。
Camilla van der Waerden: 彼はいつも偉大で孤独な人物だった。
Dold: 貴方達が私に語って頂けたことすべてが素晴らしいです。本当に有難うございます!

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idle

shibuyaの日記: ※あくまで個人の感想です 10

日記 by shibuya

https://video.twimg.com/ext_tw_video/952515573711216640/pu/vid/638x360/YPDjeJVRaUfH0g9Z.mp4

“すぎはらちうね”と人名を間違いなく言えているか否か。「ちうね」の部分で不自然に音量が下がって聞き取りづらい。体調が悪いのか頭が悪いのかと批判されたら「ちゃんといえなくてごめんなさい」と真摯に受け止める水準か。
読み間違っている/別の読みをしているといっている人もいるようだがわたしはそこまで踏み込んで言えない。読みに自信のない人ならこうなることもあるだろうな、というレベル。

13507460 journal
日本

yasuokaの日記: ISO/IEC 10646:2017に収録されていない『新潮日本語漢字辞典』の漢字 1

日記 by yasuoka

昨年12月26日30日の日記に続いて、『新潮日本語漢字辞典』の漢字がISO/IEC 10646:2017に全部ちゃんと収録されているか、チェックしてみることにした。ざっと調べてみたところ、以下の98字がISO/IEC 10646:2017に収録されていないようだ。

そもそも『新潮日本語漢字辞典』は、戸籍統一文字の対象となっておらず(cf.「𭓽」字考)、それが回りまわって、ISO/IEC 10646:2017への収録漏れという結果になったわけだ。さて、このあたり、どうケリをつければいいかしら。

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身近な人の偉大さは半減する -- あるアレゲ人

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