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680726 journal

tristanの日記: よい文章を書くための訓練

日記 by tristan

文章は、特定の性質を持った読者を常に念頭において書かれる。
日記も、誰かに読まれる可能性がある。
絶対読まれたくないのならば、書いたらすぐに捨てればよい。
それが出来ないのは、いつの日か読まれることを、想定しているからだ。

よい文章を書くには、読み手の像を自分の中に作り上げなくてはならない。

頭の中で、素晴らしい文章を次々と思い浮かべることが出来るのに、
実際に手を動かして書き始めると、頭の中で浮かんでいた文章より
はるかに出来が悪くなってしまうことがある。
これは、自分の中に作られている読み手の像が曖昧なものであるため、
その人にどう自分の中にあるものを伝えればよいのかということが、
明確に把握できないためである。

不特定多数に公開される文書においては、書き手は読者の顔は見えない。
書き手は読み手の像を自分の都合がよいように自由に作り上げることが許される。
もちろん、公開される場の性質によって、制限はあるが。

読み手の像が自分にとってよいものでなければ、本領を発揮することができない。
したがって、自分の中にある読み手像を鍛える必要がある。
よい読み手像を、自分のために、発掘しなければならない。

そうしていけば、実際の読み手が、書き手が望むように変化していくはずだ。
よい文章が書けるようになるには、時間をかけて、
書き手と読み手が、お互いの高めあっていかなければいけない。

読み手は入れ替わっていくことがあるのではないか、という反論があると思う。
うまく説明できないが、入れ替わっていっていても、お互いの高めあいという
概念は成り立つと思う。

だから、たくさん書かなければ、よい文章は書けないと思う。

ラカンは、他者の望むことをどう知るか、を研究したそうだ。
彼の業績については、勉強中なのだが、ここで書いたことと
関係ありそうな気がする。

というのは、文章のよさは、自分が言いたいことをうまく言えているか、だけでは決まらない。
読み手が望んでいるように書かれているか、が重要だからだ。

もう一つ、訓練しなければ無理だと思うのが、
全部の単語を自分の意志で書くこと。

これはとても難しいことだ。
個人差はあるだろうが、訓練しないと、惰性で単語のつながりを書いてしまうのだ。
一文まるごと、惰性で書いてしまうことさえある。
そういう文章には、妥当性が意志によって把握されている表現は、
途切れ途切れにしか現れない。

意志を持って言葉を書くには、適切な単語を選ばなくてはならない。
単語を選ぶ能力は、この訓練の過程で自然に成長する。

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