tristanの日記: 続 入、出、住
「入」の段階とは、学びの段階であるが、自己の模索の段階とも考えられる。そして、「出」への移行の段階で、自己を形成する。「出」、「住」の段階での仕事を問題にするとき、最終的には「入」と、「入」から「出」への移行の段階での努力が問題になるのである。
丸山真男と吉本隆明はそうとうやりあったらしい。丸山は吉本に対して「おまえは東大教授になることさえできないくせに」という意味のことを言ったと聞いている。
この言葉を、丸山の知性主義の露呈と見るのは間違いだ。おそらく、丸山はこんなことは本心では言いたくなかったに違いない。では、この言葉には何が込められているのか。
これほどの巨匠になると、「出」「住」の段階での仕事の質には決定的な差異は無かったと思う。吉本が丸山を攻撃した時、問題としたのは、結局「入」の段階だった。おそらく丸山は、「入」から「出」へ移行する段階において吉本よりも多く妥協した。大学教授になるためという、思想にとっては本質でない努力をしてしまった。
しかし、もはや「住」の段階に入ってしまってから「入」や「出」への移行段階のことを責められても、手遅れでどうしようもないところがある。それなにに厳しく攻撃されることへの不条理感に耐えられず、不本意ながらあのような言葉を吐いたのではないかと考えられる。
これは、たとえば団塊の世代一般に言えることなのではないか。この世代は自分のやってきたことに自信が無いとよく言われる。それは、「入」から「出」への移行段階で妥協して自己形成したことを責められたときに反論できないからである。
--------------------------------------------------
とはいえ、では個々の実存的存在としての人間は、どのように自己を形成するべきなのかは、さまざまな事情が絡むから、大変難しい問題である。また、他人について、どこまで言えるのかという問題も難しい。
自己形成のために他人を判断する場合と、すでに自己が形成されたとした上での他人の判断には、厳しさに違いがある。自己の変化を多くの可能性のうちの一つに決めるには、最良と決めたもの以外は、それより低く評価することになる。しかし、特に何か一つを最良と決める義務が無ければ、多くの個性を正当に評価することに努めることができる。
これらは、厳密に区別することは困難であるし、他人のそれがどのような判断なのかを知るのも難しい。本当は、自己形成のための判断というのは、あまり口に出さない方がよいのではないかと思うが、全く口に出さないのは決していいことではないと思う。
続 入、出、住 More ログイン