tristanの日記: 僕らの心情はどこから来ているのか
論理的思考が弱まり、社会への関心が希薄になり、厳しく考えることよりも、周りの友達とのつながりを求める私たち。
世界観をどう捉えればいいのか。
古臭い世界観は、とっくの昔に捨てた。
手がかりを与えてくれる人はいろいろいるが、自分自身でやることはやらねばならない。
例えば一般人が、多少情報を得ることができるようになって、
政治的決定が日本ではどのようになされるのか分かってしまったとき、
みんな夢を無くして、絶望してしまった。
国の巨額の借金という現実を私たち若者に押し付ける団塊の世代たち。
彼らに解決を期待をするのは、人間のことを知らない人だ。
彼らの罪を暴いて満足しているのは呑気な人だ。
私たちの世代が活動するしかない。しかし、どうやって?
環境問題が徐々に現実化されて、手遅れへの臨界点に近づきつつある現在、それでも19,20世紀の産業革命以来の人類の営みの慣性はとどまるところをしらない。慣性を計算に入れれば、明らかに人類はデッドラインを踏み越えていると思える。
それに比べれば、戦争の問題は、現実として人が殺される悪であるが、一時的、刹那的問題で、人間内の問題だと思える。こんな暴言を吐けるのは、もちろん、自分の国が戦争になっていないからなのだが。そして、とうとう日本は世界の圧力によって、戦争への道をまた踏み出さざるを得なくなった。
あの案には反対ではあるが、多少先延ばしにしても、近いうちに避けられなくなるのは目に見えている。過去からの流れから見て、どうしようもないことだった。
ここでも、対症療法ではなく、根治療法を考えなければならない。
その具体策はかいもく分からないのだが。
「ない」というのが答な気さえする。
たとえば、人が愛し合って子供を残していくという、動物としての営みだけをしていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。文明論。
しかし、残念ながら、言葉と道具を手に入れてしまって以来の一貫した流れとして現在がある以上、そんな夢物語を語ってもしょうがない。
このあたりの事情を、詩的、論理的な言葉で語ってみたい。
僕にできるかもしれないのはせいぜいその程度だ。
例えば、
マルクスが商品の価値形態の分析から初めて構築したもの。
吉本が言語のなりたちの分析によって、理論的基礎を与えたもの。
使える道具はいくつかある。
世界の片隅の1分子としての営みと離れた僕の活動目標だ。
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