von_yosukeyanの日記: 文明の衝突?(2)
曲りなりにも冷戦期、アメリカは「イスラムの盟主」たるサウジアラビアを中心に、相当な経済・軍事援助を行ってきた。理由は、「自由主義の防波堤」としてではなく、単に石油利権の防衛や北からの共産主義の浸透を防止するための現実的政策だった。
1979年にイラン革命がおこり、同年の末ソビエト軍がアフガニスタンに侵攻すると、アメリカの中東政策の中にイスラム原理主義運動を積極的に活用するというものが含まれる。イスラム原理主義運動は、西洋の近代化を否定したものだが、無神論者たる共産主義に対してはそれ以上に強烈な嫌悪感が存在したからだ。アフガニスタン戦争中、アメリカはイスラム戦士(ムシャラビン)に対して、スティンガーミサイルを中心とする最新型兵器を豊富に供給した。そのようなムシャラビンの組織の一つに、ウサマ・ビン・ラーディンの組織があった。
イスラム原理主義運動といっても、当時は全く分裂したものだった。なぜならば、イランのイスラム教徒の大半がシーア派イスラム教徒であるのに対して、他の大多数のイスラム教徒はスンニ派である。シーア派はどちらかと言えば聖職者の影響が色濃く、原理主義化しやすいのに対して、スンニ派は比較的寛容であるため、国内の不満分子が原理主義化する可能性は低いと思われたからである。
それでも、アメリカとガルフ(湾岸)諸国は防止策として、イラクに対して膨大な経済・軍事援助を行いイランに対して軍事的圧力をかけるようけしかけた。これがいわゆるイラン・イラク戦争であり、国内のイスラム教徒にイスラム原理主義運動が波及するのを恐れたソビエトも積極的にイラク支援を行った。(ちなみに、日本も1000億円規模の実質的な軍事援助をイラクに対して行っている)
アフガニスタンからの共産主義勢力の排除に成功したものの、他の防止策として取った様々な政策はすべて裏目に出てしまう。イラン・イラク戦争によってイランからの「原理主義革命の輸出」は成功しなかったものの、イスラム原理主義運運動を反共産主義運動に利用した結果、アフガニスタン帰りのムシャラビンたちが、結果的にガルフ諸国に原理主義運動を持ち帰ってしまった。1980年代後半、ガルフ諸国は原油価格の低下と、無理な経済開発の結果、経済は混乱し政府や支配階層の腐敗に対して、貧しい人々が反感をもったことが、イスラム原理主義運動の培地となった。
また、ムシャラビンたちも国に裏切られたというだけでなく、アメリカからも切り捨てられたという二重の屈辱を味わうことになる。これが、近代化による社会の腐敗という題目と結びつき、反米主義の題目となるのだ。
決定的だったのは、湾岸戦争以後のアメリカのガルフ諸国に対する軍事コミットである。ガルフ諸国に対する安全保障を担保するために、アメリカはサウジアラビアに対して恒久的な駐留米軍を置くことになる。イスラム教徒によって「聖地が存在する国」に異教徒の軍隊を置くことは到底容認できないことだ。以後、米軍基地に対する大規模な爆弾テロ、1993年の世界貿易センタービル爆破、アメリカ大使館爆破などのテロが頻発するようになる。これらの指揮をとった人物こそが、ウサマ・ビン・ラーディンである。
<長いなぁ・・・つづく>