von_yosukeyanの日記: セブンシスターズ(2)
スエズ地峡にグレートビター湖という塩水湖がある
レセップスがこの地にスエズ運河を開削したとき、グレートビター湖はスエズ運河を行き来する船の待機場となった。第二次世界大戦中には、運河を防衛するためにイギリスやアメリカの軍事基地が周辺に建設された
1945年2月、この湖に停泊したアメリカ海軍駆逐艦上で、史上初めての米サ首脳会談が行われた。アメリカ側のトップはヤルタ会談を終えたばかりのフランクリン・デラノ・ルーズベルト、サウジアラビア側のトップは、サウード第三王朝初代国王アブドゥルアジズだった
会談の目的は、パレスチナ問題の解決。当時、パレスチナはイギリスの信託統治下にあり、シオニストとパレスチナ人による双方によるテロと、パレスチナ人・シオニスト双方の大規模な衝突が発生していた。第一次世界大戦期、ドイツ帝国と同盟関係にあったオスマントルコが支配していたパレスチナは、オスマントルコを牽制するために、また領土獲得戦略の一部としてパレスチナに対する情報作戦と外交戦略の双方を進めた。前者で有名なのが、「アラビアのロレンス」と呼ばれたT・E・ロレンスをはじめとする工作員による破壊・懐柔工作であり、後者としては後に二枚舌外交と呼ばれる、ユダヤ・パレスチナ双方に与えた独立の確約である
実際には、イギリスはこの地域をフランスとの共同分割を画策してた。いわゆるサイクス・ピコ協定(1916年)で、パレスチナを北部のシリア地域と南部に分割、イギリスは南部パレスチナとメソポタミアを獲得する一方で、フランスはシリア地域に影響力を行使するという内容だった
一方で、承知の通りバルフォア宣言(1917年)でユダヤ国家建設を確約する一方で、パレスチナに対してはアラブ国家の建設を確約するマクマホン書簡(1916年)を送っていた。三重外交のようだが、結局はイギリスはサイクス・ピコ協定を取り、1920年に国際連盟の信託統治領としてパレスチナはイギリスとフランスに分割統治されることになる
当然、即時の独立を期待していたシオニスト・アラブ人双方はイギリスと相手側を攻撃し始める。1929年には、いわゆる嘆きの壁事件と呼ばれる大規模な衝突が発生し、双方に200人以上の死者が出たが、ユダヤ人による入植や土地の収奪によって生存権を脅かされたアラブ人が、イギリス人に対するテロ攻撃を行うようになったし、シオニスト側もテロによる独立を目指した。衝突は、第二次世界大戦によるヨーロッパからの難民が増えるに従い激化していった
ルーズベルト=アブドゥルアジズ会談はそのような状況下において行われた。当時は、アラビア半島全域の覇権を握っているとは言え、地域部族をまとめる王程度の存在でしかなかったアブドゥルアジズと会談したこと事態がかなり奇妙なできごとだった。当時、アラビア半島とメソポタミアはイギリスの勢力圏下にあったが、イギリスの支援するイブン・ラシード家がイラクを、地方勢力であるサバーハ家が都市国家クウェイトを、ラシード家の親戚筋がアラビア半島のほぼすべてを、トランス・ヨルダンをハシミテ家が支配していた。サウード家は第一次王国がオスマントルコに(1818年)、第二次王国がラシード家に(1891年)に滅ぼされており、その意味で反土親英的ではあるが、アブドゥルアジズ王によるリアド奪還(1902年)以降もサバーハ・サウード両家の共通の敵であるラシード家を支援しつづけるイギリスの統治戦略に原則的に反対だった
一方で、国内のユダヤ系ロビーによるパレスチナ国家建設の強い働きかけをうけていたルーズベルトは、第二次世界大戦後の世界戦略においては、アラブ側の協力者を獲得する必要性に迫られていた。ルーズベルトは、パレスチナ問題解決のためのサウジの影響力行使に期待していたようだが、会談そのものは不調に終わった。しかし、ダンマンで発見されたばかりの油田開発の協力拡大では友好的だったようで、双方が好印象を持った。ルーズベルトは、国王への贈り物としてダグラスDC-3ダコタを贈ることを約束した
ダコタが国王の元に届く前に、ルーズベルトは脳溢血で死去した。ルーズベルトの描いた連合国(United Nation)をベースにした集団安全保障体制は、彼の死とほぼ同時に崩壊し、時代は長い長い米ソ対立の時代へと突入していくことになる
しかし、米国とサウジアラビアの友好関係は、このときから始まった。1999年、イブン・サウード家復興100年(イスラム暦)を記念して行われた式典では、ルーズベルトから贈られたダコタが、サウジ空軍技術者と、ボーイング社技術者の協力で修復され実際に飛行したことは、米国とサウジの友好関係を象徴したものだった
そして、その友好関係は2001年9月11日まで続くことになる
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