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von_yosukeyanの日記: The house of MUNEO (21)

日記 by von_yosukeyan

日本橋には、二つの歴史的建造物がある。ひとつは先に紹介した室町の三井本館で、銀行建築としては日本でもっとも美しい部類の入る。現在、この建物には中央三井信託銀行が入居しており、隣接する地区には現在三井室町新館が建設中である。

もうひとつは、室町のすぐ隣、本石町は堀川沿いに建つ日本銀行本館である。辰野金吾博士によって設計されたこの建物は、1896年に完成したもので銅葺きの青い屋根と、花崗岩で構成された外壁とのバランスが美しい。現存する建物は二号館と三号館で、旧一号館は1984年に完成した新館の用地確保のために、残念ながら解体されてしまった。日銀の本店機能は、このあまり面白みもない新館に集約されている。

三井新館が財閥本社の建物として荘厳ながらもコリント風の荘厳な設計であるのに対して、ネオ・バロック調の日銀旧館は一言で言えば重厚である。ベルギー中央銀行本店を参考に、耐震性や暴徒による襲撃の可能性を考慮して設計されたためで、関東大震災や515事件、太平洋戦争中の空襲の被害も最小限で済んでいる。

明治政府による信用制度が確立したのは、幕末の経済的混乱と明治初期の通貨制度の混乱を経た1880年ごろと推定されている。このころには、まだ中央銀行は存在せず、アメリカのNation Bank制度を手本とした国立銀行(国法による民間銀行)が発券銀行として機能していた。当初、国立銀行は後には100を超える数が設立されるが、当初は東京第一国立銀行(第一勧業銀行を経てみずほ銀行とみずほコーポレート銀行に分割合併)、横浜第二国立銀行(現横浜銀行)、新潟第四国立銀行(現第四銀行)、大阪第五銀行(現三井住友銀行)の4つのみであった。

これが、大陸型の中央銀行制度に再編されたのが1882年のことで、ベルギー国立銀行を模範に組織された。


#Nation Bank制度は前世紀に入ってから地区連銀と中央金融政策決定機関の連邦準備制度理事会(FRB)を中心とする連邦準備制度(FED)が成立するなどして現在はかなり内容が変質している。民間銀行が発券銀行となる例は非常に多く、かつてのイングランド銀行や植民地時代の朝鮮における第一銀行などもそれにあたる。現在でも台湾銀行や、香港の香港上海銀行なども民間銀行と発券銀行という二つの側面を持っている

明治初期の政府の財政状況は破綻状態に近かった。幕末の政治経済の混乱で、国内生産は極度の不振に陥っていたし、税収も租税制度の改革が遅れたことが重なって極めて低いままだった。貨幣制度も旧貨に加えて、各藩が財政不足を補うために大量に発行した藩札、新政府が発行した太政官札、北海道開拓使などが北海道開発のために発行した紙幣、それに商人が決済に使用するために大商人の信用力を背景に発行が許されていた紙幣など、貨幣制度もバラバラで、しばしば正貨が不足したまま増刷が繰り返されたため、発行体によって信用力が異なるなど経済の混乱に拍車をかけた。

通貨の一本化は二つの段階で行われた。最初は、1871年に太政官札に変わる新しい通貨単位(それまでは両)として円・銭・厘が採用され、金本位制が確立した(後に銀も採用されたので実質的には金銀両本位制)。二番目に行われたのが、1873年の国立銀行制度の採用で、民間銀行に正貨を政府に拠出させ、その代わり拠出額の90%までの額(後にこの比率は引き下げられる)を各国立銀行券として発券を許可するものであった。当初は、このように発券規準が厳しかったために、上記の4行が設立されたに止まったので規準は緩和されたが、通貨制度は政府自体の発行による(新)円制度と、国立銀行制度によって安定化した。

1882年、国立銀行条例は廃止され新たに日本銀行条例(現日本銀行法)が制定された。当時153行存在していた国法銀行たる国立銀行は、日銀条例の施行により普通銀行に転換され、現存する銀行の祖先ともなった。一方、日銀は政府拠出50%、民間拠出50%で、法人格を有する特殊銀行として設立された。現在も、この基本的制度は維持されJASDAQに株式が上場されている。

しかし、日銀は株式会社ではない。通常の銀行は、商法及び特別商法である銀行法の統制を受けるが、日銀は日本政策投資銀行(DBJ)や国際協力銀行などとともに特別の設置法に基づいて設立された政府の特殊機関である。その法作用もまた、私法的ではなく公法的な理論が適用される。

こういった銀行を特殊銀行と呼ぶが、明治期には日銀以外にもいくつかの特殊銀行が存在した。まず、日銀の設立に先立つこと1879年に設立された横浜正金銀行(横浜正金銀行条例の制定は1897年)で、外国為替専用銀行として外国業務だけでなく海外における政府公債の発行など公私様々な業務を行った。戦前は、チャータード銀行や香港上海銀行とともに世界三大為替銀行として名を馳せたが、戦後GHQの指令により解体され、外国為替銀行法の下で東京銀行として生まれ変わる。現在の東京三菱銀行である。

明治以降、台湾や朝鮮などの海外領土の進出に伴い、外地(植民地)の中央銀行として初期には第一銀行や横浜正金銀行が中央銀行として機能していたが、これに代わる特殊銀行として設立されたのが台湾銀行(1899)と朝鮮銀行(1909)である。これらの植民地銀行は、日銀のような中央銀行的な機能のほかに、植民地開発という目的を達成するために普通銀行機能を持っていた。そのため、後の時代には台湾銀行の鈴木商店に対する巨額の不正融資事件など、半官半民の弊害が顕れた例もあった。台湾銀行は、敗戦後台湾貯蓄銀行、三和銀行など現地の日本資本銀行が合併し台湾省営の台湾銀行として生まれ変わり、現在でも発券銀行の一つとして存在している。また、朝鮮銀行は残余財産を下に日本不動産銀行が長期信用銀行法の下で設立され、後の日本債権信用銀行となった。現在のあおぞら銀行である。

横浜正金銀行が国際業務銀行として設立されたのに対して、産業振興のために開発資金を供給する国策銀行としては、日本勧業銀行(1896)と日本興業銀行(1896)、北海道拓殖銀行(1899)の三行が設立された。日本勧業銀行(農工銀行法)は農工業の振興、日本興業銀行(日本興業銀行法)は重工業、北海道拓殖銀行(北海道拓殖銀行法)は北海道開発と任務は異なるものの、共通して産業開発のための長期資金の供給を目的に設立された。やはり戦後、日本勧業銀行と北海道拓殖銀行は普通銀行に転換し、日本興業銀行は長期信用銀行に転換した。日本勧業銀行は1972年に第一銀行と合併し、第一勧業銀行となりみずほ銀行とみずほコーポレート銀行に分割合併している。北海道拓殖銀行は、都市銀行としては初めて98年に破綻し北洋銀行に営業譲渡された。日本興業銀行はみずほ銀行とみずほコーポレート銀行に分割合併している。

この他の特殊銀行としては、戦後に海外の開発協力のために設立された国際開発銀行や、日本輸出銀行(日本輸出入銀行を経て現国際協力銀行)、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)などが存在する。

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