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tristanの日記: 12歳のぼく

日記 by tristan

DVDレコーダー(HDD付き)を買って1ヶ月が経つ。
テレビを見る習慣がなかなか根付かないことが長年の悩みであった僕にとって、
この機械を手に入れられたことはほんとうに夢のような出来事だ。
僕にとっていかにこのことが大きな意味を持つかは、なかなか説明が難しい。

例えばF1を見るという愉しみ。
世界中で起るイベント体験の疑似体験。
各方面で活躍する人のお話。
事件の映像は、新聞の字面からだけでは計れない社会へのインパクトの大きさを感受できる。
音楽だってCDのみと映像があるのとでは全然違う。

テレビを通してのさまざまな疑似体験の蓄積は、
映像と真実とのギャップに慎重にならなければならないことを勘案しても、
現代人としての標準的な人生経験である。
イメージを豊富に持つことは、夢を沢山もつことでもある。

テレビを自由に見ることができぬ(他の体験も自由にできなかったのだが)
理由があったために、貧弱な体験しか持たぬ私は、
周りの人と同時代人として共有すべき同じ世界(The World)をもてず、
それはつながりの希薄となり、何でも話せるような人ができなかった。

他人の話があまりにわからなくて(情報が少なすぎたため)
僕はいつだって愛想笑いをしてごまかすことしかできなかった。
そんな僕には、周りの人も僕が分かる数少ない話しか振らない。

そうしてついに、僕は考えるのをやめてしまった。
人と一緒に分かろうとしても分からない挫折と絶望の積み重ねに対して
とうとう自己防衛機能が働いて、分かろうとすることをやめてしまったのだ。
もっとも、僕は表面の体裁を整えることだけはできてしまうところがあり、
問題があることが分からない人もおり、そこが2重に厄介だった。

そして僕は心を閉ざしてしまった。その方が快いからだ。
自分の傷をもっと強く痛めつけてくれる音楽を求めた。

あの当時の自分の本心をさらけ出したら、度量が相当大きな人でも、
とても手におえなく、僕の生きる場所は無くなっただろう。
だから、僕は心の内をさらけだす訳にはいかなかった。
ひたすらごまかして耐えた。「魚の死んだような目をしている」と言われた。
とっても頭が悪くなった。外界の認識能力に問題が現れるようになった。

僕の傷はもはや再起が困難な状況にあり、一人暮らしを始めても
状況はほとんど改善しなかった。そして、僕は負けつづけた。

もちろん、テレビだけが原因ではここまでの状況にはならない。
だが、テレビは最重要のメディアだ。他のあらゆる生活に波及するものだ。
その影響は、実体験がある者にしかとても分からないであろう深刻さだった。

人のやることにケチをつけたり、命令をするのが当たり前だと考え疑問を持たず、
やりたいことをする自由はやるべきことを行うのと引きかえとして
契約取引によって与えることでもって、ようやく許せるものであるとする親の考えの影響はそれに追い討ちをかけた。

親は僕に対していつも、弟のことを「信用できない」と言っていた。
契約不履行を許さないため厳しく管理しなければならないと思い込んでいた。
田舎出身の中産階級の庶民でありながら、エリート気取りであったために、
与えられる自由にも制限がついた。テレビを見せないのもその中の一つだった。

弟は苦しんでいる。だが僕のように器用に表面だけ取り繕ってごまかすことと、
それを長年続けることによる精神の衰弱を理解しない彼には、
僕の苦しみはなかなか理解できないようである。
悪い文化を一部取り入れてしまっているため、僕は彼をも今のうちは拒否せざるをえない。
お互いのこの問題の解決には時が必要なのだ。
今は話し合っても話がよじれて悪い方向に進んでしまう。

なお、僕は、テレビのほかにもうひとつ人並みにやっていなかったことである
筋力トレーニングをしている。だいぶ習慣となってきている。
体がデカイために、体力測定ではそれなりに結果を出せてしまうのがよくない。
実際には地道な筋力トレーニングがないために、特に上半身の筋力は極めて貧弱で、
心肺機能、内臓がなんとも弱々しい。
精神と肉体との連関を思うとき、私が今まで筋トレを十分しなかったのは大変な間違いだったと思うし、
一方、それは精神の問題のためにできなかったとも言いうるといいわけしたい。
ある種の精神的な絶望感は、肉体の運動に深刻な影響を与えるのである。
いわば、力が入らなくなり、運動に耐えられなくなる。
精神的に何らかの傷があるような印象がある人が、みな筋力的にも貧弱な印象があるのはそのためだ。

疑似体験の充実による精神の安定、自分をさらけ出しての人付き合いの力の向上、
自分で考えて行動する活力が少しずつ漲っていることが、
自分の筋トレの習慣化にもつながってきている。

ここ1年半ほど、僕は10年前に体験しておくべきことをいまさら体験しているという考えによく囚われていた。
だが、最近やっていることは、もっと古く、15年前にやるようなことをいまさら行っているというような気がしはじめている。

僕の中には6歳児が居て、よく顔を出してくる。会社にいるときでさえだ。
6歳の頃から、一度も必要なものが与えられずに成長する機会をもてないまま
今まで来てしまっているなにかがある。
だから、15年前からさらにさかのぼり20年前の自分に必要なはずだったものをみつけ
甘えか何かはわからないが、自分の中の6歳児を満足させて、もう顔を出さないようにさせなければならない。
そのとききっと、僕はようやく人並みに生きている実感をもち、
過去を切り捨てなければ耐えられない状態を抜け出して、
人と長く付き合えるようになれるだろうと信じている。

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UNIXはシンプルである。必要なのはそのシンプルさを理解する素質だけである -- Dennis Ritchie

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