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「自らの同意しない集団的決定に従う義務」
そういう書き方なら、そうかもね。ぼくは、「法律に従う義務」というニュアンスのつもりだったから。ところで、直接民主制であっても「法治」はあると思うんだけど。たとえば交通ルールを直接民主制で決めました。それは「法」とは呼べないですか。
で、その「義務」ですが、現実問題として少数派のほうが折れなきゃならない (折れてる) というのは、その通りです。が、それが理念として正しいかというと、多数派には少数派のことを配慮する責任がある、ということになると思います。ただそれは理念の上の話であって、実現できないのが実状だと思いますが。
民主主義の理念そのものの中には、民主主義政治を行う単位として何が望ましいか、ということは一切含まれていません。単純な考えをもってすれば、単一の民主的な世界政府と世界議会があればいい、ということになります。あるいは、民族や言語や宗教などとは一切関わりのない単位を人工的に作ってもかまわない。「住所の緯度を四捨五入した数値が偶数な人の集合」とか。
それに対して現在の政治の単位を擁護しようとしても、どうしてもとってつけた説明になってしまいます。世界政府に世界議会の何がいけないのか。それに対して民族自決という考え方はどう反論するのでしょうか。
議会に女性枠や民族枠などを作ったりしたところで、その議会で作られる法体系はひとつなんだから、それは、民族自決の理念に沿うものとは言えない。単に、少数者への配慮というだけです。民族自決の理念とは、民族が異なれば民主主義に基づいて議会を共有したり直接民主制にしたところで意見の相違が大きすぎて民主主義が成立しない、という想定にあるのだと思います。それに対して「女性枠」「民族枠」は答えになっていない。
で、ぼくの「民族自決」への疑問は2点あって、ひとつめは、民族が違えばほんとうに単一の民主政体を形成することは不可能なのだろうか、それくらいの意見の相違とはどれくらいの意見の相違のことなのだろうか、ということ。もうひとつは、それくらい大きな意見の相違は同一の民族の内部でも存在するにちがいないと思うのだが、もし民族間の「意見の相違」が「民族自決」つまり別個の民主政体をとるという形で尊重されるのなら、同一民族内の同程度の大きさの「意見の相違」が同様な形で尊重されない (現実問題として尊重するのは不可能だ、という意味じゃなくて、されるべきではない、つまり、「自業自得」) のはどういう理念に基づいているのか、ということ。
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Re:国 = 自? (スコア:1)
そういう書き方なら、そうかもね。ぼくは、「法律に従う義務」というニュアンスのつもりだったから。ところで、直接民主制であっても「法治」はあると思うんだけど。たとえば交通ルールを直接民主制で決めました。それは「法」とは呼べないですか。
で、その「義務」ですが、現実問題として少数派のほうが折れなきゃならない (折れてる) というのは、その通りです。が、それが理念として正しいかというと、多数派には少数派のことを配慮する責任がある、ということになると思います。ただそれは理念の上の話であって、実現できないのが実状だと思いますが。
民主主義の理念そのものの中には、民主主義政治を行う単位として何が望ましいか、ということは一切含まれていません。単純な考えをもってすれば、単一の民主的な世界政府と世界議会があればいい、ということになります。あるいは、民族や言語や宗教などとは一切関わりのない単位を人工的に作ってもかまわない。「住所の緯度を四捨五入した数値が偶数な人の集合」とか。
それに対して現在の政治の単位を擁護しようとしても、どうしてもとってつけた説明になってしまいます。世界政府に世界議会の何がいけないのか。それに対して民族自決という考え方はどう反論するのでしょうか。
議会に女性枠や民族枠などを作ったりしたところで、その議会で作られる法体系はひとつなんだから、それは、民族自決の理念に沿うものとは言えない。単に、少数者への配慮というだけです。民族自決の理念とは、民族が異なれば民主主義に基づいて議会を共有したり直接民主制にしたところで意見の相違が大きすぎて民主主義が成立しない、という想定にあるのだと思います。それに対して「女性枠」「民族枠」は答えになっていない。
で、ぼくの「民族自決」への疑問は2点あって、ひとつめは、民族が違えばほんとうに単一の民主政体を形成することは不可能なのだろうか、それくらいの意見の相違とはどれくらいの意見の相違のことなのだろうか、ということ。もうひとつは、それくらい大きな意見の相違は同一の民族の内部でも存在するにちがいないと思うのだが、もし民族間の「意見の相違」が「民族自決」つまり別個の民主政体をとるという形で尊重されるのなら、同一民族内の同程度の大きさの「意見の相違」が同様な形で尊重されない (現実問題として尊重するのは不可能だ、という意味じゃなくて、されるべきではない、つまり、「自業自得」) のはどういう理念に基づいているのか、ということ。