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物事のやり方は一つではない -- Perlな人
文章=バイナリ (スコア:1, 参考になる)
で、ソースコード(発想やイメージそのもの)は配布できないから、それをコンパイル(文章化)したバイナリコード(文章)だけを配布して、受け取った人がそれを逆アセンブル(読解)して理解をすると。
こう考えると、ソースコードの利用は最初から自由なわけで、あとはバイナリの入手や利用が自由であれば*十分に*自由と言えるのではないでしょうか。
ここで問題になるのは、たとえばある技術についての解説を複数切り張りして総合的な解説書を作るといった場合に、ライセンス条項が利用の妨げになるかどうかといったことでしょうが、文章を切り張りしなくても、自分が理解している内容をまとめて新たに文章を書くこと(ソースの改変+再コンパイル)はすでに認められているはず(元の文章をただ要約しただけの場合は翻案権の問題に引っかかりますが)なので、実用上問題になるのはバイナリの利用や翻案に関する部分だけのような気がします。
再コンパイル(翻案や切抜きや校正)だけを行った場合についての扱いは難しいところですが、自由な利用を認めたいのであれば、何も修正禁止部分を指定しなくても、通常の出展表記だけで十分なように思います。というよりも、ここを認めないと*完全に*フリーなドキュメントとは言えないような気がします(ということでDevian側の言い分に賛成です)。
# 技術的な解説書などがパブリックドメインのドキュメント(民話や
# 神話の類、ほとんどの古典文学などがこれに当てはまるでしょう)
# のように有機的に「成長」していくという可能性を考えると、
# Devian流のフリードキュメントは画期的な考えだと思います。
ただ、最初に述べた理由(文章の場合ソースコードの利用はもとから自由だし、ソースコードだけを配布することは原理的に不可能)から、GPL的なフリーよりもBSD的なフリー(もっと言えば、現在認められているフェアユースの範囲を拡大するような形でのフリー)の方が馴染みやすいような気がします。
# 最近署名ありのACが増えてきたようでなんとなく仲間意識を
# 感じてみたり。
### ID持ってないのでAC ###
書き忘れ (スコア:0)
謝辞などをそのまま転載することを強要してしまうと、再利用を重ねるうちに(修正前のBSDライセンスにおける広告条項のように)どんどん肥大化してしまうという可能性もあるんじゃないでしょうか。
# ライセンスの条項ちゃんと読み込んでないので
# 見当はずれだったらごめんなさい。
### ID持ってないのでAC ###