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しかし、FDL にある、部分的な変更禁止条項が、なぜ「非フリー」な世界とたたかうことになるのか、よく理解できません。
FDL の部分的変更禁止は、たんに、ひとの意見をまげて伝えることを禁止しようという意図だと思います。たとえば、ある文章の「yes」と「no」を逆転させるという変更を加えた文章を配布したら、それはまずいでしょう。rmsじゃなくても怒ると思います。しかし、GPL [opensource.jp]
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目玉の数さえ十分あれば、どんなバグも深刻ではない -- Eric Raymond
ノンフリーな社会のコンテクストの中で考える (スコア:0)
なってしまうんですが、GPLなりGFDLなりのみを取りあげて自由か
不自由かを議論してもあんまり稔りは得られないのではないでしょうか。
FSFのあれこれって、フリーを体現しているライセンスが
目的なのではなくて、まぁ、不自由な社会とのインターコースの
中で相対的によりましなフリーを獲得するための手段としてある
わけですよね?
とすると自由か不自由かではなくて、よりましな自由の獲得の
ための戦略として優れているかどうかという点を考えないと、
Re:ノンフリーな社会のコンテクストの中で考える (スコア:0)
しかし、FDL にある、部分的な変更禁止条項が、なぜ「非フリー」な世界とたたかうことになるのか、よく理解できません。
FDL の部分的変更禁止は、たんに、ひとの意見をまげて伝えることを禁止しようという意図だと思います。たとえば、ある文章の「yes」と「no」を逆転させるという変更を加えた文章を配布したら、それはまずいでしょう。rmsじゃなくても怒ると思います。しかし、GPL [opensource.jp]
Re:ノンフリーな社会のコンテクストの中で考える (スコア:0)
おっしゃることはおっしゃることでよく理解できるつもりです。
ただ、改変のみが文書における自由なのか、
自由というのが改変を認めることで守られるのか、という
疑問が出てくるように思います。とくに文書という思想表現とも
結びつくものにおいて。
少数者が自分たちの利益を、主張として込めつつ、
有益なマニュアルを書いたとして、
多数者がその主張をフィルタにかけて少数者の利益を無視した
マニュアルに改変してしまったとしたらば、
そういうことを許すライセンスは自由を守るライセンスと
いえるでしょうか? 守られるのは結局、
多数者や権力をもつ者の一方的な自由だけ。
つまりわざわざ守る必要があるとは思えない人たちの力と
なってしまうという事態は容易に想定できるように
思います。改変したという事実を記録するだけでは、
やはりこのへん、守られない貴重な自由があるとは
いえないでしょうか?
考え不足の点があれば教えてやってください。