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開いた括弧は必ず閉じる -- あるプログラマー
なんだか(-1:オフトピ) (スコア:3, 興味深い)
戦前の信学会ができる前の論文から収録されてるんだけど、自分ではそういうつもりなかったんだけど、心のどこかで、正直大した論文無いだろうな、、と眺めてみたら。。。
正直衝撃を受けました。正直「これは軍関係
Re:なんだか(-1:オフトピ) (スコア:2, 参考になる)
単に「高いか低いか」を議論しても意味がなく、そこからどのような教訓を得るかが大切だと思っているのですが、
仁科研究室の評価として田島先生の本を引用を続けます。
「仁科先生の学会に対する貢献を一口で述べるのは困難だが、あえて言うならば、当時まったく後進国であった日本に近代物理学を導入し」「それまでは実験物理学といえばせいぜい狭い実験室規模のものであったが、先生によってサイクロトロンという巨大な原子核破壊装置を用いた原子核研究が日本に根を下ろした。」
(田島先生は仁科先生の弟子なので過大評価しているかもしれませんが、当時の研究者の意識としては、こんなものでしょうか)
また大サイクロトロン(二号機)建設のいきさつについて、
「その頃、留学中の嵯峨根さんによって、(サイクロトロンの開発者の)アメリカのローレンス教授も同じようなことを考えていたがわかった。そこでこの両者は、建設は協力」「アメリカで二機を一緒に製作し、そのうちの一機を日本に送る方が」「安いことがわかった。当然、日本はアメリカに注文した。」とあります。
当時の物理学は、日本が必死に世界を追っていた時代ではないでしょうか?
Re:なんだか(-1:オフトピ) 補足 (スコア:2, 興味深い)
理研では、「加速箱」(荷電粒子が走るチューブ)の真空度を上げるのに非常に苦労したようです。ついにはあきらめて、1940年9月頃にローレンス教授の所に教わりに行くことにした。しかし、日米は臨戦態勢になり、ローレンス教授には会えなかったが、教授は助手を通じて、論文を託した(教授のぎりぎりの友情)。
この論文が非常に参考になり、「私達はこれを見た時,「なるほどナー」と深く感嘆した。そして電磁石以外の主要部分を、すべて突貫工事で改造することにした。」
「ある物理学者の生涯」(p55)より。