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立花隆が「知のソフトウェア」で KJ 法を評して言った「頭の回転の鈍い人が、集団で物を考えるのには向いている」に私も同意しています。紙にわざわざ書き出してそれを並びかえるという作業をなんでわざわざしなければいけないのか、それがとうとう理解できなかった。
が、発想法は人それぞれなので、KJ 法がいいという人がいることは、それはそれでまったくいいのですが、「KJ 法を GUI で実現しました」とか「この新インタフェース技術を KJ 法に応用しました」的な研究が世の中にはゴロゴロしていて、それがどう見ても KJ 法をさらに効率悪くしたものでしかないというのにはまいりました。しかもそいつら、そのツール結局自分達で使ってないんだ。なんというか、研究ネタに困ったら KJ 法を移植する、という文化が一部にはあるらしい。それだけ見ても、KJ 法のありがたみがわかるってもんだよね、とこれは行き過ぎた皮肉。多くの人が現に KJ 法は役に立つとしておりますから (e.g. 上野千鶴子)、世の中に大きな影響を与えた故人には、敬意を表します。
#似たような位置づけにあるのが、「デザインパターン」。
>、「KJ 法を GUI で実現しました」とか「この新インタフェース技術を KJ 法に応用しました」的な研究が世の中にはゴロゴロしていて、それがどう見ても KJ 法をさらに効率悪くしたものでしかないというのにはまいりました。
別に擁護するわけではないですが、研究に困ったら○○に応用なんてどこでもある現象だと思いますし、そういうのも(特に学生さんにとっては)立派な研究だと思いますがねえ。oltioさんは学生時分からよほど立派な研究をなさってるんでしょうね。素晴らしいことです。
別ACですが,同意しかねます.
そのような研究も,例えば卒業研究として行うなら学生にとって無駄ではないでしょう.しかし,教育的観点と,研究成果の有用性を評価する観点は別です.
「立派な研究」をした人でなければ他人の研究を評価すべきでないという意見も,多人数で検証を行うことが前提である自然科学の手法に反しています.否定的な意見を言われたからと言って,研究の価値が無くなるわけではありません.価値が最も下がるのは,誰からも相手にされなかった場合です.
# 卒論発表の場などで,発表者がボロボロになるまで厳しい意見を言うのが正しいと言っているわけではありません.# 念のため.
自分もたいしたことできてないのに人にだけ立派なことを求めるのはどうかとおもうってことですよ。#そんな暇あるなら自分が立派になれ
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ソースを見ろ -- ある4桁UID
KJ法にはいい思い出がない (スコア:3, 参考になる)
立花隆が「知のソフトウェア」で KJ 法を評して言った「頭の回転の鈍い人が、集団で物を考えるのには向いている」に私も同意しています。紙にわざわざ書き出してそれを並びかえるという作業をなんでわざわざしなければいけないのか、それがとうとう理解できなかった。
が、発想法は人それぞれなので、KJ 法がいいという人がいることは、それはそれでまったくいいのですが、「KJ 法を GUI で実現しました」とか「この新インタフェース技術を KJ 法に応用しました」的な研究が世の中にはゴロゴロしていて、それがどう見ても KJ 法をさらに効率悪くしたものでしかないというのにはまいりました。しかもそいつら、そのツール結局自分達で使ってないんだ。なんというか、研究ネタに困ったら KJ 法を移植する、という文化が一部にはあるらしい。それだけ見ても、KJ 法のありがたみがわかるってもんだよね、とこれは行き過ぎた皮肉。多くの人が現に KJ 法は役に立つとしておりますから (e.g. 上野千鶴子)、世の中に大きな影響を与えた故人には、敬意を表します。
#似たような位置づけにあるのが、「デザインパターン」。
Re: (スコア:0)
>、「KJ 法を GUI で実現しました」とか「この新インタフェース技術を KJ 法に応用しました」的な研究が世の中にはゴロゴロしていて、それがどう見ても KJ 法をさらに効率悪くしたものでしかないというのにはまいりました。
別に擁護するわけではないですが、研究に困ったら○○に応用なんてどこでもある現象だと思いますし、
そういうのも(特に学生さんにとっては)立派な研究だと思いますがねえ。
oltioさんは学生時分からよほど立派な研究をなさってるんでしょうね。素晴らしいことです。
Re: (スコア:0)
別ACですが,同意しかねます.
そのような研究も,例えば卒業研究として行うなら学生にとって無駄ではないでしょう.
しかし,教育的観点と,研究成果の有用性を評価する観点は別です.
「立派な研究」をした人でなければ他人の研究を評価すべきでないという意見も,
多人数で検証を行うことが前提である自然科学の手法に反しています.
否定的な意見を言われたからと言って,研究の価値が無くなるわけではありません.
価値が最も下がるのは,誰からも相手にされなかった場合です.
# 卒論発表の場などで,発表者がボロボロになるまで厳しい意見を言うのが正しいと言っているわけではありません.
# 念のため.
Re: (スコア:0)
自分もたいしたことできてないのに
人にだけ立派なことを求めるのはどうかとおもうってことですよ。
#そんな暇あるなら自分が立派になれ
Re:KJ法にはいい思い出がない (スコア:0)
研究成果は「立派な」ものも十把一絡げの物も,発表された時点では区別がつきません.
(研究者や既存研究との連続性からある程度の予測は可能ですが,予測でしかありません)
批判に晒し,生き残ったものを選び取ることが,本当に重要な研究成果を選び出すための唯一の方法なのです.
誰も真似できない(立派な)事が出来るのは,研究者の中のほんの一握りの人達です.
大多数の研究者は,それを検証したり,応用を探ったりする作業を行なっており,その活動には意味があります.
なぜならば,提案されたアイデアの有効性を判断することは,画期的なアイデアを考案することよりも簡単ですから.
「たいしたことできてない」人は他者の研究成果を批判するべきでないとしたら,自然科学は立ち行きません.