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寄付ってっても喜捨もあるし、貧困層・清貧団体の相互扶助もあるから一概にはいえないけど,インド・中東(キリスト教含む)の宗教上の寄付って日本以上に上から目線ですよ。喜捨は持てるものから持たざるものへの「施し」であり、持てるものの徳と責任と解く。この背景には貧富の差の維持が前提にある。
機能主義的には近代以前の社会資本の再分配機能であり、支配者階級の優越と被支配階級の懐柔による支配体制の再生産って側面が指摘できるよ。もちろん寄付行為自体を批判する気ははなはだ無い。
>貧富の格差が少ないから?
日本には本業の乞食がほとんどいないからではないかな?あちらでは、乞食に施しをしてやるといったレベルで見ているけど、日本では、そもそもいないので、お賽銭みたいなのと同一視している面があると思う。
昭和40年代中頃くらいまで、「傷痍軍人さん」が上野あたりにはいたけど、それに対してお恵みする時では、参拝するかの様に拝んでいる方もいたし...
軍神様とか、そのなり損ないという面で拝んでいたのかもしれないけどね。
托鉢もなくなりましたしね。
場所によりますが、寄付ってのは本来上から目線で構わない筈です。持てる者が持てない者に施すのは、上から目線そのものです。一億総中流なんていわれりゃそりゃ寄付も根付かないでしょう。まあ、どっちかといえば、お布施やお賽銭なんてのを「対価」と捉えるからおかしくなるのです。
施しは、施したほうも施されたほうもそれをすぐ忘れるべきだ、なんて説法で聞いた時に感心した覚えがあります。
取引ではなく何かを成す為の行いだと捉えれば、寄付に対して税制がとかインセンティブがなんて話にはならんはずです。日本でも母校にテントを寄付する、なんてのは結構行われてますから、やり方によるんでしょうな。「寄付なんてしたことない!」という人だって、古本を友達にあげたり、UnixのCDを電車に置き忘れたりしたことがあるはずです。自衛隊の基地祭とか、子ども会の夏祭りも、対価をとらずに相手に与える行為です。そういう行為も立派な施しのはずです。
「施し」という言葉の響きや、「お礼にお返しする」「対価として払う」という発想そのものが、寄付という文化を根付かせるのを阻んでいるような気がしています。
>寄付ってのは本来上から目線で構わない筈です。
というか、「今は」上だからという意識なんだと思う。
>お布施やお賽銭なんてのを「対価」と捉えるからおかしくなるのです
信じているとかあるかもしれないけど、対価でしか、人は払えない。施したから、将来、自分が施される側になって施す人がいるべきだとかね。なにも見返りがないと思われる状況で施しなんかできない。
ほんとに瀕死の状況で他者に施せる?
なにも見返りがないと思われる状況で施しなんかできない。ほんとに瀕死の状況で他者に施せる?
なにも見返りがないと思われる状況で施しなんかできない。
その辺はまんま宗教の話になるので難しいところです。が、日本でもなじみの深い大乗仏教では「利他行」という言葉で、他者の救済を優先したほうが良いといわれています。有名な「何も持たないウサギが、瀕死の修行僧の為に自らを焚き火の中に投じる」という話は、何ももたない者であっても施しはできるという形の寓話です。
いつか施される側に回るかもしれないから施すというのは、時間がズレた取引になってしまうため、こいつから施されることは無いだろうという相手には施さないという結論になってしまいます。 # まあオフトピも良いとこで、宗教観と寄付とが密接に関連してる、という話なだけなわけですが……
平等は説くがノブレス・オブリージュを説かない片手落ちのためじゃないかな?
昔の話ですが、日本はアメリカに比べてシェアウェアの支払いがいいという話を聞いたことがありますよ。日本人は寄付はしないけど盗みもしないし律儀なので使うならお金を払ってというシェアウェアで行くのがいいのかな。
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UNIXはただ死んだだけでなく、本当にひどい臭いを放ち始めている -- あるソフトウェアエンジニア
日本では定着するはずがない (スコア:0)
もちろん宗教的な価値観や税制の差もあるんだが、
日本人って、寄付は「上から目線」でするものってイメージを持ちすぎてる。
Re:日本では定着するはずがない (スコア:2, 興味深い)
寄付ってっても喜捨もあるし、貧困層・清貧団体の相互扶助もあるから一概にはいえないけど,インド・中東(キリスト教含む)の宗教上の寄付って日本以上に上から目線ですよ。喜捨は持てるものから持たざるものへの「施し」であり、持てるものの徳と責任と解く。この背景には貧富の差の維持が前提にある。
機能主義的には近代以前の社会資本の再分配機能であり、支配者階級の優越と被支配階級の懐柔による支配体制の再生産って側面が指摘できるよ。もちろん寄付行為自体を批判する気ははなはだ無い。
ふーん。ということは、 (スコア:1)
ということは日本は以下なわけですね。
なんででしょうね。
貧富の格差が少ないから?
その理由は資源が少ないので大きな貧富の格差を維持できない、
みたいな感じ?
Re:ふーん。ということは、 (スコア:1)
>貧富の格差が少ないから?
日本には本業の乞食がほとんどいないからではないかな?
あちらでは、乞食に施しをしてやるといったレベルで見ているけど、
日本では、そもそもいないので、お賽銭みたいなのと同一視している面があると思う。
昭和40年代中頃くらいまで、「傷痍軍人さん」が上野あたりにはいたけど、
それに対してお恵みする時では、参拝するかの様に拝んでいる方もいたし...
軍神様とか、そのなり損ないという面で拝んでいたのかもしれないけどね。
おふとぴ (Re:ふーん。ということは、 (スコア:2)
托鉢もなくなりましたしね。
場所によりますが、寄付ってのは本来上から目線で構わない筈です。
持てる者が持てない者に施すのは、上から目線そのものです。
一億総中流なんていわれりゃそりゃ寄付も根付かないでしょう。
まあ、どっちかといえば、お布施やお賽銭なんてのを「対価」と捉えるからおかしくなるのです。
施しは、施したほうも施されたほうもそれをすぐ忘れるべきだ、なんて説法で聞いた時に感心した覚えがあります。
取引ではなく何かを成す為の行いだと捉えれば、寄付に対して税制がとかインセンティブがなんて話にはならんはずです。
日本でも母校にテントを寄付する、なんてのは結構行われてますから、やり方によるんでしょうな。
「寄付なんてしたことない!」という人だって、古本を友達にあげたり、UnixのCDを電車に置き忘れたりしたことがあるはずです。自衛隊の基地祭とか、子ども会の夏祭りも、対価をとらずに相手に与える行為です。
そういう行為も立派な施しのはずです。
「施し」という言葉の響きや、「お礼にお返しする」「対価として払う」という発想そのものが、寄付という文化を根付かせるのを阻んでいるような気がしています。
Re:おふとぴ (Re:ふーん。ということは、 (スコア:1)
>寄付ってのは本来上から目線で構わない筈です。
というか、「今は」上だからという意識なんだと思う。
>お布施やお賽銭なんてのを「対価」と捉えるからおかしくなるのです
信じているとかあるかもしれないけど、対価でしか、人は払えない。
施したから、将来、自分が施される側になって施す人がいるべきだとかね。
なにも見返りがないと思われる状況で施しなんかできない。
ほんとに瀕死の状況で他者に施せる?
Re:おふとぴ (Re:ふーん。ということは、 (スコア:1)
その辺はまんま宗教の話になるので難しいところです。
が、日本でもなじみの深い大乗仏教では「利他行」という言葉で、他者の救済を優先したほうが良いといわれています。
有名な「何も持たないウサギが、瀕死の修行僧の為に自らを焚き火の中に投じる」という話は、
何ももたない者であっても施しはできるという形の寓話です。
いつか施される側に回るかもしれないから施すというのは、時間がズレた取引になってしまうため、こいつから施されることは無いだろうという相手には施さないという結論になってしまいます。
# まあオフトピも良いとこで、宗教観と寄付とが密接に関連してる、という話なだけなわけですが……
Re: (スコア:0)
平等は説くがノブレス・オブリージュを説かない片手落ちのためじゃないかな?
Re:日本では定着するはずがない (スコア:1, 興味深い)
ずっと前、
「DOGA」というCG作成ソフトが、X68Kではカンパウエアでやっていけていたのが、
Windowsでカンパウエアだとちっとも寄付が集まらず、シェアウエアに転換した、
という話を聞いたことがあります。
シェアウェアで行けばいいのかな (スコア:1)
昔の話ですが、
日本はアメリカに比べてシェアウェアの支払いがいいという話を
聞いたことがありますよ。
日本人は寄付はしないけど盗みもしないし律儀なので
使うならお金を払ってというシェアウェアで行くのがいいのかな。
Re:日本では定着するはずがない (スコア:1)