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写経は宗教的行為ですが、宗教そのものとは言いがたいと思います。 コピー機は宗教的な装置とは言いがたいですよね。
般若心経でも聖書でもコーランでも正法眼蔵でも何でもいいですが、 本当にただ意味も分からず、純粋に作業としてコピーしているだけなら、 それは宗教とは言わないと思います。写経には苦行としての意味合いもあるのかもしれませんが、 そこには経典の意味の読み取りが必要であるし、自分なりの読み替えが必要かもしれない。 やはり経典から宇宙の真理なり人生の意味なり道徳の真実なりを読み取って初めて宗教的となる、
「情報のコピーは宗教ではない」という認識は、あなた(あるいはスウェーデンの裁判官)の宗教観に基づく認識ですよね。
私の宗教観からすると、情報をコピーすること、情報を共有すること、っていうのは生命活動の根本たる生殖と同一視しうる行為です。複写という行為そのものに極めて崇高な宗教的意味があると私は考えます。
私のように才能もなく魔法使い街道まっしぐらな人間には、新たな生命も、新たな作品も生み出す事ができないのです。そのような人間にとって、自分の好きな情報(作品)を複写する行為は、自分という存在を文化的な意味で後世に残しうる
ここでちょっと著作権の話は置いておきましょう。
t_mrc-ctさんが仰るのは、コピー自体に興味があるのではなく、 好きな作品を他人に紹介したいのではないですか。 それは、オタク的な意味合いの布教であり、 宗教的な布教とかなり近い意味があるのではないですか。
ここで、「好きな作品を布教する」というのと、 「コピー自体が神聖である」というとでは、かなり意味が違うと思います。 つまり前者はコピーは手段であるのに対して後者はコピー自体が目的であるということです。 私は前者だったら理解できるのですが、後者は理解出来ないのです。
そして、ここからが本当に言いたいことですが、 私にはなにをいじけているのか分からない。 あなたはこうやって私の文章を読み、意味を理解し、 文章を書き込み、私に思いを伝えている。 意味のあるコミュニケーションを達成している。 少なくとも私はあなたの文章を読んで理解したし、こうやって返信するために 自分の時間を使っている。一体それ以上の何を望むというのでしょうか。
あなたの書いた文章は、あなたが著作権を持つ、世界に一つの創造物ですよ。 それは誰にも揺るがしがたい事実ではないのですか。 「電車男」の例を引くまでもなく、ある意味では2chが文学であるように、 このスラドだって文学ですよ。 他人が書いた文章を読み、理解し、自分で考えて、文字を書く、 それは昔から連綿と行われてきた、人間にしかできない、文化的活動なのではないのですか。 そうやって偉大な文学者たちや宗教者たちは、聖典を創り上げていったのではないのですか。
ちょっと熱くなりすぎたのでここら辺で終りにします。 参考文献として 佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」 [amazon.co.jp]を挙げます。 機会があったら読んでみてください。
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「科学者は100%安全だと保証できないものは動かしてはならない」、科学者「えっ」、プログラマ「えっ」
写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:4, すばらしい洞察)
Re: (スコア:3, 興味深い)
写経は宗教的行為ですが、宗教そのものとは言いがたいと思います。 コピー機は宗教的な装置とは言いがたいですよね。
般若心経でも聖書でもコーランでも正法眼蔵でも何でもいいですが、 本当にただ意味も分からず、純粋に作業としてコピーしているだけなら、 それは宗教とは言わないと思います。写経には苦行としての意味合いもあるのかもしれませんが、 そこには経典の意味の読み取りが必要であるし、自分なりの読み替えが必要かもしれない。 やはり経典から宇宙の真理なり人生の意味なり道徳の真実なりを読み取って初めて宗教的となる、
Re: (スコア:0)
Re: (スコア:3, 興味深い)
では論点を明確にするために、独断的に直感的にいいます。
宗教とは、世界観であり、生死観である。
それは情報そのものではなくて、情報の読み方を与えるものである。
ある人にとって「どこどこで日食が起こった」という情報は、 単に太陽、月、地球が一直線になっただけかもしれないし、 他の誰かにとっては世界の終りを示す事象かもしれない。
情報の摂取は、宗教観や価値観の変更にはならない。
それはすでに規定された読み方に従って情報を解釈することだから。
生まれた時から宗教と共にある
Re: (スコア:1)
「情報のコピーは宗教ではない」という認識は、あなた(あるいはスウェーデンの裁判官)の宗教観に基づく認識ですよね。
私の宗教観からすると、情報をコピーすること、情報を共有すること、っていうのは生命活動の根本たる生殖と同一視しうる行為です。複写という行為そのものに極めて崇高な宗教的意味があると私は考えます。
私のように才能もなく魔法使い街道まっしぐらな人間には、新たな生命も、新たな作品も生み出す事ができないのです。そのような人間にとって、自分の好きな情報(作品)を複写する行為は、自分という存在を文化的な意味で後世に残しうる
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:2)
ここでちょっと著作権の話は置いておきましょう。
t_mrc-ctさんが仰るのは、コピー自体に興味があるのではなく、 好きな作品を他人に紹介したいのではないですか。 それは、オタク的な意味合いの布教であり、 宗教的な布教とかなり近い意味があるのではないですか。
ここで、「好きな作品を布教する」というのと、 「コピー自体が神聖である」というとでは、かなり意味が違うと思います。 つまり前者はコピーは手段であるのに対して後者はコピー自体が目的であるということです。 私は前者だったら理解できるのですが、後者は理解出来ないのです。
そして、ここからが本当に言いたいことですが、 私にはなにをいじけているのか分からない。 あなたはこうやって私の文章を読み、意味を理解し、 文章を書き込み、私に思いを伝えている。 意味のあるコミュニケーションを達成している。 少なくとも私はあなたの文章を読んで理解したし、こうやって返信するために 自分の時間を使っている。一体それ以上の何を望むというのでしょうか。
あなたの書いた文章は、あなたが著作権を持つ、世界に一つの創造物ですよ。 それは誰にも揺るがしがたい事実ではないのですか。 「電車男」の例を引くまでもなく、ある意味では2chが文学であるように、 このスラドだって文学ですよ。 他人が書いた文章を読み、理解し、自分で考えて、文字を書く、 それは昔から連綿と行われてきた、人間にしかできない、文化的活動なのではないのですか。 そうやって偉大な文学者たちや宗教者たちは、聖典を創り上げていったのではないのですか。
ちょっと熱くなりすぎたのでここら辺で終りにします。 参考文献として 佐々木中「切りとれ、あの祈る手を」 [amazon.co.jp]を挙げます。 機会があったら読んでみてください。