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写経は宗教的行為ですが、宗教そのものとは言いがたいと思います。 コピー機は宗教的な装置とは言いがたいですよね。
般若心経でも聖書でもコーランでも正法眼蔵でも何でもいいですが、 本当にただ意味も分からず、純粋に作業としてコピーしているだけなら、 それは宗教とは言わないと思います。写経には苦行としての意味合いもあるのかもしれませんが、 そこには経典の意味の読み取りが必要であるし、自分なりの読み替えが必要かもしれない。 やはり経典から宇宙の真理なり人生の意味なり道徳の真実なりを読み取って初めて宗教的となる、
宗教って人間が知的生物である事を特別扱いすることで成り立って居る所も少なくないです。現在我々が認知しうる知能は情報の交換・共有を必要としますし、情報の交換・共有はその過程として情報の変換と複製を含みます。
言ってみれば情報の複製は人間のあり方を規定する上で非常に重要な行為なわけです。
例えばですが「人間とは情報を言語として文字として複製することにより進歩してきた特別な存在である。人間にとって生きる事とは、すなわち情報の複製を行う事に他ならない。さぁ、知的生命体であらんとする者たちよ、情報を複製するが良い」的な教義が定義されていたら、それは宗教なのではないかと思うのです。無論、複製を共有や交換と読み替えても、人間を知的生命体や文明や文化で読み替えても、宗教の根幹をなす哲学としては成立すると思います。
# 自分で書いてて、こういう宗教なら入信しても良いかもとか思ってしまった。
あなたが納得できる生命の定義なんて話はしてません。話を逸らさないように。
それらの行為のどの段階に「知的生命たる所以」を認めるかってのは宗教の宗派の違いに過ぎませんよ。別の宗教として「情報の複製こそ生命の本質である」って宗教も定義可能です。要は情報の扱いと生命や知性などの扱いに関連を認めさえすれば、その段階の一部である情報の複製も宗教の要となりうるってだけの話です。
知性や生命の本質をどう定義するかの話は「経典を読むなり説教を聞くなりして、 自分の中に世界観や生死観を構築すること」に該当します。あなたの返した話はキリスト教が進化論を否定するのと同じです。あなたの宗教の教義と私が即興で作った宗教の教義が衝突しているだけの話で、ここで教義を摺り合わせる必要はありません。
むしろ「あなたにとっての生命の定義」という非常に宗教的な価値観と衝突した以上、それこそがあなたと相容れない宗教である証明の様な物です。
うーん、あんまり話逸らしたつもりはなかったんですがねぇ。 むしろ「話がいい感じに深まってきたなあ」 なんて思いながら反論したつもりだったんですどね。
まず誤解を恐れず、結論を非常に短縮して申しますと、 「人は人生に意味を求める、真実を求める。だからこそ宗教が生まれる。だから、 人生は無意味だし真実など存在しないと言っている宗教は、存在自体が矛盾である」です。
確かに「情報の複製こそが生命の本質である。それこそが生命だ」 という世界観もありうるでしょう。 しかしその世界観からは、宗教は生まれてこない、と思うのです。 まず、話を戻して生命や知的生命の定義の話からしたいと思います。まずあなたは
宗教って人間が知的生物である事を特別扱いすることで成り立って居る所も少なくないです。
と書いた。これは私も同意するのです。だからこそ、知的生命とは何か、あるいは人間とは何か は宗教を考える上で重要な問いですし、生物とは何かも重要だと思うのです。 だから私はここにはこだわりたい。 あなたは「情報の複製こそが生命の本質である。」 という意味のことを書いた。それは部分的には同意します。 ですが、私はコンピューターウイルスは生命とは認めていませんし、 ウイルスも生命とは認めていません。 それは現在生物学で一般的な 生命の定義 [wikipedia.org]に、私も同意するからです。一応引用しておきましょう。
だから、生命を定義する上で、「情報を複製する存在」だけでは 足りないと思うし、知的生命を定義するには私はもっと高度なものを要求します。 人間は、世界を認識し、自分という存在を認識し、意味を認識し、情報を解釈できる。 だからこそ知的生命であると。 そしてさらに宗教的な人は、世界に、自分に何かの意味を求める。
だからこそ宗教が必要になると思うのです。 先の「情報の複製こそ生命の本質である」という世界観は、 私には我々一人ひとりの存在は無意味だ、と言っているように聞こえます。 それはそれで立派な哲学かもしれません。
しかしなぜそのように思っている人が布教するのか。 私にはその世界観は諦観とニヒリズムの表現に見える。 「世界や生物に意味などない。まして人間の存在に意味など存在しない。 道徳的な真実など存在しない」 と言っているように聞こえる。 真実が存在しないなら、個人の立場があるだけではないか? だったら原理的には客観的に正しい議論をしながら他人を説得するなんて言うのは、 主張している内容に真っ向から反対しているのではないのか? それは自己矛盾ではないのか?
人は誰もが認識するべき真実や人生の意味に に出会うからこそ、布教するのではないのか。 もしそれが存在しないと思うなら、他人の世界観、生命観に何を言う必要があるのか。 神でも大日如来でも涼宮ハルヒでも好き勝手なものを信じればいいではないか。
その態度は、私には「宗教的」とは程遠く見えるのです。 だからそんな宗教は存在しない、と思うのです。
いやーだいぶ認識が深まりました。 ここまで議論に付き合ってくださってありがとうございます。
ACで発言するとリプライが付いても気が付かないから駄目ですね。
> 人は人生に意味を求める、真実を求める。だからこそ宗教が生まれるそうでしょうか?道徳観の共有を目的とする側面も大きいと思いますし(有る意味で宗教=道徳となる事さえある)、真理の追究の側面を持たないまま宗教が共有される事もあります。日本人で明示的な信仰を持たない人は神道系に基づく宗教観をもつことが少なくないですが、そういった未整理の神道では真理の追究など関係ありません。・・・情報の複製教が道徳観の共有を含むかは知りませんが
> しかしなぜそのように思っている人が布教するのか。たしか
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クラックを法規制強化で止められると思ってる奴は頭がおかしい -- あるアレゲ人
写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:4, すばらしい洞察)
Re: (スコア:3, 興味深い)
写経は宗教的行為ですが、宗教そのものとは言いがたいと思います。 コピー機は宗教的な装置とは言いがたいですよね。
般若心経でも聖書でもコーランでも正法眼蔵でも何でもいいですが、 本当にただ意味も分からず、純粋に作業としてコピーしているだけなら、 それは宗教とは言わないと思います。写経には苦行としての意味合いもあるのかもしれませんが、 そこには経典の意味の読み取りが必要であるし、自分なりの読み替えが必要かもしれない。 やはり経典から宇宙の真理なり人生の意味なり道徳の真実なりを読み取って初めて宗教的となる、
Re: (スコア:0)
Re: (スコア:3, 興味深い)
では論点を明確にするために、独断的に直感的にいいます。
宗教とは、世界観であり、生死観である。
それは情報そのものではなくて、情報の読み方を与えるものである。
ある人にとって「どこどこで日食が起こった」という情報は、 単に太陽、月、地球が一直線になっただけかもしれないし、 他の誰かにとっては世界の終りを示す事象かもしれない。
情報の摂取は、宗教観や価値観の変更にはならない。
それはすでに規定された読み方に従って情報を解釈することだから。
生まれた時から宗教と共にある
Re: (スコア:0)
宗教って人間が知的生物である事を特別扱いすることで成り立って居る所も少なくないです。
現在我々が認知しうる知能は情報の交換・共有を必要としますし、情報の交換・共有はその過程として情報の変換と複製を含みます。
言ってみれば情報の複製は人間のあり方を規定する上で非常に重要な行為なわけです。
例えばですが
「人間とは情報を言語として文字として複製することにより進歩してきた特別な存在である。人間にとって生きる事とは、すなわち情報の複製を行う事に他ならない。さぁ、知的生命体であらんとする者たちよ、情報を複製するが良い」
的な教義が定義されていたら、それは宗教なのではないかと思うのです。
無論、複製を共有や交換と読み替えても、人間を知的生命体や文明や文化で読み替えても、宗教の根幹をなす哲学としては成立すると思います。
# 自分で書いてて、こういう宗教なら入信しても良いかもとか思ってしまった。
Re: (スコア:2)
Re: (スコア:0)
あなたが納得できる生命の定義なんて話はしてません。話を逸らさないように。
それらの行為のどの段階に「知的生命たる所以」を認めるかってのは宗教の宗派の違いに過ぎませんよ。
別の宗教として「情報の複製こそ生命の本質である」って宗教も定義可能です。
要は情報の扱いと生命や知性などの扱いに関連を認めさえすれば、その段階の一部である情報の複製も宗教の要となりうるってだけの話です。
知性や生命の本質をどう定義するかの話は「経典を読むなり説教を聞くなりして、 自分の中に世界観や生死観を構築すること」に該当します。
あなたの返した話はキリスト教が進化論を否定するのと同じです。
あなたの宗教の教義と私が即興で作った宗教の教義が衝突しているだけの話で、ここで教義を摺り合わせる必要はありません。
むしろ「あなたにとっての生命の定義」という非常に宗教的な価値観と衝突した以上、それこそがあなたと相容れない宗教である証明の様な物です。
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:2)
うーん、あんまり話逸らしたつもりはなかったんですがねぇ。 むしろ「話がいい感じに深まってきたなあ」 なんて思いながら反論したつもりだったんですどね。
まず誤解を恐れず、結論を非常に短縮して申しますと、
「人は人生に意味を求める、真実を求める。だからこそ宗教が生まれる。だから、 人生は無意味だし真実など存在しないと言っている宗教は、存在自体が矛盾である」です。
確かに「情報の複製こそが生命の本質である。それこそが生命だ」 という世界観もありうるでしょう。 しかしその世界観からは、宗教は生まれてこない、と思うのです。 まず、話を戻して生命や知的生命の定義の話からしたいと思います。まずあなたは
宗教って人間が知的生物である事を特別扱いすることで成り立って居る所も少なくないです。
と書いた。これは私も同意するのです。だからこそ、知的生命とは何か、あるいは人間とは何か は宗教を考える上で重要な問いですし、生物とは何かも重要だと思うのです。 だから私はここにはこだわりたい。 あなたは「情報の複製こそが生命の本質である。」 という意味のことを書いた。それは部分的には同意します。 ですが、私はコンピューターウイルスは生命とは認めていませんし、 ウイルスも生命とは認めていません。 それは現在生物学で一般的な 生命の定義 [wikipedia.org]に、私も同意するからです。一応引用しておきましょう。
だから、生命を定義する上で、「情報を複製する存在」だけでは 足りないと思うし、知的生命を定義するには私はもっと高度なものを要求します。 人間は、世界を認識し、自分という存在を認識し、意味を認識し、情報を解釈できる。 だからこそ知的生命であると。 そしてさらに宗教的な人は、世界に、自分に何かの意味を求める。
だからこそ宗教が必要になると思うのです。 先の「情報の複製こそ生命の本質である」という世界観は、 私には我々一人ひとりの存在は無意味だ、と言っているように聞こえます。 それはそれで立派な哲学かもしれません。
しかしなぜそのように思っている人が布教するのか。 私にはその世界観は諦観とニヒリズムの表現に見える。 「世界や生物に意味などない。まして人間の存在に意味など存在しない。 道徳的な真実など存在しない」 と言っているように聞こえる。 真実が存在しないなら、個人の立場があるだけではないか? だったら原理的には客観的に正しい議論をしながら他人を説得するなんて言うのは、 主張している内容に真っ向から反対しているのではないのか? それは自己矛盾ではないのか?
人は誰もが認識するべき真実や人生の意味に に出会うからこそ、布教するのではないのか。 もしそれが存在しないと思うなら、他人の世界観、生命観に何を言う必要があるのか。 神でも大日如来でも涼宮ハルヒでも好き勝手なものを信じればいいではないか。
その態度は、私には「宗教的」とは程遠く見えるのです。
だからそんな宗教は存在しない、と思うのです。
いやーだいぶ認識が深まりました。 ここまで議論に付き合ってくださってありがとうございます。
Re: (スコア:0)
ACで発言するとリプライが付いても気が付かないから駄目ですね。
> 人は人生に意味を求める、真実を求める。だからこそ宗教が生まれる
そうでしょうか?
道徳観の共有を目的とする側面も大きいと思いますし(有る意味で宗教=道徳となる事さえある)、真理の追究の側面を持たないまま宗教が共有される事もあります。
日本人で明示的な信仰を持たない人は神道系に基づく宗教観をもつことが少なくないですが、そういった未整理の神道では真理の追究など関係ありません。
・・・情報の複製教が道徳観の共有を含むかは知りませんが
> しかしなぜそのように思っている人が布教するのか。
たしか
Re:写経は宗教ではないとおっしゃるか (スコア:2)
ありがとうございました。