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家庭教師をしておりました時分、算数が苦手な子を担当したことがあります。その子の問題の解き方が
この前かけ算を習ったので、まず『×』を書く。次に文章中に出てくる数字を2つ、『×』の前に1つ、後ろに1つ書く。式ができるので、それを計算する
という問題の解き方でした。教育指導要領に書かれている「かけ算の順序が間違っている場合は、本質を理解していない」という脚注はこのような「論理的に立式するセンス」自体が備わっていない例を指すのだと思います。
#そして、おそらくこういう問題の解き方をする人は、社会にもそれなりにいるのではないかと・・・
立式の順
数学の教科書と格闘する日常から離れて20年近くなります。 でも四則計算ながらやっぱり毎日電卓をたたく日々です。見積書や請求書は数量×単価=金額で並んでいる書式ばかりなんだけどなぁ。(こちらの方が拾いマチガイが見つけやすい。)
この前かけ算を習ったので、まず『×』を書く。次に文章中に出てくる数字を2つ、『×』の前に1つ、後ろに1つ書く。式ができるので、それを計算するという問題の解き方でした。教育指導要領に書かれている「かけ算の順序が間違っている場合は、本質を理解していない」という脚注はこのような「論理的に立式するセンス」自体が備わっていない例を指すのだと思います。#そして、おそらくこういう問題の解き方をする人は、社会にもそれなりにいるのではないかと・・・
80年代に小学生だったのですが、掛け算学習初期段階での「乗算に可換性が無いことにする」というのは、天邪鬼小学生故、「聞いてなかった」です。それより父の可換性の説明や、分数掛け算、かっこの使い方、式内の単位表記法の説明の印象が強く、それが「暗算レベルの算数を自分の得意技に引き込む」基礎になったものと思います。数学になるとちょっとアレでしたが。 文章題も「バカ法」で立式して結果が間違いなければマルにしてもらっていました。それよりも後の説明ができることが重要と考えていましたし、引き算と割り算は注意して立式していましたが。
論理的に立式するセンスの判定は、可換性の無い引き算や割り算で出来ているかどうかを確認するのが現実的ではないかと思います。 そもそも日本語による状況説明では、語順が多少変わっても意味が通るので、解答式の提示だけで回答者が論理的に立式しているかどうかを判定するのは、ほぼ不可能だと思うのです。
可換性のない演算(特に除算)でつまずくことを心配して、実用上ではあまり意味をなさないルールを提示して守らせ、そのあと「実際には加算・乗算は可換性がある」とされるのは、学習する児童にとって混乱の元ではないかと思うのです。 この時期の、「権威ある者に裏切られた」というネガティブな感情はその後の社会生活に暗い影を落とします。特に「間違い許容力の低下した社会」では、何かにチャレンジする意欲が削がれる原因にもなりかねないと考えます。
それぐらいなら、可換性のない文章題で「バカ法1(数字出現順に並べて演算)」「バカ法2(大きい数字を先に配置して演算)」を挫いて、「何でそうなるのか」を考えさせるぐらいの方が理解が深まると思うのです。(学校教育現場がそこまで手をかけられなくなっているのは分かりますが…。)
「これは簡単化すると危険」ということを察知する「ヤバげアンテナ」が正常に働いている限り、(自分にとって)簡単化できる物事は簡単に考えればいいのではないかと思うのです。
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あつくて寝られない時はhackしろ! 386BSD(98)はそうやってつくられましたよ? -- あるハッカー
問題は立式ではない (スコア:5, 興味深い)
家庭教師をしておりました時分、算数が苦手な子を担当したことがあります。その子の問題の解き方が
という問題の解き方でした。教育指導要領に書かれている「かけ算の順序が間違っている場合は、本質を理解していない」という脚注はこのような「論理的に立式するセンス」自体が備わっていない例を指すのだと思います。
#そして、おそらくこういう問題の解き方をする人は、社会にもそれなりにいるのではないかと・・・
立式の順
Re:問題は立式ではない (スコア:0)
数学の教科書と格闘する日常から離れて20年近くなります。
でも四則計算ながらやっぱり毎日電卓をたたく日々です。
見積書や請求書は数量×単価=金額で並んでいる書式ばかりなんだけどなぁ。(こちらの方が拾いマチガイが見つけやすい。)
80年代に小学生だったのですが、掛け算学習初期段階での「乗算に可換性が無いことにする」というのは、天邪鬼小学生故、「聞いてなかった」です。それより父の可換性の説明や、分数掛け算、かっこの使い方、式内の単位表記法の説明の印象が強く、それが「暗算レベルの算数を自分の得意技に引き込む」基礎になったものと思います。数学になるとちょっとアレでしたが。
文章題も「バカ法」で立式して結果が間違いなければマルにしてもらっていました。それよりも後の説明ができることが重要と考えていましたし、引き算と割り算は注意して立式していましたが。
論理的に立式するセンスの判定は、可換性の無い引き算や割り算で出来ているかどうかを確認するのが現実的ではないかと思います。
そもそも日本語による状況説明では、語順が多少変わっても意味が通るので、解答式の提示だけで回答者が論理的に立式しているかどうかを判定するのは、ほぼ不可能だと思うのです。
可換性のない演算(特に除算)でつまずくことを心配して、実用上ではあまり意味をなさないルールを提示して守らせ、そのあと「実際には加算・乗算は可換性がある」とされるのは、学習する児童にとって混乱の元ではないかと思うのです。
この時期の、「権威ある者に裏切られた」というネガティブな感情はその後の社会生活に暗い影を落とします。特に「間違い許容力の低下した社会」では、何かにチャレンジする意欲が削がれる原因にもなりかねないと考えます。
それぐらいなら、可換性のない文章題で「バカ法1(数字出現順に並べて演算)」「バカ法2(大きい数字を先に配置して演算)」を挫いて、「何でそうなるのか」を考えさせるぐらいの方が理解が深まると思うのです。(学校教育現場がそこまで手をかけられなくなっているのは分かりますが…。)
「これは簡単化すると危険」ということを察知する「ヤバげアンテナ」が正常に働いている限り、(自分にとって)簡単化できる物事は簡単に考えればいいのではないかと思うのです。