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猥褻文書出版制限の判例となっているチャタレー事件の最高裁大法廷判決:
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271 [courts.go.jp]
>九 憲法第二一条の保障する表現の自由といえども>絶対無制限のものではなく、公共の福祉に反することは許されない。
例えば、露出狂が「表現の自由だ!」と主張しても見たくないものを見せられる方が拒否を感じる限り片方の個人的権利を主張しきれるものでもない。
人権よりも公共の福祉を優先したとしている
> 一 刑法第一七五条にいわゆる「猥褻文書」とは、>その内容が徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、>且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、>善良な性的道義観念に反する文書をいう。>二 文書が「猥褻文書」に当るかどうかの判断は、>当該文書についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。>三 文書が、「猥褻文書」に当るかどうかは、>一般社会において行われている良識、すなわち、>社会通念に従つて判断すべきものである。
判例は「文書」(チャタレー夫人の訳書が事件)だが、VTRなどの他の媒体でも同じであろう。社会通念上、「これを他人に見られたらエッチだ・社会的に死ぬ」あるいは「この人のこんな状態なんて見たくない」というものは隠すべきだ
>四 社会通念は、個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、>個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定されるものでない。
「これはエッチか否か」というのは多数決で決まるものじゃない。
>六 芸術的作品であつても猥褻性を有する場合がある。>七 猥褻性の存否は、当該作品自体によつて客観的に判断すべきものであつて、>作者の主観的意図によつて影響されるものではない。
作ったメーカーが「これはエッチではない」と言っても、受け手が「エッチだなぁ」と思うものは社会通念上「わいせつ物」だ
>八 刑法第一七五条に規定する猥褻文書販売罪の犯意がありとするためには、>当該記載の存在の認識とこれを頒布、販売することの認識があれば足り、>かかる記載のある文書が同条所定の猥褻性を具備するかどうかの認識まで>必要とするものではない。
作者や販売者が「これはエチエチやな」と認識することは、必要な犯罪構成の要素ではない受け取る側がそれを感じるかどうか、が問題だ
やはり、「商店街をぶらついていたらいきなり遭遇する『女性下着の店(やけにリアルな顔のマネキン付)』」というのは憲法違反だな…#作者や販売者はエチエチと思っていないが、受け手はエチエチを感じて恥ずかしくなってしまう#日本人の多数は女性だが、多数決で決まるものじゃない#リアル女性が着ているのを見られたら見た方が犯罪者なのに、マネキンが着ていたら公道に暴露されてOKとかどうなの#「公道で女性の下着を見たくない権利」はどうしたら行使できるのか
ちょっといくつか怪しいところがあるので……
「受け手が「エッチだなぁ」と思うものは社会通念上「わいせつ物」だ」について
-判例は「わいせつ文書」は「内容が徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書をいう。」(チャタレー事件最高裁。最判S26・5・10刑集5・6・1026のわいせつの定義の確認)と定義した上で
じゃあ誰がその判断するの? どうやって? というのに対して
・著者や出版社の意図でもなく・実際に読む人でもなく
・「裁判官」が・「その時代の健全な社会通念」を判断し、それを通じて・文書全体が「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」かを決める。
としている。だから「受け手が「エッチだなぁ」と思うものは社会通念上「わいせつ物」だ」、「受け取る側がそれを感じるかどうか、が問題」とは言えない。正確にはその内容について「裁判官が」「社会通念を判断した上で」「わいせつの定義に当たる」とするかどうか、が問題。現れるのは「受け手」ではなく裁判官の想定する「普通人」なんですよ。
「「商店街をぶらついていたらいきなり遭遇する『女性下着の店(やけにリアルな顔のマネキン付)』」というのは憲法違反」「公道で女性の下着を見たくない権利」について
-判例は続けて、社会通念が時代によって異なるとしても
「性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。」
と判示している。つまり、「性行為の非公然性の原則」があり、これが先の判断の基礎になっているわけ。
(写真とかの場合は「性器の非公然性の原則」になる(「例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。」))
だから、性行為の非公然性の原則が基礎にあるとすると「女性下着の店(やけにリアルな顔のマネキン付)」がわいせつにならないのは一目瞭然。定義から言っても女性が下着を買う際に参考にするのだから”いたずらに”性欲を興奮させるものじゃないし、「善良な性的道義観念に反する」とは言えないよね。
最後に、この判決は「見たくないものを見せられる方が拒否を感じる」からわいせつ表現を規制するとは言っていないし、見たくない権利について言ってるのではない。あくまで「性道徳に関しても法はその最少限度を維持する」という話。
(たとえは判決は「猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。」と言っている。これは「見たくない権利」ではない)
言っていることは筋が通っているけど、感覚の違いに対して不寛容過ぎない?「性道徳」というのも「感覚」をもとにしているわけだよね。
> 「例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。」
これは、未開社会に対する願望(都合のいい話)では? 検証が難しい内容であるし。
そもそも、「屋外広告物」と「店内展示物」では、前者はより厳しく取り締まるべきで、女性下着のマネキンを店内に展示するのはいいが、屋外広告物だったらおかしいでしょ。(ある人々の感覚として、不愉快に感じるもの(目障り、耳障り)の展示は配慮すべき。)
基本的に「人権侵害」「憲法違反」というのは過激な表現で、「ちょっと配慮が足りない」と解釈する程度でいいと思うのだが。もとの「人権侵害」は「ちょっと規制が強すぎ」って意味だろうし。(表紙・表装は規制してもいい(現状よりも厳しく)が、本体は規制をゆるめてもいいと思う。)まあ、法律の運用面での取り扱いが難しいのだろうけど。
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弘法筆を選ばず、アレゲはキーボードを選ぶ -- アレゲ研究家
判例はわいせつ文書規制における「人権侵害」はそもそも認めている (スコア:3, 参考になる)
猥褻文書出版制限の判例となっているチャタレー事件の最高裁大法廷判決:
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=51271 [courts.go.jp]
>九 憲法第二一条の保障する表現の自由といえども
>絶対無制限のものではなく、公共の福祉に反することは許されない。
例えば、露出狂が「表現の自由だ!」と主張しても
見たくないものを見せられる方が拒否を感じる限り
片方の個人的権利を主張しきれるものでもない。
人権よりも公共の福祉を優先したとしている
> 一 刑法第一七五条にいわゆる「猥褻文書」とは、
>その内容が徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、
>且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、
>善良な性的道義観念に反する文書をいう。
>二 文書が「猥褻文書」に当るかどうかの判断は、
>当該文書についてなされる事実認定の問題でなく、法解釈の問題である。
>三 文書が、「猥褻文書」に当るかどうかは、
>一般社会において行われている良識、すなわち、
>社会通念に従つて判断すべきものである。
判例は「文書」(チャタレー夫人の訳書が事件)だが、VTRなどの他の媒体でも同じであろう。
社会通念上、「これを他人に見られたらエッチだ・社会的に死ぬ」あるいは「この人のこんな状態なんて見たくない」というものは隠すべきだ
>四 社会通念は、個々人の認識の集合又はその平均値でなく、これを超えた集団意識であり、
>個々人がこれに反する認識をもつことによつて否定されるものでない。
「これはエッチか否か」というのは多数決で決まるものじゃない。
>六 芸術的作品であつても猥褻性を有する場合がある。
>七 猥褻性の存否は、当該作品自体によつて客観的に判断すべきものであつて、
>作者の主観的意図によつて影響されるものではない。
作ったメーカーが「これはエッチではない」と言っても、
受け手が「エッチだなぁ」と思うものは社会通念上「わいせつ物」だ
>八 刑法第一七五条に規定する猥褻文書販売罪の犯意がありとするためには、
>当該記載の存在の認識とこれを頒布、販売することの認識があれば足り、
>かかる記載のある文書が同条所定の猥褻性を具備するかどうかの認識まで
>必要とするものではない。
作者や販売者が「これはエチエチやな」と認識することは、必要な犯罪構成の要素ではない
受け取る側がそれを感じるかどうか、が問題だ
やはり、「商店街をぶらついていたらいきなり遭遇する『女性下着の店(やけにリアルな顔のマネキン付)』」というのは憲法違反だな…
#作者や販売者はエチエチと思っていないが、受け手はエチエチを感じて恥ずかしくなってしまう
#日本人の多数は女性だが、多数決で決まるものじゃない
#リアル女性が着ているのを見られたら見た方が犯罪者なのに、マネキンが着ていたら公道に暴露されてOKとかどうなの
#「公道で女性の下着を見たくない権利」はどうしたら行使できるのか
Re:判例はわいせつ文書規制における「人権侵害」はそもそも認めている (スコア:1)
ちょっといくつか怪しいところがあるので……
「受け手が「エッチだなぁ」と思うものは社会通念上「わいせつ物」だ」について
-判例は「わいせつ文書」は
「内容が徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する文書をいう。」
(チャタレー事件最高裁。最判S26・5・10刑集5・6・1026のわいせつの定義の確認)
と定義した上で
じゃあ誰がその判断するの? どうやって? というのに対して
・著者や出版社の意図でもなく
・実際に読む人でもなく
・「裁判官」が
・「その時代の健全な社会通念」を判断し、それを通じて
・文書全体が「徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反する」かを決める。
としている。だから「受け手が「エッチだなぁ」と思うものは社会通念上「わいせつ物」だ」、「受け取る側がそれを感じるかどうか、が問題」とは言えない。
正確にはその内容について「裁判官が」「社会通念を判断した上で」「わいせつの定義に当たる」とするかどうか、が問題。現れるのは「受け手」ではなく裁判官の想定する「普通人」なんですよ。
「「商店街をぶらついていたらいきなり遭遇する『女性下着の店(やけにリアルな顔のマネキン付)』」というのは憲法違反」「公道で女性の下着を見たくない権利」について
-判例は続けて、社会通念が時代によって異なるとしても
「性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。」
と判示している。つまり、「性行為の非公然性の原則」があり、これが先の判断の基礎になっているわけ。
(写真とかの場合は「性器の非公然性の原則」になる(「例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。」))
だから、性行為の非公然性の原則が基礎にあるとすると「女性下着の店(やけにリアルな顔のマネキン付)」がわいせつにならないのは一目瞭然。
定義から言っても女性が下着を買う際に参考にするのだから”いたずらに”性欲を興奮させるものじゃないし、「善良な性的道義観念に反する」とは言えないよね。
最後に、この判決は「見たくないものを見せられる方が拒否を感じる」からわいせつ表現を規制するとは言っていないし、見たくない権利について言ってるのではない。あくまで「性道徳に関しても法はその最少限度を維持する」という話。
(たとえは判決は「猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。」と言っている。これは「見たくない権利」ではない)
Re: (スコア:0)
言っていることは筋が通っているけど、感覚の違いに対して不寛容過ぎない?
「性道徳」というのも「感覚」をもとにしているわけだよね。
> 「例えば未開社会においてすらも性器を全く露出しているような風習はきわめて稀れであり、また公然と性行為を実行したりするようなことはないのである。」
これは、未開社会に対する願望(都合のいい話)では? 検証が難しい内容であるし。
そもそも、「屋外広告物」と「店内展示物」では、前者はより厳しく取り締まるべきで、女性下着のマネキンを店内に展示するのはいいが、屋外広告物だったらおかしいでしょ。(ある人々の感覚として、不愉快に感じるもの(目障り、耳障り)の展示は配慮すべき。)
基本的に「人権侵害」「憲法違反」というのは過激な表現で、「ちょっと配慮が足りない」と解釈する程度でいいと思うのだが。もとの「人権侵害」は「ちょっと規制が強すぎ」って意味だろうし。(表紙・表装は規制してもいい(現状よりも厳しく)が、本体は規制をゆるめてもいいと思う。)
まあ、法律の運用面での取り扱いが難しいのだろうけど。