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そうですね、おっしゃる事は、これまで良く指摘されてきた事で、ある部分については、当たっていると思います。しかし、ここにも僕は誤った拡大解釈があると思います。
僕は、(これからもっと増える)コンピューターに詳しくない一般消費者にとって、デスクトップはもっと簡素な物で構わなくなる、と言う未来を予想できます。理由は簡単です。それは、PCと言うコンピューターの必要性がそれほど無くなるからです。Webブラウジングは、携帯電話や、情報端末機能を統合した腕時計の画面で済ませる人が多くなるでしょう。もしかしたら、喫茶店や街角で提供される、セットトップボックスのようなネット専用端末もあるかも知れない。自然言語処理の実用化で、ワープロも表計算も、今とは別のインターフェイスで入力できるようになります。ここでPCが必要になったとしても、その人にとって、PCについてのみ必要な知識は、驚くほど少ないでしょう。多分、無いと考えます。PCの前に座る人は、情報機器を使える人口の中では、少数派になるでしょう。ここに至って、もはやWindows依存を考える必要が無い事は明らかでしょう。
デスクトップLinuxは、これを意識すべきです。確かに先端的な機能は実装できません(Windowsですらできていないのですから当然です)が、しかし、できることも明らかに多い。本文の表現を用いれば、趣味で使うデスクトップLinuxでない、一般社会へのデスクトップLinuxでは、コンソールもエディタもファイルマネージャも、デスクトップから消える必要があります。その結果、おっしゃった「家庭などで使用するPCと違うデスクトップ」との差異は、LinuxとWindowsの境界は、あいまいになるのです(これ、重要。Windowsの使用の「イメージ」はいつまでも同じではないのです。これは後に述べます)。家庭と学校で違う、とは、どこがどう違うのか、そう考える背景も含めて、捉え直しても良いかも知れません。その差異は、社会や経済の原則により近い潮流からすれば、簡単に飲み込まれてしまうものかも知れません。
冒頭の誤解の指摘に戻ります。何故、このような誤った考え方が一般的なのでしょうか? それは、資産の継承、と言う考え方がLinuxの内側から外側への指向だからです。例えば、しばしば使われる「Windowsに似せる」と言う言葉は、その象徴です。おっしゃった、「学校で、家庭などで使用するPCと違うデスクトップ」も、内から外への指向ではないでしょうか? しかし、大多数の人々は、コンピューターを外から内を見るのです。 一般的な社会がPCに求める物は違う。特に初等、中等教育はこれを半ば純化した形で求めてきます。具体的に言えば、OSに依存した教育内容は省かれます。そのことを避ける原則は、コンピューターの歴史の資産とは比べ物にならない、数百年の教育の歴史の資産の結果です。これは、コンピューターの世界の人々の間では、しばしば忘れられています。 同様の事が、教育以外のことでも言えます。それは、コンピューターに詳しくない人々にとって、コンピューターの世界で蓄積されてきた資産は、技術としての資産ではない、と言う事です。それは、イメージとしての資産に過ぎません。これは区別する必要がある。イメージは大きな影響を与えますが、それは、形のない、複数の面を持つ存在です。決して、そのままでは継承されない。これが、技術の資産とは決定的に違う。これも、コンピューターの世界ではしばしば忘れられている事です。
余談ですが、経済学的観点から見れば、Windows依存は、ゆがんだ資本主義の末路、と言えなくもありません。
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クラックを法規制強化で止められると思ってる奴は頭がおかしい -- あるアレゲ人
雑感です (スコア:1)
しかし個人的な意見として、学校で、家庭などで使用するPCと違うデスクトップを使用するような教育には反対です。
特に、初等教育、中等教育に導入するべきではないです。
つまらない教育はそのようにして行われるし、落ちこぼれはこのような安易な考えで作られると思うからです。
Windowsの持っている最大の財産は、Windowsを使用してきた全世界の人たちの知識と経験と成果です。
デスクトップ環境といっても他のPCと共通していなければならない。
Linuxは
Re:雑感です (スコア:1)
そうですね、おっしゃる事は、これまで良く指摘されてきた事で、ある部分については、当たっていると思います。しかし、ここにも僕は誤った拡大解釈があると思います。
僕は、(これからもっと増える)コンピューターに詳しくない一般消費者にとって、デスクトップはもっと簡素な物で構わなくなる、と言う未来を予想できます。理由は簡単です。それは、PCと言うコンピューターの必要性がそれほど無くなるからです。Webブラウジングは、携帯電話や、情報端末機能を統合した腕時計の画面で済ませる人が多くなるでしょう。もしかしたら、喫茶店や街角で提供される、セットトップボックスのようなネット専用端末もあるかも知れない。自然言語処理の実用化で、ワープロも表計算も、今とは別のインターフェイスで入力できるようになります。ここでPCが必要になったとしても、その人にとって、PCについてのみ必要な知識は、驚くほど少ないでしょう。多分、無いと考えます。PCの前に座る人は、情報機器を使える人口の中では、少数派になるでしょう。ここに至って、もはやWindows依存を考える必要が無い事は明らかでしょう。
デスクトップLinuxは、これを意識すべきです。確かに先端的な機能は実装できません(Windowsですらできていないのですから当然です)が、しかし、できることも明らかに多い。本文の表現を用いれば、趣味で使うデスクトップLinuxでない、一般社会へのデスクトップLinuxでは、コンソールもエディタもファイルマネージャも、デスクトップから消える必要があります。その結果、おっしゃった「家庭などで使用するPCと違うデスクトップ」との差異は、LinuxとWindowsの境界は、あいまいになるのです(これ、重要。Windowsの使用の「イメージ」はいつまでも同じではないのです。これは後に述べます)。家庭と学校で違う、とは、どこがどう違うのか、そう考える背景も含めて、捉え直しても良いかも知れません。その差異は、社会や経済の原則により近い潮流からすれば、簡単に飲み込まれてしまうものかも知れません。
冒頭の誤解の指摘に戻ります。何故、このような誤った考え方が一般的なのでしょうか? それは、資産の継承、と言う考え方がLinuxの内側から外側への指向だからです。例えば、しばしば使われる「Windowsに似せる」と言う言葉は、その象徴です。おっしゃった、「学校で、家庭などで使用するPCと違うデスクトップ」も、内から外への指向ではないでしょうか? しかし、大多数の人々は、コンピューターを外から内を見るのです。
一般的な社会がPCに求める物は違う。特に初等、中等教育はこれを半ば純化した形で求めてきます。具体的に言えば、OSに依存した教育内容は省かれます。そのことを避ける原則は、コンピューターの歴史の資産とは比べ物にならない、数百年の教育の歴史の資産の結果です。これは、コンピューターの世界の人々の間では、しばしば忘れられています。
同様の事が、教育以外のことでも言えます。それは、コンピューターに詳しくない人々にとって、コンピューターの世界で蓄積されてきた資産は、技術としての資産ではない、と言う事です。それは、イメージとしての資産に過ぎません。これは区別する必要がある。イメージは大きな影響を与えますが、それは、形のない、複数の面を持つ存在です。決して、そのままでは継承されない。これが、技術の資産とは決定的に違う。これも、コンピューターの世界ではしばしば忘れられている事です。
余談ですが、経済学的観点から見れば、Windows依存は、ゆがんだ資本主義の末路、と言えなくもありません。
Re:雑感です (スコア:1)
その役割が短期間で小さくなっていくとは思えないです。
各種の専門的な役割を持ったIT機器が増加しても、
PCはそれらの何かしらの中心的な役割を担うのは続くと思うのです。
Windowsの寡占がゆがんだ資本主義の末路だというのは、
半分賛成ですが、正確な批評という観点で意見を言うと、
コンピューターの特殊事情を考慮して修正するべきところが
沢山あるというのが僕の考えです。
コンピューターの世界の発展はドッグ・イヤーと呼ばれて、
その発展のめまぐるしさだけが強調されますが、
僕に言わせれば、ある意味で、逆に完成に非常に時間がかかるものだと思います。
GUIが70年代(でしたっけ?)に提唱され、それが完成品と呼べるものに
なるのに20年はかかっています。
Microsoftの寡占という現象は、僕の考えでは、一過性のものです。
ただし、コンピューターの世界の異常な完成の遅さのために、
「一過性」が数10年という時間になってしまっていますが。
MSの生産できる価値は相対的にはだんだん小さくなり、
苦しくなっていくのは間違いのないところです。
snowyさんの意見とは、僕はその点同意していますし、
snowyさんの丁寧で根拠を明晰に述べた評論はすばらしいと思いますが、
ただし、変化は時間がかかることだと言いたいです。
それがコンピューターの特性に由来するからです。
それから、Linuxデスクトップなどは僕の意見としては、
やはり既存のソフトウェアデザインの記号的資産(イメージ的資産)を継承し
発展する方向で考えるべきということです。
以上、おおざっぱな意見ですが、他の人があまり言わないことを言っているつもりです。
下のkinnekoさんの意見へのコメントは一部snowyさんへの反論にもなっているので
参考にしてください。