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偏見に満ちたコメントですね。
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開いた括弧は必ず閉じる -- あるプログラマー
宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:0)
生とはなにか?
宗教学者と話そう・・・・・あったら怖い
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:2, 興味深い)
宗教学者と宗教者は違うんだけど、ご理解されていますか?
宗教学者とは、宗教学 [zatugaku.jp]を研究する人で、宗教学は、その研究者に信仰を要求しません。
宗教の本質は狂信
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:0)
偏見に満ちたコメントですね。
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
狂信とも反社会性とも関係ないようなものは、宗教でなく道徳・モラルと呼ぶべきでしょう。
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
それは宗教の本質ではありません。
一方で、道徳・モラルを教え、広める事は宗教の本質の一つです。
道徳、モラルの本質が宗教とは言って無いので、誤解しないように。
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
ならば、道徳・モラルと宗教を分かつものは何ですか?
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
そして、個々の道徳・モラルの考え方も各々の宗教の『教え』の影響を色濃く受ける。
だから、宗教と道徳・モラルは切っても切り離せ無い関係にあるのもまた事実。
しかし、宗教と、モラル・道徳の関係は、イコールの関係ではない。
分かつわけでも、イコールでもない。
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
> 分かつわけでも、イコールでもない。
と言い張られましても、その説明だけでは、「殆ど等しい」という表現が適切かと思われます。
何がどう違うのか、説明してもらえませんかね。
あなたの言う「教
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
これは成り立つでしょう。
宗教は、道徳的な事柄を教え広める以外に含むモノ(当然悪い事柄を多く含む)がある。
そして、道徳は宗教の影響を色濃く受けるが、宗教そのものではないし、宗教的な事柄だけで成り立つモノでもない。
たとえば、日本においての『道徳』は、儒教、仏教、神道の影響を色濃く受けるが、儒教、仏教、神道そのものではない。
孔子や彼の弟子が残した書物には道徳的な教えが多々あるが、それが全てではない。
仏教で言う説法とは道徳的な内容が多々含まれるが、それが全てではない。
神道の八百万
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
誰かそのような主張をした者がおりましたでしょうか?
> 当然、狂信と宗教は関係が深いものですが、本質ではありません。
論理がありません。「イコールでは無いから本質ではない」は、説明になっていません。対象とその本質を問題にするときには、本質で無いものも想定されています。対象は、本質と本質でないものに二分(できるかどうかは別として)されていますから、当然、対象と本質はイコールではありません。つまり、対象とイコールでないことは、それが本質かどうかとは無関係です。
dekiさんが宗教の本質だと
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
まず、『本質』の言葉の定義をハッキリさせる必要がありそうです。
goo辞書より本質 [goo.ne.jp]
物事の本来の性質や姿。それなしにはその物が存在し得ない性質・要素。(辞書より抜粋)
>仏教と言うのは、出家する宗教です。出家するためには親子兄弟を含むすべての関係を断ち切ることもあります。
お坊さんであっても、
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
> お坊さんであっても、家族を持ち、髪を剃らない。そのような教義の仏教も存在します。
そんなものは、仏教の中では傍流に過ぎませんね。むしろ、仏教系の新興宗教と言ったほうが良いかもしれません。
それはもかく、浄土宗や浄土真宗にだって狂信は内在されています。ただ、通常はそれが表に出てこないというだけです。
もし、狂信とも反社会性ともまったく関係のない宗教があるとすれば、それは道徳・モラルと呼ばれるか、儀式のための
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:0)
http://tamagoya.ne.jp/potechi/shuha.htm
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
だから価値がない、とは言ってないので、誤解なきよう。
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
対象が仏教だろうが、仏教以外だろうが、新興宗教だろうが、別にかまわないわけですが。
というより、私が興味あるのは道徳ですね。宗教と全く無関係な道徳はありえるのだろうか?
ある人が道徳観を説いたところで、それは『●●教の教えに近いね』と言われるのは良くある話なので。
よくよく考えてみると、この『道徳観念を含む教え』が宗教の本義ですし。
自分たちは無宗教だと思っていても、
その地域を構成する宗教が、その地域の人たちの道徳観念に密接に関係してくる。のは間違いないだろう。
「いた [yomiuri.co.jp]
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
どこまでを「関係」と認めるかによるとは思うのですが、例えば人権。これを道徳と認めるかどうかとか、キリスト教的な影響があるとかいろいろあるわけですけどね。
人の歴史から宗教が消え去ったことがない以上、宗教と無関係な道徳というものは、在り得ないといえば在り得ないと思います。これは道徳だけに限らず、礼儀作法なんかもそうですし、文化全体を考えてもそうです。
> ですが、だから公立校で排除というのはどうなのでしょう?
それは政教分離を過度に徹底した結果でしょうね。
ただ、各宗教に固有のやり方で食事に感謝しても良いとは思います。
でも、それを学校に期待されても、教師だって困っちゃいますよね。大体、そういう礼儀のしつけなんてものは、学校に期待するのが間違いで、誰に言われなくても自分からするように教育するのが保護者の役目というものじゃないでしょうかね。今、教師という生き方は非常に厳しいのですから、そこまで教師に負わせるのは可愛そうです。
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
>でも、それを学校に期待されても、教師だって困っちゃいますよね。
自己の倫理観に基づいて行動する。子供に道理を教える、物事の良し悪しを教える。
そんな時に、宗教の影響を排除できるとは思えませんし、むしろ宗教の影響があるほうが好ましいでしょう。
それを無理やり排除しろ!という方が教師にとって無理難題でしょう。
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本題からはずれますが、
>大体、そういう礼儀のしつけなんてものは、学校に期待するのが間違いで、誰に言われなくても自分からするように教育するのが保護者の役目というものじゃないでしょうかね。
親の倫理観にも自信が持てない時代に、親の倫理観のみで育てられた子供はどうなるのかな?
礼儀、しつけを教える人は必ずしも教師である必要はありませんが、親以外が教える体制を整えなければいけない時代になったのかなぁ?とは思っています。
前にTVで幼児連れの母親が万引きをしている場面が放映されていたけど、
アレみると、しつけ、礼儀が『保護者の役目』で論議を終えて良いのかどうか疑問になります。
Re:宗教者と話そう「宗教の祭典」 (スコア:1)
価値観が多様化してしまったので、それも容易ではない、と。
> むしろ宗教の影響があるほうが好ましいでしょう。
異教徒のやり方は絶対に受け付けない、って宗教もありますから、難しいところです。
> それを無理やり排除しろ!という方が教師にとって無理難題でしょう。
そうでしょうね。でもまあ、「手を合わせて、いただきます」はあまりにも仏教じみてますから、イスラム教徒とかには受け入れられないでしょうねぇ。キリスト教徒だって、エホバの証人あたりは、受け入れられないことでしょう。
結構現場は厳しいんですよ、きっと。
> 本題からはずれますが、
最初から『科学者と話そう「科学の祭典」』ってテーマからはハズレまくってますが(笑)。
> 親以外が教える体制を整えなければいけない時代になったのかなぁ?
教育勅語でも復活させましょうか?
その教育勅語にしたって、家庭での教育と言う前提無しに書かれた物ではありませんから、教育勅語を復活させただけではダメでしょうね。
そのdekiさんの考えを敷衍するなら、共産主義体制下での家族解体の実験が参考になると思います。旧ソ連とかのね。行き着く先は、失敗でしょう。
まあ、僕らが小手先の浅知恵で考えるようなことは、過去に別の人が実験していて、その大部分は失敗してるんですよ。この問題に限って言えば、家庭や地域社会の復権と言う地味で当り前の方法が確実かつ唯一の対策なんじゃないかと思います。