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9割9部のセカイ系には社会はありますよ。子供だけで構成される特殊な社会が。だから社会が無いってのは誤解で社会を描かないというのも誤解。単にあまりにも特殊で大抵破綻しているだけ。あとは戦争や戦いの中で子供を守るのは大人と言うよりも軍人の役割かな。成熟した人間を大人と定義し未成熟の人間を子供と定義するならの話だが。火事から人を救うのが消防士の仕事であるように国民を敵から守るのが軍人の仕事。だから戦争・戦いという理不尽の中で子供を守るのは大人の役割ではない。尤も戦争においては大人も子供も関係なく徴集され
> 9割9部のセカイ系には社会はありますよ。子供だけで構成される特殊な社会が。
はい。それはその通りだと思います。わたしも「せいぜい子供同士で慰めあうのが精いっぱい」と書きました。ウィキペディアには
> こうした「方法的に社会領域を消去した物語」はセカイ系諸作品のひとつの特徴とされ[10]、社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かない点をもってセカイ系の諸作品はしばしば批判も浴びた[11][12]。
とあり、批判者はここを攻撃してきたのでわたしは閉口していました。もっともわたしの認識では「方法的」ではなく「本質的」なのですが。
> あと
ジャンルとしてのセカイ系やその表現手法の背景を分析してもそこから得るものは無いのでは結局のところ日本のサブカルチャー的物語における大人の排除が行き着くところまで行き着いた結果がセカイ系なのでセカイの命運をごく少数の一般人がどうこうするというところまではアメリカのいわゆる娯楽超大作映画と同じですね。まあエヴァンゲリオンの話がでたのでエヴァンゲリオンで話すなら使徒の殲滅に成功してセカイが平和になってシンジとアスカの精神状態がまともなまま終わればまあ倫理的にはハッピーエンドになるのでは。たまにある闘病物だと病人の周囲の人間が延命のために奔走する。そのせいで病人は苦しむし苦痛が長引く。故に作中で倫理的なケアはあっても効果が薄い。最後に病人が死ないし安楽死により苦痛から開放されるという倫理的な結末にたどり着く。作中が非倫理的であるにもかかわらず。
> 結局のところ日本のサブカルチャー的物語における大人の排除が行き着くところまで行き着いた結果がセカイ系なので
セカイ系が地下に潜ってしまい、まどかマギカやハピネスチャージプリキュアをセカイ系と考える人が誰もいないだけで、ぜんぜん行き着いていないと考えています。これはセカイ系の定義によります。
> セカイの命運をごく少数の一般人がどうこうするというところまではアメリカのいわゆる娯楽超大作映画と同じですね。
アメリカ映画はほとんどわかりませんが、「レディ・プレイヤー1」とかですか?あれは死や殺人がでてこないので、基本的には対象外にしています。
闘病ものというと「翼は心につけて」とかかなあ。これは筆者は主役は病気で死ぬ女の子じゃなくて両親のほうだととらえているので、ちょっとわかりません。
エヴァは庵野監督はハッピーエンドにしたかったのに、どうしてもそうなってくれなかったという意味の記事を当時読んだ記憶があります。
行き着くところまで行ってみて結局それだと自由が無いから戻ってきたんでしょう最近の作品をセカイ系と捉える向きが無いのは単にセカイ系と言う言葉が死後になってしまったからかもねよくよく考えてみると仮面ライダー555とか電王あたりはセカイ系的なお約束が多いねハリウッド映画だとアルマゲドンやハムナプトラですかねセカイ系の定義にもよりますがレディプレイヤーワンはセカイを救う話といえばそうだし違うっちゃ違うただ少なくとも殺人は明確に描かれるし死もでてくるので対象外にする理由が他に必要ですね見てもいない映画の話をするなんて批評家以上に恥知らずな真似はやめたらドウかな
> ただ少なくとも殺人は明確に描かれるし死もでてくるので対象外にする理由が他に必要ですね
おばさんのことですか?あれ、脅し以外に何か役割ありましたっけ。
> 見てもいない映画の話をするなんて批評家以上に恥知らずな真似はやめたらドウかな
肝に銘じます。
わたし、「セカイ系」だからいいとか悪いとか思ってないけど、暗い話が多いからどちらかというとイメージはよくないです。じゃあなんでオレ定義してまでそんな話をするのかとうと、期待する目的地があって、友情は善に思えるが、それは大人が教える善悪とは関係がない別ものだというところです。これが得られれば筆者にとってはかなりいろいろなものが説明でき、理解がすすむので。
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犯人はmoriwaka -- Anonymous Coward
猿が二頭以上集まると群れができるかもしれない人が二人以上集まると社会ができる (スコア:0)
9割9部のセカイ系には社会はありますよ。子供だけで構成される特殊な社会が。だから社会が無いってのは誤解で社会を描かないというのも誤解。単にあまりにも特殊で大抵破綻しているだけ。
あとは戦争や戦いの中で子供を守るのは大人と言うよりも軍人の役割かな。成熟した人間を大人と定義し未成熟の人間を子供と定義するならの話だが。火事から人を救うのが消防士の仕事であるように国民を敵から守るのが軍人の仕事。
だから戦争・戦いという理不尽の中で子供を守るのは大人の役割ではない。尤も戦争においては大人も子供も関係なく徴集され
Re: (スコア:0)
> 9割9部のセカイ系には社会はありますよ。子供だけで構成される特殊な社会が。
はい。それはその通りだと思います。わたしも「せいぜい子供同士で慰めあうのが精いっぱい」と書きました。ウィキペディアには
> こうした「方法的に社会領域を消去した物語」はセカイ系諸作品のひとつの特徴とされ[10]、社会領域に目をつぶって経済や歴史の問題をいっさい描かない点をもってセカイ系の諸作品はしばしば批判も浴びた[11][12]。
とあり、批判者はここを攻撃してきたのでわたしは閉口していました。もっともわたしの認識では「方法的」ではなく「本質的」なのですが。
> あと
Re:猿が二頭以上集まると群れができるかもしれない人が二人以上集まると社会ができる (スコア:0)
ジャンルとしてのセカイ系やその表現手法の背景を分析してもそこから得るものは無いのでは
結局のところ日本のサブカルチャー的物語における大人の排除が行き着くところまで行き着いた結果がセカイ系なので
セカイの命運をごく少数の一般人がどうこうするというところまではアメリカのいわゆる娯楽超大作映画と同じですね。
まあエヴァンゲリオンの話がでたのでエヴァンゲリオンで話すなら使徒の殲滅に成功してセカイが平和になってシンジとアスカの精神状態がまともなまま終わればまあ倫理的にはハッピーエンドになるのでは。
たまにある闘病物だと病人の周囲の人間が延命のために奔走する。そのせいで病人は苦しむし苦痛が長引く。故に作中で倫理的なケアはあっても効果が薄い。最後に病人が死ないし安楽死により苦痛から開放されるという倫理的な結末にたどり着く。作中が非倫理的であるにもかかわらず。
Re:猿が二頭以上集まると群れができるかもしれない人が二人以上集まると社会ができる (スコア:1)
> 結局のところ日本のサブカルチャー的物語における大人の排除が行き着くところまで行き着いた結果がセカイ系なので
セカイ系が地下に潜ってしまい、まどかマギカやハピネスチャージプリキュアをセカイ系と考える人が誰もいないだけで、ぜんぜん行き着いていないと考えています。これはセカイ系の定義によります。
> セカイの命運をごく少数の一般人がどうこうするというところまではアメリカのいわゆる娯楽超大作映画と同じですね。
アメリカ映画はほとんどわかりませんが、「レディ・プレイヤー1」とかですか?
あれは死や殺人がでてこないので、基本的には対象外にしています。
闘病ものというと「翼は心につけて」とかかなあ。これは筆者は主役は病気で死ぬ女の子じゃなくて両親のほうだととらえているので、ちょっとわかりません。
エヴァは庵野監督はハッピーエンドにしたかったのに、どうしてもそうなってくれなかったという意味の記事を当時読んだ記憶があります。
Re: (スコア:0)
行き着くところまで行ってみて結局それだと自由が無いから戻ってきたんでしょう
最近の作品をセカイ系と捉える向きが無いのは単にセカイ系と言う言葉が死後になってしまったからかもね
よくよく考えてみると仮面ライダー555とか電王あたりはセカイ系的なお約束が多いね
ハリウッド映画だとアルマゲドンやハムナプトラですかね
セカイ系の定義にもよりますが
レディプレイヤーワンはセカイを救う話といえばそうだし違うっちゃ違う
ただ少なくとも殺人は明確に描かれるし死もでてくるので対象外にする理由が他に必要ですね
見てもいない映画の話をするなんて批評家以上に恥知らずな真似はやめたらドウかな
Re:猿が二頭以上集まると群れができるかもしれない人が二人以上集まると社会ができる (スコア:1)
> ただ少なくとも殺人は明確に描かれるし死もでてくるので対象外にする理由が他に必要ですね
おばさんのことですか?
あれ、脅し以外に何か役割ありましたっけ。
> 見てもいない映画の話をするなんて批評家以上に恥知らずな真似はやめたらドウかな
肝に銘じます。
わたし、「セカイ系」だからいいとか悪いとか思ってないけど、暗い話が多いからどちらかというとイメージはよくないです。じゃあなんでオレ定義してまでそんな話をするのかとうと、期待する目的地があって、友情は善に思えるが、それは大人が教える善悪とは関係がない別ものだというところです。これが得られれば筆者にとってはかなりいろいろなものが説明でき、理解がすすむので。