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大人が書いた文章で「お父さんが」って…普通「父が」だろ。
「いい大人が電車の中で漫画週刊誌を読んでいる。情けない話だ。」という投書があったコトを思い出しました。
何故、大人が漫画を読んじゃイケナイの? 誰がそんなコトを決められるの? 法律で決められてるワケじゃないよね? 何で何で?
まだ幼かったこともあって、鮮烈な記憶として残っているのですが、当時そんなコトを言っていた「大人たち」は、今、漫画原作の映画やドラマを何の疑いも無く、嬉々として観たりしているワケで、私は苦笑混じりに「そういうモンなんだなぁ…」と思わざるを得ません。
「50年位前の新聞投書」してた人って、現在何歳くらいの想定なんでしょうか?もう死んじゃってるのでは?
しかし、マンガばかり読んでいれば、長文を読む能力が育たないのは確かじゃないでしょうか?そう言う能力が必要とされない世の中になった、と言う主張なのか、あるいは、元々そう言う能力は必要無かったのだ、という主張なのか。
後者は実際あり得る話で、つまり世の中は、長文を読めない「バカ」以外の人達の能力で成り立っている、と。
流石に50年前の話なので、投書した方の年齢までは憶えていませんが、若年層ではなく、30代以降だったような気がします。ウチのジージとバーバ(実の父母)は80代後半なのですが、やはりそんな感覚でしたね。ですから、私の同級生の親御さんたちの状況も判っている(※当時は都内区部在住)のですが、当時は「大人が人前で漫画を読むこと」に何等か「羞恥心」のようなモノが有ったと思います。
音楽に関して言えば、「ビートルズ」辺りが良い指標になるかも知れません。団塊より若い世代は肯定的ですが、80代後半だと「全く評価していない」人が多く、ほぼ漫画に対する評価と被っていると思います。
で、今の日本人の平均年齢が男女込みで84歳だそうですから、80代後半だと、まだまだ元気なお年寄りも多いと思います。
しかし、マンガば
当時は「大人が人前で漫画を読むこと」に何等か「羞恥心」のようなモノが有ったと思います。
「人前で」という話なんですね。「今、漫画原作の映画やドラマを何の疑いも無く、嬉々として観たりしている」を「人前で」と言うのとはちょっと違う気がします。今の80代はたいてい、ドラマは家の中で見るでしょうし、映画館は公共の場所であるでしょうけど、「電車の中」みたいな「人前」とは違いますよね。
何て言うのかな。後知恵感があるんですよ。マンガはたまたま文化として定着したので、その後知恵が成立しますけど、そうでないものもあるんじゃないでしょうか。ビートルズは残ったけど、その他多くの有象無象のロックバンドは残らなかったわけですしね。
80代後半だと、まだまだ元気なお年寄りも多いと思います。
時代劇チャンネル見てそうですけど
※>コチラ(#4143107 [srad.jp])の続きです。。
そう言うものをマンガという表現形式で伝えることが可能なのか、ちょっと疑問です。学習マンガとか、哲学を解説するマンガみたいなものはありますけど、それですべて伝えきれるか? 伝えきれたとして、コストは合うのか?
よく故手塚治虫先生を「マンガの神様」と言われたりしていますが、実のところ、私は大変不満だったりします。彼の生命倫理や未来予測を考えると、もうそれは哲学と呼んでも良く、「手塚治虫はマンガやアニメを用いた哲学者」と評価するほうが適切なのではないか、とさえ思ってます。
そんな彼のDNAは数々の「弟子」たちに伝えられたワケですが、「ドラえもん」の名言、「どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ。 」にしても、いい大人さえもナルホドと思うような、本質的部分を「子どもたち」に伝
特に反論も無いのですが。
そう考えた場合、「その程度のレベル」でも事足りるのなら、そこで済ませて、その分、別分野に振り向けるメリットのほうが大きいという考え方も出来ます。
なので、「あるいは、元々そう言う能力は必要無かったのだ、という主張なのか [srad.jp]」と書いたわけです。
世の中には、本質的に難しい問題があって、それはどんな表現形式を採ろうともある程度以上の量をこなすことが必要になる。もっとも効率的に伝える方法の一つが、少なくとも現在のところ、長文です。あるいは、ある程度の時間を割いた講義や議論かも知れませんが。少なくとも、まとめサイトで伝わるものは、そのレベルでしかないでしょう。
繰り返し書きますが、そう言う能力は必要無い、と言う事かも知れませんが。// ホントかな?
音楽の場合は、マンガに比べれば、文法を理解しなくても楽しめるので、年を取って容認に変わりやすい、と言う事では無いでしょうか。 [srad.jp] (#4143883)
段階としては、「拒否」→「容認」→「愛好」と変化しても良いと思えるのですが、ど~も、容認と愛好の間には「越えられない壁」みたいなモノが感じられます。私は近年、NHK第1ラジオをBGM代わりに、24時間点けっパ状態にしているのですが、この実に高齢者が多いメディアを長年聴いていても、ビートルズやオールディーズをリクエストする80代以降のご老人は、かなり少ないと思えます。ジャズが精一杯カナ…。
その点、ウチのバーバ(80代後半:実の母)は、チョット特異で「永ちゃ~ん♪」なんて喜んでるヒトなのですが、元々が祖母(実の母の母)がイワユル真正の「モガ」で、子ども時代(戦前)からピアノの在るような家に育ったコトが大きく影響している、即ち「音楽」というモノ自体に触れた時期が強い要因カナ…と思わざるを得ません。
で、そんなバーバの誕生日には、毎年一冊の本を贈っているのですが、去年贈ったロングセラーの「君たちはどう生きるか」は漫画版であったコトからか、イマイチ評価されなかったようでした。ジェネレーション的にも内容的にもジャスピンなので、喜んで貰えるカナ…なんて思っていたのですが、一昨年贈った「コンピニ人間」には遠く及ばず、やっぱりこの年代は文字なんだナァ…と思わざるを得ませんでした。
20年後の老人ホームでは、寝たきり老人がハードロックでウキウキしている姿を見れるようになるのかも知れません(^^;)
それは容認したからでは無くて、若い頃から慣れ親しんでいたものを楽しんでるだけですね。 [srad.jp] (#4143883)
これは、箸休め的な話だったのですが、「ご老人」に対してではなく、「介護施設」の意識改革が必要になって来た…と言うコトでした。
ここでやっと本題に戻れます(^^;)そもそもはルートのコメントにおける
に対し、「表現様式」に拘わるコトは、実に無意味で弊害すら多い。と言うコトを遠回りして言いたかったんですよネ。(私の隠れた「主張」はソコにあります。)
以前から私は自分の両親のコトを「ジージ」「バーバ」と呼んでいますが、もしかしたら4142574氏は、大変ご不満に思われてるのかも知れません。
でも流石に80代も後半になると、実質的な「父親」「母親」としての役目は終わりを告げます。父親は厨ニ病絶賛発症中ですし、認知症の母親は小学校低学年程度です。それを何となくでも相手に伝えるためには、それなりの表現幅を持たせる必要があり、文学的な解釈を要求されるとは思いますが、必要なモノだと考えているワケです。
もっとも効率的に伝える方法の一つが、少なくとも現在のところ、長文です。
自分の意図を正確に相手に伝えるためには、どうしても文字で表記する必要があり、どんなに削っても長文に成らざるを得なくなります。私が長年居たコミュニティは、スマホでしか繋がっていないような若年層の方が多く、常時「短文化」に腐心していたのですが、彼らは余り障害としていないのですよネ(^^;)
実際のコミュニケーションにおいても、「主は多分○○と思ってるんじゃないの?」なんて仮定で話が展開して、慌てた主さんが「いいえ、それは△△だったんです。」と「内容追加」をして、「じゃ、◇◇じゃぁ~ん^^」なんて進行するワケです。
私のような旧々世代にとっては、そんなドタバタ劇してるのなら、最初からキッチリ丁寧に書いておけば良いのに…と思わざるを得ないのですが、そこで気付いたのは、今は大多数の個人が即時に(修正)対応できる環境に有るからなのか…ってコトでした。
これは、プログラム開発においても同様で、昔は例えば組み込み機器の場合など、最終的にはマスクROMで供給しなければならないため、α、β、信頼性品質評価と、入念にテストして出荷に備えたものでした。
それが、徐々にEPROMになり、FlashROMに進化するに従い、それらのテスト工程は大幅に短縮され、現在は例えばブラウザのバージョンアップにしてもそうですが、ガンガンと矢継ぎ早にリリースする「ラピットリリース」が主流になっています。つまり、短期間で対応できれば80%の出来でも良い…もし問題が出たら、ユーザに報告してもらって修正する。ソチラの方が効率的であるという考え方なんですよね。
そう考えると、まとめサイトにしても先ずは表面的にだけ理解して、誰かに「ソレ、○○だよ~」と指摘されたら、また改めて(表面的に)調べなおし、その辺りでも理解に苦しむようになって初めて「長文チャレンジ」をするのではないかと思うんですよネ。(勿論、そこで理解を断念するヒトも居るでしょう^^;)
// ホントかな?
現在の私は「必要がある」と考えていますョ♪(^^)v
でも流石に80代も後半になると、実質的な「父親」「母親」としての役目は終わり
と、書いているijumiさん、あなた少なくとも60代ですよね。
そもそも日本語って、「その場」の一番立場の低い人から見た立場で各人を呼ぶ(「その場」で孫が一番低ければ、「その場」の全員が、その父親を「お父さん」、その祖父を「おじいちゃん」と呼ぶ)ので、約目が終わってるかどうかは関係ないのでは?
あぅ、、、少し言葉足らずでしたネ。疑問を持たれる可能性のある記述でした。今回の件が「ネット上での呼称」であったコトから省略したのですが、正確には
『以前から私はネット上で自分の両親のコトを「ジージ」「バーバ」と ~ 』
と「ネット上で」と限定したお話でした。
因みに、この類の呼称の変化は、その用途によって大きく3パターンあって、私自身は、
・ネットで他人に対して話す場合「ジージ」「バーバ」・リアルで他人に対して話す場合「父親」「母親」・リアルで当人に直接話した場合「パパ」「ママ」
還暦過ぎて「パパ」「ママ」は無いと思われるのかも知れませんケド、バーバの強い意向で、ウチでは子ども時代から「お父さん」「お母さん」と呼ぶ文化はありませんでした。(※今でもお互いはパパママって呼び合ってる。)
数年前までは、ネット上でも「父親」「母親」と言ってましたが、話題の内容との兼ね合わせでイマイチ表現がシックリ来なくなって、「ジージ」「バーバ」に変更しました。やはり介護の話題などの際は、私が「保護者」になるワケですから。。
# ジージとバーバの呼び方は、その時の状況により、(実の)等を付け加えています。# どうでもイイ時は付けないです。一世代推定年齢をゴマ化せマス♪(^^;;)
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Stableって古いって意味だっけ? -- Debian初級
お父さん (スコア:0)
大人が書いた文章で「お父さんが」って…
普通「父が」だろ。
50年位前の新聞投書欄で (スコア:1)
「いい大人が電車の中で漫画週刊誌を読んでいる。情けない話だ。」
という投書があったコトを思い出しました。
何故、大人が漫画を読んじゃイケナイの?
誰がそんなコトを決められるの?
法律で決められてるワケじゃないよね?
何で何で?
まだ幼かったこともあって、鮮烈な記憶として残っているのですが、
当時そんなコトを言っていた「大人たち」は、今、漫画原作の映画やドラマを
何の疑いも無く、嬉々として観たりしているワケで、
私は苦笑混じりに「そういうモンなんだなぁ…」と思わざるを得ません。
ヒトよりコト・モノに関心を持ち、反応するように心掛けています♪(^^)v
Re: (スコア:2)
「50年位前の新聞投書」してた人って、現在何歳くらいの想定なんでしょうか?
もう死んじゃってるのでは?
しかし、マンガばかり読んでいれば、長文を読む能力が育たないのは確かじゃないでしょうか?
そう言う能力が必要とされない世の中になった、と言う主張なのか、
あるいは、元々そう言う能力は必要無かったのだ、という主張なのか。
後者は実際あり得る話で、つまり世の中は、長文を読めない「バカ」以外の人達の能力で成り立っている、と。
Re: (スコア:1)
「50年位前の新聞投書」してた人って、現在何歳くらいの想定なんでしょうか?
もう死んじゃってるのでは?
流石に50年前の話なので、投書した方の年齢までは憶えていませんが、
若年層ではなく、30代以降だったような気がします。
ウチのジージとバーバ(実の父母)は80代後半なのですが、やはりそんな感覚でしたね。
ですから、私の同級生の親御さんたちの状況も判っている(※当時は都内区部在住)のですが、
当時は「大人が人前で漫画を読むこと」に何等か「羞恥心」のようなモノが有ったと思います。
音楽に関して言えば、「ビートルズ」辺りが良い指標になるかも知れません。
団塊より若い世代は肯定的ですが、80代後半だと「全く評価していない」人が多く、
ほぼ漫画に対する評価と被っていると思います。
で、今の日本人の平均年齢が男女込みで84歳だそうですから、
80代後半だと、まだまだ元気なお年寄りも多いと思います。
しかし、マンガば
ヒトよりコト・モノに関心を持ち、反応するように心掛けています♪(^^)v
Re: (スコア:1)
当時は「大人が人前で漫画を読むこと」に何等か「羞恥心」のようなモノが有ったと思います。
「人前で」という話なんですね。
「今、漫画原作の映画やドラマを何の疑いも無く、嬉々として観たりしている」を「人前で」と言うのとはちょっと違う気がします。
今の80代はたいてい、ドラマは家の中で見るでしょうし、映画館は公共の場所であるでしょうけど、「電車の中」みたいな「人前」とは違いますよね。
何て言うのかな。後知恵感があるんですよ。
マンガはたまたま文化として定着したので、その後知恵が成立しますけど、そうでないものもあるんじゃないでしょうか。
ビートルズは残ったけど、その他多くの有象無象のロックバンドは残らなかったわけですしね。
80代後半だと、まだまだ元気なお年寄りも多いと思います。
時代劇チャンネル見てそうですけど
Re: (スコア:1)
※>コチラ(#4143107 [srad.jp])の続きです。。
そう言うものをマンガという表現形式で伝えることが可能なのか、ちょっと疑問です。
学習マンガとか、哲学を解説するマンガみたいなものはありますけど、
それですべて伝えきれるか? 伝えきれたとして、コストは合うのか?
よく故手塚治虫先生を「マンガの神様」と言われたりしていますが、実のところ、
私は大変不満だったりします。彼の生命倫理や未来予測を考えると、もうそれは哲学と
呼んでも良く、「手塚治虫はマンガやアニメを用いた哲学者」と評価するほうが
適切なのではないか、とさえ思ってます。
そんな彼のDNAは数々の「弟子」たちに伝えられたワケですが、「ドラえもん」の名言、
「どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ。 」にしても、
いい大人さえもナルホドと思うような、本質的部分を「子どもたち」に伝
ヒトよりコト・モノに関心を持ち、反応するように心掛けています♪(^^)v
Re:50年位前の新聞投書欄で (スコア:1)
特に反論も無いのですが。
そう考えた場合、「その程度のレベル」でも事足りるのなら、そこで済ませて、
その分、別分野に振り向けるメリットのほうが大きいという考え方も出来ます。
なので、「あるいは、元々そう言う能力は必要無かったのだ、という主張なのか [srad.jp]」と書いたわけです。
世の中には、本質的に難しい問題があって、それはどんな表現形式を採ろうともある程度以上の量をこなすことが必要になる。
もっとも効率的に伝える方法の一つが、少なくとも現在のところ、長文です。
あるいは、ある程度の時間を割いた講義や議論かも知れませんが。
少なくとも、まとめサイトで伝わるものは、そのレベルでしかないでしょう。
繰り返し書きますが、そう言う能力は必要無い、と言う事かも知れませんが。
// ホントかな?
Re:50年位前の新聞投書欄で (スコア:1)
音楽の場合は、マンガに比べれば、文法を理解しなくても楽しめるので、年を取って容認に変わりやすい、と言う事では無いでしょうか。 [srad.jp] (#4143883)
段階としては、「拒否」→「容認」→「愛好」と変化しても良いと思えるのですが、
ど~も、容認と愛好の間には「越えられない壁」みたいなモノが感じられます。
私は近年、NHK第1ラジオをBGM代わりに、24時間点けっパ状態にしているのですが、
この実に高齢者が多いメディアを長年聴いていても、ビートルズやオールディーズを
リクエストする80代以降のご老人は、かなり少ないと思えます。ジャズが精一杯カナ…。
その点、ウチのバーバ(80代後半:実の母)は、チョット特異で「永ちゃ~ん♪」なんて
喜んでるヒトなのですが、元々が祖母(実の母の母)がイワユル真正の「モガ」で、
子ども時代(戦前)からピアノの在るような家に育ったコトが大きく影響している、
即ち「音楽」というモノ自体に触れた時期が強い要因カナ…と思わざるを得ません。
で、そんなバーバの誕生日には、毎年一冊の本を贈っているのですが、去年贈った
ロングセラーの「君たちはどう生きるか」は漫画版であったコトからか、イマイチ
評価されなかったようでした。ジェネレーション的にも内容的にもジャスピンなので、
喜んで貰えるカナ…なんて思っていたのですが、一昨年贈った「コンピニ人間」には
遠く及ばず、やっぱりこの年代は文字なんだナァ…と思わざるを得ませんでした。
20年後の老人ホームでは、寝たきり老人がハードロックでウキウキしている姿を見れるようになるのかも知れません(^^;)
それは容認したからでは無くて、若い頃から慣れ親しんでいたものを楽しんでるだけですね。 [srad.jp] (#4143883)
これは、箸休め的な話だったのですが、「ご老人」に対してではなく、「介護施設」の
意識改革が必要になって来た…と言うコトでした。
なので、「あるいは、元々そう言う能力は必要無かったのだ、という主張なのか [srad.jp]」と書いたわけです。
ここでやっと本題に戻れます(^^;)
そもそもはルートのコメントにおける
大人が書いた文章で「お父さんが」って…
普通「父が」だろ。
に対し、「表現様式」に拘わるコトは、実に無意味で弊害すら多い。と言うコトを
遠回りして言いたかったんですよネ。(私の隠れた「主張」はソコにあります。)
以前から私は自分の両親のコトを「ジージ」「バーバ」と呼んでいますが、
もしかしたら4142574氏は、大変ご不満に思われてるのかも知れません。
でも流石に80代も後半になると、実質的な「父親」「母親」としての役目は終わり
を告げます。父親は厨ニ病絶賛発症中ですし、認知症の母親は小学校低学年程度です。
それを何となくでも相手に伝えるためには、それなりの表現幅を持たせる必要があり、
文学的な解釈を要求されるとは思いますが、必要なモノだと考えているワケです。
もっとも効率的に伝える方法の一つが、少なくとも現在のところ、長文です。
自分の意図を正確に相手に伝えるためには、どうしても文字で表記する必要があり、
どんなに削っても長文に成らざるを得なくなります。
私が長年居たコミュニティは、スマホでしか繋がっていないような若年層の方が多く、
常時「短文化」に腐心していたのですが、彼らは余り障害としていないのですよネ(^^;)
実際のコミュニケーションにおいても、「主は多分○○と思ってるんじゃないの?」
なんて仮定で話が展開して、慌てた主さんが「いいえ、それは△△だったんです。」
と「内容追加」をして、「じゃ、◇◇じゃぁ~ん^^」なんて進行するワケです。
私のような旧々世代にとっては、そんなドタバタ劇してるのなら、最初からキッチリ
丁寧に書いておけば良いのに…と思わざるを得ないのですが、そこで気付いたのは、
今は大多数の個人が即時に(修正)対応できる環境に有るからなのか…ってコトでした。
これは、プログラム開発においても同様で、昔は例えば組み込み機器の場合など、
最終的にはマスクROMで供給しなければならないため、α、β、信頼性品質評価と、
入念にテストして出荷に備えたものでした。
それが、徐々にEPROMになり、FlashROMに進化するに従い、それらのテスト工程は
大幅に短縮され、現在は例えばブラウザのバージョンアップにしてもそうですが、
ガンガンと矢継ぎ早にリリースする「ラピットリリース」が主流になっています。
つまり、短期間で対応できれば80%の出来でも良い…もし問題が出たら、ユーザに
報告してもらって修正する。ソチラの方が効率的であるという考え方なんですよね。
そう考えると、まとめサイトにしても先ずは表面的にだけ理解して、
誰かに「ソレ、○○だよ~」と指摘されたら、また改めて(表面的に)調べなおし、
その辺りでも理解に苦しむようになって初めて「長文チャレンジ」をするのでは
ないかと思うんですよネ。(勿論、そこで理解を断念するヒトも居るでしょう^^;)
// ホントかな?
現在の私は「必要がある」と考えていますョ♪(^^)v
ヒトよりコト・モノに関心を持ち、反応するように心掛けています♪(^^)v
Re:50年位前の新聞投書欄で (スコア:1)
以前から私は自分の両親のコトを「ジージ」「バーバ」と呼んでいますが、
もしかしたら4142574氏は、大変ご不満に思われてるのかも知れません。
でも流石に80代も後半になると、実質的な「父親」「母親」としての役目は終わり
と、書いているijumiさん、あなた少なくとも60代ですよね。
そもそも日本語って、「その場」の一番立場の低い人から見た立場で各人を呼ぶ(「その場」で孫が一番低ければ、「その場」の全員が、その父親を「お父さん」、その祖父を「おじいちゃん」と呼ぶ)ので、約目が終わってるかどうかは関係ないのでは?
Re:50年位前の新聞投書欄で (スコア:1)
あぅ、、、少し言葉足らずでしたネ。疑問を持たれる可能性のある記述でした。
今回の件が「ネット上での呼称」であったコトから省略したのですが、正確には
『以前から私はネット上で自分の両親のコトを「ジージ」「バーバ」と ~ 』
と「ネット上で」と限定したお話でした。
因みに、この類の呼称の変化は、その用途によって大きく3パターンあって、私自身は、
・ネットで他人に対して話す場合「ジージ」「バーバ」
・リアルで他人に対して話す場合「父親」「母親」
・リアルで当人に直接話した場合「パパ」「ママ」
還暦過ぎて「パパ」「ママ」は無いと思われるのかも知れませんケド、バーバの強い
意向で、ウチでは子ども時代から「お父さん」「お母さん」と呼ぶ文化はありません
でした。(※今でもお互いはパパママって呼び合ってる。)
数年前までは、ネット上でも「父親」「母親」と言ってましたが、話題の内容との
兼ね合わせでイマイチ表現がシックリ来なくなって、「ジージ」「バーバ」に変更
しました。やはり介護の話題などの際は、私が「保護者」になるワケですから。。
# ジージとバーバの呼び方は、その時の状況により、(実の)等を付け加えています。
# どうでもイイ時は付けないです。一世代推定年齢をゴマ化せマス♪(^^;;)
ヒトよりコト・モノに関心を持ち、反応するように心掛けています♪(^^)v