Paul Allan Davidが純粋に経済学者なら、私もここまで噛み付かないんですけどね。でも、Davidは『Understanding the Economics of QWERTY ― The Necessity of History』の冒頭で
Cicero demands of historians, first, that we tell true stories. I intend fully to perform my duty on this occasion, by giving you a homely piece of narrative economic history in which 'one damn thing follows another.'
経済学者 (スコア:0)
しかし、彼らにとってはそんな批判こそどうでもいいのでしょう。仮にqwertyの歴史が間違っていても、「経路依存がありうる」ことを理解する手助けになれば彼らの目的は達成されるわけです。もし「経路依存がありうる」という存在命題の証明に「qwertyという実例が存在する」という事実を利用しているのであれば証明が成立しなくなりますが、「経路依存がありうる」という命題の証明自体は別に行っているわけなので彼らの議論には論理的な問題は生じません。
経済学者にしてみれば、
qwertyの(彼ら流の誤った)歴史を説明する前に、「例えばqwertyの歴史が以下のようなものだったとします」とでも断れば満足ですか?
という話になるでしょう。
経済学者も経済学者で、歴史学者の批判に対して
「QWERTYに最も批判的な人は、その歴史的な証拠に関する点にばかり焦点を当てて攻撃を繰り返し、私がQWERTYの経験から提起したかった理論的な問題を全く理解しようとしていない。」
などというのは余計なお世話ですね。間違いは間違いで認めればいいだけの話です。別にqwertyの歴史認識が間違っていても自分たちの理論それ自体が影響を受けないのなら、間違いを認めても何も困らないはずです。それを「QWERTYの経験から提起したかった理論的な問題を全く理解しようとしていない」などといって批判するのは的外れです。qwertyを歴史的に批判する歴史学者が、「QWERTYの経験から提起したかった理論的な問題」という経済学の問題に取り組んでくれるとで思っているんでしょうか。
Paul Allan Davidは「経済史学者」のはず (スコア:1)