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高島俊男さんの「漱石の夏やすみ」や外山滋比古さんの「日本の文章」などを読みますと、日本には日本語の文章として模範とされる文章というものが確立されていないということが指摘されています。英語の文章なら欽定訳聖書、中国語の文章なら漢書あたりが模範とされる文章になるわけですが、日本語の場合、古語・雅語においてすら模範とされる文章がないのです。
いわゆる名文とされる文章にしても、義務教育を受けた日本人が「この文章は名文だ」と共通認識できる文章はありません。不幸なことに、法律文書や契約文書は日本語としては悪文としか言いようのな
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お手本となる日本語 (スコア:1)
高島俊男さんの「漱石の夏やすみ」や外山滋比古さんの「日本の文章」などを読みますと、日本には日本語の文章として模範とされる文章というものが確立されていないということが指摘されています。英語の文章なら欽定訳聖書、中国語の文章なら漢書あたりが模範とされる文章になるわけですが、日本語の場合、古語・雅語においてすら模範とされる文章がないのです。
いわゆる名文とされる文章にしても、義務教育を受けた日本人が「この文章は名文だ」と共通認識できる文章はありません。不幸なことに、法律文書や契約文書は日本語としては悪文としか言いようのな
Re:お手本となる日本語 (スコア:1)
しかし、おかしな文章を書きそれを流布して当然とする企業は、企業自体に淘汰圧がかかり消滅してしまいます。
社内規則が名文である必要はありませんし、お客様への説明文が名文である必要もありませんが、少なくとも何を言っているのかが判る明文にはなっている必要があります。その事が判らない経営陣は会社が傾く遠因を作っているのだ、という事実をまず認識するべきだと思いますね。
fjの教祖様