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「国内のニコ動や、海外で日本のアニメを無料で見ているやつも取り締まれ!」という意見もあれば 「著作権物は原則無料公開にして気に入った時だけ投げ銭するようにしろ」(当然、皆、気に入らないと評価しますわな) 「原則無料公開でCMつければ文句をないだろ」という意見もある。
皆の意見はばらばら。
ただ、とにかく文句を言いたい、という一点だけしか一致してない。
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アレゲは一日にしてならず -- アレゲ研究家
どのように「時代に合わないのか」が問題 (スコア:0)
じゃあどのように時代に合わないか、どのようにすれば良いか具体論を聞いて見ると、皆バラバラどころか方向性が180度違ってたりする。
「国内のニコ動や、海外で日本のアニメを無料で見ているやつも取り締まれ!」という意見もあれば
「著作権物は原則無料公開にして気に入った時だけ投げ銭するようにしろ」(当然、皆、気に入らないと評価しますわな)
「原則無料公開でCMつければ文句をないだろ」という意見もある。
皆の意見はばらばら。
ただ、とにかく文句を言いたい、という一点だけしか一致してない。
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:1)
・著作権法は、プロの作品と想定していたが、一般大衆もネットに著作物を発表できる様になった。
=> slashdotもそう
・“複製機”が広く普及し、ほとんど無意識に利用できるようになった。著作権法を侵害したことがない人はほとんどいないだろう。
・ネットビジネスに重い足かせをはめ、日本でIT産業が発展しない
・著作人格権が強すぎて、流通を阻害している。2次創作やパロディー文化の広がりを阻む。
・従来の著作権法の枠組みは物を対象としているが、物ではないデータが流通している。
・"知財"とは逆の発想、著作物のほとんどは商業ベースに乗らないことを前提とした、コモンズの考えが現れ、成功しつつある。
私自身は、「とにかく文句を言いたい、という一点だけしか一致してない。」は訳ではなく、おおいに肯かされる。
Re: (スコア:2, 興味深い)
二次作やパロディーなど翻案文化では、必ずしも作者が意図したものにならない、それどころか、原作のイメージを崩すものがありますね。例えば、アニメや商業漫画の性的なパロディーなどは性的な作品を作っている著者や出版社は認めると思いますが、それ以外の作品を作っている作者や、ファン(読者)にとっては迷惑ですよね。特に、出版社にとっては作品のイメージ低下や読者離れを招く結果になるのでマイナスです。(ここで、「ファンなら作者の名前位知ってるからマイナスにはならない」と思
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Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:2, 参考になる)
二次作をまったく自由に作って良いとは言いませんが、原作者がすべてをコントロールできると言う考え方はいかがかと思います。特に日本の原作者は全てをコントロールする考え方が強いようです。某有名歌手と作詞者の問題もありました。私自身は、いくら原作者でもあそこまでオリジナルを強制するのはどうかなと思います。
一度世の中に、著作物を出したなら、それが作者の意図とは異なる形で解釈されるのは避けられないことです。解釈の一つの形として、パロディ等の二次作も作られるでしょう。結局、文化の発展と言う観点から見た、裁量の問題と考えます。
ご存知の様に、ディズニーのキャラクターの多くは、グリム童話から来ていますが、性格はまったく違っています。「本当は残酷なグリム童話」と言う本もあります。そのグリム童話を子供も楽しめる物語りに変えたのはウォルトディズニーの創造性ですが、グリム兄弟は原作を傷つけられたと主張するかもしれません。
Re:どのように「時代に合わないのか」が問題 元の記事は (スコア:1)
そうなると、単に文化的善悪だけで考える訳にはいきません。文化的な発展を望むのなら「著作物の共有や二次作の作成・配布は自由に認められるべき」と言う事になるのでしょうが、経済的な観点からは「著作物共有の自由化は著作物によって生活している人にとっては利益を半減させる恐れがあり、また、二次作の作成・配布の自由化も消費者(読者、視聴者など)の著作物に対するイメージの低下を招くことになり結局は利益を半減させる恐れがある。」と言う事がいえるでしょう。
ただし、二次作といっても必ずしも悪い方になる訳ではなく、例えば今日の童話や昔話等は様々な形で作者以外の誰かが変更を加えて成り立ったものが多くあります。例えば、「シンデレラ(灰かぶり姫)」や「桃太郎」はより子供向けにする為に「シンデレラによる復讐」が消されたり、「桃太郎はおじいさんとおばあさんのこども」と言う事が「桃から生まれた」に書き換えられています。
私としては、「二次作はやりたい放題!!」と考えるのは良いものとは思いません。ただ、日本の著作者はあまりにも全てをコントロールすると言う考えが多いのは確かです。しかし、それは作者次第で結局は「どういう形であれ自分の作品が多くの人に見てもらえて、そこで見た人が新たに作品の続きを考えてくれればいい。」と言う作者もおられます。私自身もものづくりをする際に「人の為に何か役立てるもの」を考えていますので、こういう考えには同調できます。
ただ、著作者の中には「私の思ったものをそのままの形で消費者につたえたい」という方や「作者と消費者は一体の関係であらねばならず、作者は消費者の期待に答えなければならないし、消費者の作品に対するイメージを大切にしなければならない」と言う方もおられます。
私としては、「私が思ったものをそのまま伝えろ!」と言うのは行き過ぎだと思いますが、商用主義の世の中で「消費者(読者、視聴者など)の事を考えてくれる作者」は大切にしたいと思います。言ってみれば、消費者を大事にする作家と言うのは何も、二次作を全て否定するのではなく、二次作をある程度認めた上でファンの作品に対するイメージを低下させ、それが明らかに個人的な範囲をこえているもの(公的なネット上での配布など)は制限を加えると言うものの方が文化的な観点からも経済的な観点からも両立しているのではないでしょうか。
また、私は今の著作権の制度で十分だと思います。今の制度は著作者次第で著作物の流通を制御できるものです。しかし、その制度でないと困る人もいるでしょうし、制度が変われば「私の作品が悪いイメージにされるのなら公表したくない」と言う作家もでてくるでしょうし、やりたい放題の二次作に不満を覚える消費者もいるでしょうし、いろいろな弊害が生まれるかもしれません。
しかし、私はクリエーティブ・コモンズやGPLなど知的財産の共有は決して悪いものではなく、こういう意識を持った作家が多く生まれ知を共有し合い新たな文化を築く事も、それはそれでいいじゃないかと思います。
ただ、大切なのは熱狂的なGPL支持者のように「全て共有すべきだ」という主張をしない事です。結局のところ両立が大切であり、「知の共有ができる著作物」と「知の共有が制限されている著作物」の両方が存在し、互いが刺激し合って文化的な発展が出来ると言うのが良いのではと思います。
そして、最終的にどちらの方が発展するかの方が大切であり、もし、知の共有と言う考えが上手く行けば、今まで「共有を制限する」としていた人たちが「知の共有」をするようになるかもしれません。わたしは、知の共有を望むのなら、クリエーティブ・コモンズの考え方をより浸透させ多くの作家がこれに共感し「知の共有」をする作家が多く生まれるようにすことの方を第一に考えるべきだと思います。
// 著作権と言う概念が無かった昔のように、この世に生きる(生きた)全ての人が知の共有をし一つの物語が出来る世界。
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