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包摂主義でも、情報の確からしさについて重み付けがしてなければ、情報として意味がありません。
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コンピュータは旧約聖書の神に似ている、規則は多く、慈悲は無い -- Joseph Campbell
信頼性とは何か (スコア:5, 興味深い)
信頼性とは何ですか?
「Wikipediaに~記載されている」ことは「~の~という論文に~と記載されている」
あるいは「~という本に~と記載されている」と同等に信頼性のある事実です。
何となれば、あなたはそれを見ているのだから。
知識とは、体験と伝聞であり、伝聞の信頼性の判断は実はきわめて主観的なものです。
「~さんの言うことだから本当だろう」とか「テレビで言っていたから本当だろう」という訳です。
だけども、後者が必ずしも正しくないことは、これを読む多くの方が知っていると思いま
Re: (スコア:1)
中には正しい情報もあるでしょうし間違った情報もあるでしょう。それらの情報や意見が存在するというのは容易に示すことが出来ます。しかし、その情報の内容的な正しさを証明するのは百貨辞典のすべきことではないでしょうと。
◆IZUMI162i6 [mailto]
Re:信頼性とは何か (スコア:1)
包摂主義でも、情報の確からしさについて重み付けがしてなければ、情報として意味がありません。
Re:信頼性とは何か (スコア:1)
もちろん、「このような意見は少数であり、こちらの意見の方が主流である」などの事実を明示するのは構いませんが、それは検証可能な事実を明示するだけであって、記述者が内容に対して重みづけをしているわけじゃありません。
内容の確からしさを記述者が裁いて重みづけをするのではなく、検証可能性を持つ「確か」な事実の提示により、結果として重みの差異が発生しているように見えてくるのだと思います。
Wikipediaの方針が完璧なものだとは自分には思えませんが、現在の割と科学的なもののように見受けられます。そして「結果として妥当性が高くなる仕組み」ではあると思います。科学的な方法で正しさを追求するという考え方が現在の方針の根底にあるならば、観察対象を蓄積するという包摂主義は比較的それに沿ったものといえましょう。そして自分には実際にその方針が割と科学的なもののように見受けられます。
科学的な、論理的な意味の妥当性が生みだす信頼性について意味がないということはできますが、それを超えるパラダイムを示さない限りそうやって生み出されたリソースも意味を持てないでしょう。
もちろん百科事典の項目として存在するという前提を考慮するならば上記の話とは別の話として、事実が存在するというだけでは記事として十分ではないと考えますけれども。Wikipediaは字引ではないですからね。その記事には事実だけでなくそれが記事として他の項目から独立した項目を持てるだけの情報は確かに必要だと考えます。
◆IZUMI162i6 [mailto]