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救済の過剰と、救済の不足と、どちらが問題のマグニチュードとして大きいかの考察がより重要だ。
考察する必要も無いぐらい、基本的な話だと思うが。 弱者救済というのは単に「パワー順列を入れ替えている」のに過ぎない。問題はその入れ替えが「適切なのか」と言うこと。救済の過剰や不足の問題ではないし、過剰・不足問題と捕らえようとする段階が、そもそもの間違い。 . 問題は「努力をしなかったために下にいるのに過ぎない」連中まで尻馬に乗って上に上がれるようになっていること。これはルールを策定するもの、適用する判断をするものが短慮・観察力不足・無能・自己防御的であるために起こります。 尻馬に乗ることに集
・判定者が嘘の判定をしても、判定者自身へのコストは低い 事こそが、擬態を容易にしている。 判定者の嘘の判定に対する高い罰則と、正しい判定に対する高い報酬、判定者を複数用意しなおかつそれを資格制にしない(資格制度はそれ自体、「判定者としての資格が無い」存在が擬態する状態を生む)、擬態者に対する高い罰則の4点が基本的に擬態を難しくする。
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弘法筆を選ばず、アレゲはキーボードを選ぶ -- アレゲ研究家
「エセ弱者」は言ったもん勝ち (スコア:1)
かつて「ネットカフェ難民」というものがテレビドキュメンタリーで漸く報道されて
認知され始めた頃、どこかのブロガーが「あんなものはヤラセです」と根拠なく断言
していたことがあった。その主張があちこちのブログに引用され、「なるほどそうか」
などという反応を集めていたことは記憶に値する。
いわゆる「心の傷」についても、その言葉を濫用し過剰な救済を求める輩は当然いるだろう。
単なるアネクドートでよければ幾らでも並べられるはずだが、それには大した意味がない。
救済の過剰と、救済の不足と、どちらが問題のマグニチュードとして大きいかの考察が
より重要だ。
擬態を見抜けぬ奴が、偽者を増長させる (スコア:1)
考察する必要も無いぐらい、基本的な話だと思うが。
弱者救済というのは単に「パワー順列を入れ替えている」のに過ぎない。問題はその入れ替えが「適切なのか」と言うこと。救済の過剰や不足の問題ではないし、過剰・不足問題と捕らえようとする段階が、そもそもの間違い。
.
問題は「努力をしなかったために下にいるのに過ぎない」連中まで尻馬に乗って上に上がれるようになっていること。これはルールを策定するもの、適用する判断をするものが短慮・観察力不足・無能・自己防御的であるために起こります。
尻馬に乗ることに集
fjの教祖様
「見抜く」コストはしばしば発散する (スコア:1)
なぜかというと、そいつは(殊に意味のあるケースでは)際限なく知的リソースを
必要とする行為であるにも拘らず、「出来て当然」「出来ないのは恥ずかしい」
という予断を与えるものだからです。
例外的に、今まで誰も疑って来なかったもの、に初めて疑いの目を向けるときは、
わずかな努力で多くの偽者を見破ることが出来るでしょう。しかし、裁判を経て
救済対象を決めている分野では、そのモデルは当てはまりません。
fjの教祖様が、(あるいは別の場所にいる別のカリス
Re: (スコア:1)
.
よく考えてみて欲しい。「被害者」は保証を得るための努力「以外にもやることがある」。しかし擬態者は保証を得るための努力「だけが仕事」だ。だから、単純な低コスト方式(柔軟性の無い判断基準による分別)を使えば、どんなケースでも擬態者がサービスの大半を受け、真の被害者はサービスを受けられない。
サービスの容量を増やしても擬態者の数が増えるだけだ。
社会サービスの大半が、真に必要なものではなく、不適切な擬態者に食い荒ら
fjの教祖様
Re:「見抜く」コストはしばしば発散する (スコア:1)
しかしどうやってインプリメントするのか?
「判定者の嘘の判定に対する高い罰則」というのは、つまりは「見抜く」の詭弁を
もっと高次元で繰り返したものに過ぎないと思う。実装上の難問をいちいち挙げるのも空しい。
あなたが軽蔑してやまない現行制度には、あなたの想像を超える知恵が詰まっているのだ。
無いものをあると言うのは簡単 (スコア:1)
誤った判断1つは正しい判断10と相殺するようにコストを決めればよい。
誤った判断かどうかは、陪審員制度と同様に一般人20人が決めればよい。
判断を下したものは、説明義務を負う。当然、反論者も用意する。
コスト的に見て、「税金と言う形で金を払ってくれるスポンサー」に説明義務を負うのは、当然のことだ。
.
この程度も考えずに「現行制度には知恵が」…馬鹿丸出しだな。
fjの教祖様
Re:無いものをあると言うのは簡単 (スコア:1)
・陪審員が嘘の判定をしても、陪審員自身へのコストは低い。
事こそが、擬態を容易にするだろう。
第一次の判定者は、(もしなり手がいるとすればだが、)
自分の知力をすべて傾けて判定に誤りなきことを期するのではなく、
ランダムに選ばれるであろう陪審員の知力の程度を予測して、それが
導きそうな結論を先回りして導くことになる。それゆえ、擬態を見破る
ノウハウの蓄積ってものがあるとすれば、陪審員制度の導入によって
そんなものはすっぱり捨てる以外にない。なにしろ最終判定者は素人なのだ。
「弁護士帝国」なるものを破壊して、阿呆の帝国を作るつもりか?
Re:無いものをあると言うのは簡単 (スコア:1)
生憎だが、専門家よりも計算機と統計の組合せの方が「2倍以上も」正しい判断を下すのだ。そして専門家の多くは計算機と統計よりも自分の判断の方が正しいと思い込んでいる愚か者だ。つまり、「専門家と計算機」の組合せは、「専門家だけよりはましだが、計算機だけよりも駄目」な状態に陥る。
計算機に統計処理させた結果に、素人判断を加えた方がよほど正しい結果になる。
これはもうすでにいくつものジャンルで証明されている事実だ。
# ワインの出来具合から、野球の新人獲得における活躍予測から、
# 犯罪者の再犯予測から。おおよそこの傾向がひっくり返っているジャンルは
# 「まだ統計が適用できないでいるジャンル」だけだ。
fjの教祖様