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東北や北海道では部落差別のイメージが湧かないでしょうし(集落の意味で「部落」という言葉を使う地域もあるらしいです)、関東の人にとっても「歴史」ではないかと思うのですが、近畿やそれ以西の地域では現在進行で継続している問題です。
自分も大阪出身なので、小学生のときには道徳の授業で使った副読本(『にんげん』です。大阪でしか使わなかったそうです)で教わりましたし、親もどこが被差別部落なのか知っているような雰囲気でした(あえて聞きませんでしたが)。いまは四国のそれなりに大きな都市に住んでいますが、自治体の建物などには部落差別をなくそうというきれいな看板がかかっています。
グーグルの中の人は差別を助長する意図はなかった、というよりも何も考えていなかっただろうと思いますが、わざわざ波風をたてるような真似をすべきとも思わない。批判を恐れずいうと、部落差別問題には誰も手を触れずに、「歴史」にしてやるのがいちばんだと思うのですが。
> わざわざ波風をたてるような真似をすべきとも思わない。> 批判を恐れずいうと、部落差別問題には誰も手を触れずに、「歴史」にしてやるのがいちばんだと思うのですが。
歴史だと、研究の対象、勉強の対象になります。ま、それはそれで正解のはずですが、この問題、つまり××××問題の本質は、××××反対運動問題なので、実際問題、何をしても正解という事が無い(正解は運動団体が決める)。結局、思考停止的にリスク回避的に行動する事になる。この問題を解決するには、運動団体自体を何とかするしかないが、世の中から×××が絶滅できないのと同じで、それはほぼ不可能。結局、事実を歪曲したり隠蔽したりせず、その場その場で毅然とするしかないのです。でも多くの場合、それが出来ない。出来ない最大の理由は、誰も助けてくれない事。
誰も手を触れないようにして、いつか過ぎ去った過去にしてしまう事を考える向きが多いかと思いますが、運動団体がある限り、終わりはないと思います。
歴史を学ぶこと研究することとは、今生きる我々の根っこを確かにする、背後を確認する、そんな行いです。過去に追いやることではなく、今に繋げる働きがあるはずです。>ま、それはそれで正解のはずと意味不明にかたずけられては…。そして、> この問題、つまり××××問題の本質は、××××反対運動問題なので、と、謎の伏字。> 結局、思考停止的にリスク回避的に行動する事になる。途中、このような考えも出てきているにもかかかわらず、結論は> 運動団体がある限り、終わりはないと思います。との差別を受ける側の団体に全ての責任をなすりつける。素晴らしく差別的なコメントになってしまっていることに気付いていますか。
> 素晴らしく差別的なコメントになってしまっていることに気付いていますか。
なるほど、元コメのような考えを表明すると、差別者にされてしまうわけだ。事例としては興味深いが、まあ典型的か。歴史研究が差別にならない保証は、全くない事がよく分かる。たまたま「それ」が入っている地図を示しただけで、発禁回収になるのは、よくある事件。「差別」問題を扱う意図も企画もなくても、地図だけでアウトにされてしまう。こういう事例が、いまだに、あとを絶たない。実に不可解。
実は一つ抜け道があって、それは、彼らに仲間だと思わせる事。つまり、「差別」がなぜ生じたのか、その歴史を調べ、明らかにするような主旨の作業をすれば(あるいは加えておけば)、お咎めはない。研究的、啓蒙的なスタンスなら、大丈夫なのだ。しかし中途半端に情報が大衆の目にふれるように出しちゃうと、凄く面倒な事になる。本筋ではなくても、関連して情報が出ちゃうだけで、アウトになりかねない。その境界線は、残念ながら自明ではないし、難しい。長いこと、この厄介な問題を扱っている専門家(レベルの人)にしか、地雷を踏まないすべはない。
>>「差別」がなぜ生じたのか、その歴史を調べ、明らかにするような主旨の作業をすれば(あるいは加えておけば)、お咎めはない。
アウト。その団体が主張する差別の原因(天皇制とか宗教とか)を補強する説でなければ「最も悪質な差別者」の称号が与えられます。
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アレゲはアレゲを呼ぶ -- ある傍観者
西日本の人間にとっては現在進行形 (スコア:3, 興味深い)
東北や北海道では部落差別のイメージが湧かないでしょうし(集落の意味で「部落」という言葉を使う地域もあるらしいです)、関東の人にとっても「歴史」ではないかと思うのですが、近畿やそれ以西の地域では現在進行で継続している問題です。
自分も大阪出身なので、小学生のときには道徳の授業で使った副読本(『にんげん』です。大阪でしか使わなかったそうです)で教わりましたし、親もどこが被差別部落なのか知っているような雰囲気でした(あえて聞きませんでしたが)。
いまは四国のそれなりに大きな都市に住んでいますが、自治体の建物などには部落差別をなくそうというきれいな看板がかかっています。
グーグルの中の人は差別を助長する意図はなかった、というよりも何も考えていなかっただろうと思いますが、わざわざ波風をたてるような真似をすべきとも思わない。
批判を恐れずいうと、部落差別問題には誰も手を触れずに、「歴史」にしてやるのがいちばんだと思うのですが。
永遠の対症療法 (スコア:2, すばらしい洞察)
> わざわざ波風をたてるような真似をすべきとも思わない。
> 批判を恐れずいうと、部落差別問題には誰も手を触れずに、「歴史」にしてやるのがいちばんだと思うのですが。
歴史だと、研究の対象、勉強の対象になります。ま、それはそれで正解のはずですが、この問題、つまり××××問題の本質は、××××反対運動問題なので、実際問題、何をしても正解という事が無い(正解は運動団体が決める)。結局、思考停止的にリスク回避的に行動する事になる。この問題を解決するには、運動団体自体を何とかするしかないが、世の中から×××が絶滅できないのと同じで、それはほぼ不可能。結局、事実を歪曲したり隠蔽したりせず、その場その場で毅然とするしかないのです。でも多くの場合、それが出来ない。出来ない最大の理由は、誰も助けてくれない事。
誰も手を触れないようにして、いつか過ぎ去った過去にしてしまう事を考える向きが多いかと思いますが、運動団体がある限り、終わりはないと思います。
Re: (スコア:0, フレームのもと)
歴史を学ぶこと研究することとは、今生きる我々の根っこを確かにする、背後を確認する、そんな行いです。過去に追いやることではなく、今に繋げる働きがあるはずです。
>ま、それはそれで正解のはず
と意味不明にかたずけられては…。そして、
> この問題、つまり××××問題の本質は、××××反対運動問題なので、
と、謎の伏字。
> 結局、思考停止的にリスク回避的に行動する事になる。
途中、このような考えも出てきているにもかかかわらず、結論は
> 運動団体がある限り、終わりはないと思います。
との差別を受ける側の団体に全ての責任をなすりつける。
素晴らしく差別的なコメントになってしまっていることに気付いていますか。
Re:永遠の対症療法 (スコア:1, すばらしい洞察)
> 素晴らしく差別的なコメントになってしまっていることに気付いていますか。
なるほど、元コメのような考えを表明すると、差別者にされてしまうわけだ。事例としては興味深いが、まあ典型的か。歴史研究が差別にならない保証は、全くない事がよく分かる。たまたま「それ」が入っている地図を示しただけで、発禁回収になるのは、よくある事件。「差別」問題を扱う意図も企画もなくても、地図だけでアウトにされてしまう。こういう事例が、いまだに、あとを絶たない。実に不可解。
実は一つ抜け道があって、それは、彼らに仲間だと思わせる事。つまり、「差別」がなぜ生じたのか、その歴史を調べ、明らかにするような主旨の作業をすれば(あるいは加えておけば)、お咎めはない。研究的、啓蒙的なスタンスなら、大丈夫なのだ。しかし中途半端に情報が大衆の目にふれるように出しちゃうと、凄く面倒な事になる。本筋ではなくても、関連して情報が出ちゃうだけで、アウトになりかねない。その境界線は、残念ながら自明ではないし、難しい。長いこと、この厄介な問題を扱っている専門家(レベルの人)にしか、地雷を踏まないすべはない。
Re: (スコア:0)
>>「差別」がなぜ生じたのか、その歴史を調べ、明らかにするような主旨の作業をすれば(あるいは加えておけば)、お咎めはない。
アウト。その団体が主張する差別の原因(天皇制とか宗教とか)を補強する説でなければ「最も悪質な差別者」の称号が与えられます。