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聞いたことあるのは、「今までの教育は50人のクラスに平均点80点を取らせる授業。ゆとり教育は、45人が50点で5人が100点どころか120点取らせる授業。上は突き抜けるが、全体的に平均点は下がる」ということ。
真偽はさておき、「円周率がおよそ3だからいけない」とか「台形の公式教えないのはいけない」とか「授業時間数減ったからいけない」とか、痛い議論ばかりだったので、ゆとり教育は親世代のほうが問題だったんだな、と良くわかった。学生時代いたけど、授業聞いてても聞いてなくても、できるヤツってできるんだよね。数学に限らず。
現実のゆとり教育には、学校が「5人が100点どころか120点取らせる授業」をすることを支援するどころか、むしろ妨害する仕組みが組み込まれていました。
ゆとり教育時代の学習指導要領を読むとわかりますが、どの科目にも「○○は扱わない」や「○○には深入りしない」がやたらめったら出てきます。「○○を扱う」よりも「○○を扱わない」のほうが出現頻度は高いです。「○○は深く掘り下げる」はまったく出てきません。そして、その「扱わない」「深入りしない」は教科書検定の基準として厳密に運用されていました。話の流れから触れなくては不自然になるような事柄でも、「扱わない」「深入りしない」にひっかかれば容赦なく削除が求められたのです。そのため、教科書で取り扱う項目を少ないほうにそろえることが強制されました。「5人が120点を取る」ための知識を、教科書が提供することは厳禁されていたのです。
さらに、大学入試問題の評価では「高校教科書に書かれている内容から出題されているか」(「現に高校で教えられているか」ではないことに注意)を最優先項目とする風潮が日本にはありますので、大学入試問題も結果的に学習指導要領の「扱わない」「深入りしない」に縛られました。すると、大学入試対策に特化した一部の進学校では、学習指導要領で「扱わない」「深入りしない」となっている知識は、大学受験対策としては時間の無駄と判断されて、生徒に提供されません。進学率が中レベルの高校では、教科書をいかにきっちりこなすかが重視されますので、やはり、提供されません。
結局、「120点取る」潜在能力のある生徒が実際に「120点取る」ために必要なものは、学校の外に求めるしかありません。それが可能なのは、親にそれが可能な経済力があり、親自身に必要なものを選択できる程度の知的能力がある場合に限られます。その結果、ゆとり教育は学力格差を世代を超えて定着させるほうに働きました。
ゆとり教育反対派が、まず、学習指導要領にないことでも教科書に載せることを認めるよう運動したのは、この連鎖に気づき断ち切ろうとしたからです。「発展」と明記するという条件付きで、不満足ながらそれが実現し、やっと第一歩を踏み出すことに成功したのが現状です。
あと、学習指導要領の記述自体が学術的に不自然なところも多々あったのですが、それについて書き始めたら止まらないのでやめておきます。
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Stableって古いって意味だっけ? -- Debian初級
これもゆとり教育の結果 (スコア:2)
聞いたことあるのは、「今までの教育は50人のクラスに平均点80点を取らせる授業。ゆとり教育は、45人が50点で5人が100点どころか120点取らせる授業。上は突き抜けるが、全体的に平均点は下がる」ということ。
真偽はさておき、「円周率がおよそ3だからいけない」とか「台形の公式教えないのはいけない」とか「授業時間数減ったからいけない」とか、痛い議論ばかりだったので、ゆとり教育は親世代のほうが問題だったんだな、と良くわかった。学生時代いたけど、授業聞いてても聞いてなくても、できるヤツってできるんだよね。数学に限らず。
-- gonta --
"May Macintosh be with you"
Re:これもゆとり教育の結果 (スコア:3, 参考になる)
現実のゆとり教育には、学校が「5人が100点どころか120点取らせる授業」をすることを支援するどころか、むしろ妨害する仕組みが組み込まれていました。
ゆとり教育時代の学習指導要領を読むとわかりますが、どの科目にも「○○は扱わない」や「○○には深入りしない」がやたらめったら出てきます。「○○を扱う」よりも「○○を扱わない」のほうが出現頻度は高いです。「○○は深く掘り下げる」はまったく出てきません。そして、その「扱わない」「深入りしない」は教科書検定の基準として厳密に運用されていました。話の流れから触れなくては不自然になるような事柄でも、「扱わない」「深入りしない」にひっかかれば容赦なく削除が求められたのです。そのため、教科書で取り扱う項目を少ないほうにそろえることが強制されました。「5人が120点を取る」ための知識を、教科書が提供することは厳禁されていたのです。
さらに、大学入試問題の評価では「高校教科書に書かれている内容から出題されているか」(「現に高校で教えられているか」ではないことに注意)を最優先項目とする風潮が日本にはありますので、大学入試問題も結果的に学習指導要領の「扱わない」「深入りしない」に縛られました。すると、大学入試対策に特化した一部の進学校では、学習指導要領で「扱わない」「深入りしない」となっている知識は、大学受験対策としては時間の無駄と判断されて、生徒に提供されません。進学率が中レベルの高校では、教科書をいかにきっちりこなすかが重視されますので、やはり、提供されません。
結局、「120点取る」潜在能力のある生徒が実際に「120点取る」ために必要なものは、学校の外に求めるしかありません。それが可能なのは、親にそれが可能な経済力があり、親自身に必要なものを選択できる程度の知的能力がある場合に限られます。その結果、ゆとり教育は学力格差を世代を超えて定着させるほうに働きました。
ゆとり教育反対派が、まず、学習指導要領にないことでも教科書に載せることを認めるよう運動したのは、この連鎖に気づき断ち切ろうとしたからです。「発展」と明記するという条件付きで、不満足ながらそれが実現し、やっと第一歩を踏み出すことに成功したのが現状です。
あと、学習指導要領の記述自体が学術的に不自然なところも多々あったのですが、それについて書き始めたら止まらないのでやめておきます。