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無宗教ですが、何も信じないということはありませんね。単に、現存する宗教は多かれ少なかれオカルトを含み、信じるに値しないと思っているだけで。
何より私が宗教嫌いなのは、全ての宗教が心に干渉してくるからです。(宗教の目的は「超越存在の肯定」ではなく「心の平穏」なので当然かも)宗教は「信仰しなければ救われない」と言いますが、科学は人の心など知ったこっちゃないのがありがたいですね。パイロットが流体力学を全く信じなかったとしても、飛行機は飛びますから。
「宇宙を創造した神は存在する。しかし人間に対しては塵ほどの興味も持っていないので、信仰心は必要ないし、いかなる願いも聞き届けられない」みたいな宗教だったら拒否反応も起きないのですけど。(でも、そんな教義でお金は集められそうにないw)
「宇宙を創造した神は存在する。しかし人間に対しては塵ほどの興味も持っていないので、信仰心は必要ないし、いかなる願いも聞き届けられない」
どこかで聞いた覚えが。ああそうだカート・ヴォネガット・ジュニア著「タイタンの妖女」(原著1959年)に登場する『徹底的に無関心な神の教会』だ。「ちっぽけな人間には、全能の神を助けたり、喜ばせたりすることはなにもできない。そして、運のよしあしは神の御業ではない。」ハヤカワ文庫SF1700(第三刷)p.256に出てきます。
このほかアーサー・C・クラークも似たような宗派(正規分布曲線をシンボルマークとするもの、ただしあまり人気を集めなかった)に言及していたと思いますが、どの作品だったかは思い出せません。なんだったっけ…?
あなたに強く干渉してくる信者だけを見て、その宗教を測ってはいけないのではないかな。
敬虔かつドライにその宗教と接している信者も結構いる気がする。オカルトは所詮又聞きの神話で、事実であったかは真に重要ではなく、否定の確証がなければあえて否定する必要もない。盲信ではなく、システムをある程度見通した上でメリットの部分を享受し、身を阿るような。我々の科学に接する姿勢と似たようなもので。
オレは仏教徒だけど仏教を信じてるわけじゃない。形だけの仏教徒じゃなく仏教を指針にしてるし、そういう自分自身も信じている。これは「宗教にはまっている」ことになるのか?(自分は仏教を宗教と思ってないという問題があるが)もちろん、もっと良い指針が見つかればアッサリ鞍替えする。(このへんは科学に対するのと同じ)
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未知のハックに一心不乱に取り組んだ結果、私は自然の法則を変えてしまった -- あるハッカー
全ては信じることから始まります。 (スコア:0)
もしあなたが宗教にはまっているなら、それは"信じている"のでしょう。
しかし、もし貴方が無宗教で何も信じないというなら
それは、貴方は自分自身を"信じている"と言う事でしょう。
Re:全ては信じることから始まります。 (スコア:1, 興味深い)
無宗教ですが、何も信じないということはありませんね。
単に、現存する宗教は多かれ少なかれオカルトを含み、信じるに値しないと思っているだけで。
何より私が宗教嫌いなのは、全ての宗教が心に干渉してくるからです。
(宗教の目的は「超越存在の肯定」ではなく「心の平穏」なので当然かも)
宗教は「信仰しなければ救われない」と言いますが、科学は人の心など知ったこっちゃないのがありがたいですね。
パイロットが流体力学を全く信じなかったとしても、飛行機は飛びますから。
「宇宙を創造した神は存在する。しかし人間に対しては塵ほどの興味も持っていないので、信仰心は必要ないし、いかなる願いも聞き届けられない」
みたいな宗教だったら拒否反応も起きないのですけど。
(でも、そんな教義でお金は集められそうにないw)
Re:全ては信じることから始まります。 (スコア:3, 興味深い)
「宇宙を創造した神は存在する。しかし人間に対しては塵ほどの興味も持っていないので、信仰心は必要ないし、いかなる願いも聞き届けられない」
どこかで聞いた覚えが。ああそうだカート・ヴォネガット・ジュニア著「タイタンの妖女」(原著1959年)に登場する『徹底的に無関心な神の教会』だ。「ちっぽけな人間には、全能の神を助けたり、喜ばせたりすることはなにもできない。そして、運のよしあしは神の御業ではない。」ハヤカワ文庫SF1700(第三刷)p.256に出てきます。
このほかアーサー・C・クラークも似たような宗派(正規分布曲線をシンボルマークとするもの、ただしあまり人気を集めなかった)に言及していたと思いますが、どの作品だったかは思い出せません。なんだったっけ…?
Jubilee
Re: (スコア:0)
あなたに強く干渉してくる信者だけを見て、その宗教を測ってはいけないのではないかな。
敬虔かつドライにその宗教と接している信者も結構いる気がする。
オカルトは所詮又聞きの神話で、事実であったかは真に重要ではなく、否定の確証がなければあえて否定する必要もない。
盲信ではなく、システムをある程度見通した上でメリットの部分を享受し、身を阿るような。
我々の科学に接する姿勢と似たようなもので。
Re:全ては信じることから始まります。 (スコア:1)
オレは仏教徒だけど仏教を信じてるわけじゃない。
形だけの仏教徒じゃなく仏教を指針にしてるし、そういう自分自身も信じている。
これは「宗教にはまっている」ことになるのか?
(自分は仏教を宗教と思ってないという問題があるが)
もちろん、もっと良い指針が見つかればアッサリ鞍替えする。
(このへんは科学に対するのと同じ)
the.ACount
Re: (スコア:0)
「その時点で、自分なりに考えた選択を一時的に信じる」の方が近い気がします
別の言い方をすると「自分なりに考え、その時点でもっとも正解に近いと考えた物を選択する」
そして、その自分の判断を信用していないので、その選択が正しいのかをまた検証する
単に「信じる」という言葉だけを使うと、確定しているような印象を私は受けますが
全てはあくまでひとつの説で、常に確定はしていません
判断し続けるか、判断をやめるのか、考え続けるか、考える事をやめるのか
そこがたぶん宗教と無宗教(の一部)の違いなのかなと私は思います