アカウント名:
パスワード:
家庭教師をしておりました時分、算数が苦手な子を担当したことがあります。その子の問題の解き方が
この前かけ算を習ったので、まず『×』を書く。次に文章中に出てくる数字を2つ、『×』の前に1つ、後ろに1つ書く。式ができるので、それを計算する
という問題の解き方でした。教育指導要領に書かれている「かけ算の順序が間違っている場合は、本質を理解していない」という脚注はこのような「論理的に立式するセンス」自体が備わっていない例を指すのだと思います。
#そして、おそらくこういう問題の解き方をする人は、社会にもそれなりにいるのではないかと・・・
立式の順
つまり問題は、「直前に習ったことしか使わないテストで理解力をはかる事」であり、そのテストの性質を応用した「バカでもできる攻略法」を防止するための対応がお粗末なだけなのではないかと思うわけです。
やはりその場合も、焦点は立式と答えとを異なるものだとみなす部分にあるんじゃないかと。そして、「対応がお粗末」なのは、「立式」だけが間違っているのに、「答え」をも誤りだとした点にあるんじゃないでしょうか。んで、納得できていない人が大勢いるのは、立式部分に問題があると思います。
1人に6本ずつペンをあげます。48本のペンなら、何人に配れるでしょうか。
便宜上、ペンを A B C D E F に分けます。各々を、それぞれ 8 人に配ります。
A を持っているのは何人でしょうか。 … 8 人です。B を持っているのは何人でしょうか。 … 8 人です。ペンは何種類でしたっけ? … 6 種類です。計算してください。 … 8 × 6 です。
私には、これが間違いと断言される理由がよく判らないんですよねぇ。それは問題文中のどこに定義されているのでしょう?空気読め、って話なら、それこそただの読解問題なわけですし。
便宜上、ペンを A B C D E F に分けます。(中略)ペンは何種類でしたっけ? … 6 種類です。(中略)私には、これが間違いと断言される理由がよく判らないんですよねぇ。
そりゃ、勝手な仮定を置いてるからじゃないでしょうか。ペンを6種類とできるなら、あってるんじゃないですか?
それは問題文中のどこに定義されているのでしょう?
まあ元々が親が書いた問題文って事で伝聞なので合っている保証はないですけれども、以下の問題文でもって
8人にペンをあげます。1人に6本ずつあげるには、ぜんぶで何本いるでしょうか。
6本ずつってあるんですし、「6種類を1本ずつ8人に配っていると
いや、まぁそうなんですけど。
もしかして、便宜上ペンをAABBCCに分けて、Aを持っているのは16人、Bを持っているのも16人……つまり、16x3=48ってのも正解とすべきという主張をされているのでしょうか。
私はこれでも正解だと思っています。もっと極端な話をしてしまえば、ペンをりんごに置き換えて答えを導出して、ペンをりんごに置き換えても問題のないことを証明できれば、それもやはり正解だと思います。
なんでしょうね、数学というものはいろいろな方向から答えを考えるべきだと思うのですよ。数学に限らず学問全般の話かもしれませんが。任意の三角形、と問題に出されれば、じゃあまずは正三角形で考えてみるか、と考えるのは一つのテクニックですし、それは数学の一番楽しいところじゃないですか。図形の問題で、補助線引いて考えるとか皆さんやったと思うんですが、今回のこれは補助線とか問題にないもの引くなという教育に感じているのですよ。それって初等教育としてまずくないですか。解答は一つでも、導出法には無限の可能性がある。そのことを教えておく方が、よっぽど後々キいてくるんじゃないかと思うんですけどねぇ。
今回のこれは補助線とか問題にないもの引くなという教育に感じているのですよ。それって初等教育としてまずくないですか。解答は一つでも、導出法には無限の可能性がある。そのことを教えておく方が、よっぽど後々キいてくるんじゃないかと思うんですけどねぇ。
例え習ったやり方ではなくても、ロジックが正しくて導出結果が正しければ正答とすべきという主張自体はわかるんです。ただそれは、このテストだけを見た場合の話じゃないですか?そしてそれは、一回学習して知っているからじゃないでしょうか。
小学校6年間でのカリキュラムで、まず割り算引き算の際に混乱しないように、「かけられる数xかける数」で教えて、それを理解しているかのテストでの正答では、やはり無いと思うのです。教育方針として「初等教育で導出法に無限の可能性がある」ことを、小学2年生に教えることが、正しいのかどうかってところかと。だから、習っていないモノを使って解いてもOKとする方針で教えよ、それで混乱しないようにせよ、理解もさせよってのは、ちょっと厳しすぎやしないかな、と。(少なくとも、ぽっと思いついた事ではなく、それなりに頑張ってカリキュラムは作ってくれてるハズなので)
例えるなら、時間も予算も限られてるC言語の新人教育教室やってるときに、「100までの素数を計算する関数を書け」って言ったら、素数25個をハードコーディングで返すのを書いてきたときに、不正解としたらどっかの課長が文句を言ってきている状況かなと。そう書いて欲しくないならもっと厳密に定義しろ、合ってるんだから正解だ、お前がオカシイという主張自体は判るんです。でも、そう言ってくる課長は別にC言語の教室を引き継いでくれるわけでもなければ、段階的に教えていこうという話も理解していない。正答だアリだとして、その新人の宿題を部内で採点させると丸になってる。そうやって育った新人に、仕事の実装任せて良いのか、っていう話です。
理解していて、その上で屁理屈をこねてくるような小学生ならたぶんほっといても問題ないハズです。でも、単純に間違えて理解していた子に対して父親が「6種類を1本ずつという考え方でも良いはずだ!」と言っちゃったら、その子の為にはならんのじゃないかなあと。いや、その先ずっと父親が算数の面倒見るならアリだとは思いますけど。
他にも色々ぶら下がってるのにもまとめて答えておくと、「8人に6回配るやり方もあるよね」と、"子供が"主張するならOKだと思うんですが、勝手に「そう子供が考えてるだろう」と考えて"その回答を書いた子供以外が"主張するのはNGだと思うのです。それやったら、親は気分が良いかもしれませんが、子供は理解できないまま進むだけでしょう。だからやっぱり習っていないことを使って他人が「こういう考え方もあるから正答じゃないのはオカシイ」というのは、教育としては間違っていると思います。 # 子供の考えを、筋道記載させない小テストの回答方法から慮るやり方が雑だ、という指摘はアリだと思うんですよ。 # ただ「こっちの方が良いんじゃないかなあ」とか、無責任にそこだけ口を出すと、やっぱ仕事でも嫌がられるでしょう:-P
より多くのコメントがこの議論にあるかもしれませんが、JavaScriptが有効ではない環境を使用している場合、クラシックなコメントシステム(D1)に設定を変更する必要があります。
長期的な見通しやビジョンはあえて持たないようにしてる -- Linus Torvalds
問題は立式ではない (スコア:5, 興味深い)
家庭教師をしておりました時分、算数が苦手な子を担当したことがあります。その子の問題の解き方が
という問題の解き方でした。教育指導要領に書かれている「かけ算の順序が間違っている場合は、本質を理解していない」という脚注はこのような「論理的に立式するセンス」自体が備わっていない例を指すのだと思います。
#そして、おそらくこういう問題の解き方をする人は、社会にもそれなりにいるのではないかと・・・
立式の順
焦点は立式じゃないかなあ (Re:問題は立式ではない (スコア:2)
やはりその場合も、焦点は立式と答えとを異なるものだとみなす部分にあるんじゃないかと。
そして、「対応がお粗末」なのは、「立式」だけが間違っているのに、「答え」をも誤りだとした点にあるんじゃないでしょうか。
んで、納得できていない人が大勢いるのは、立式部分に問題があると思います。
1人に6本ずつペンをあげます。48本のペンなら、何人に配れるでしょうか。
Re: (スコア:1)
便宜上、ペンを A B C D E F に分けます。
各々を、それぞれ 8 人に配ります。
A を持っているのは何人でしょうか。 … 8 人です。
B を持っているのは何人でしょうか。 … 8 人です。
ペンは何種類でしたっけ? … 6 種類です。
計算してください。 … 8 × 6 です。
私には、これが間違いと断言される理由がよく判らないんですよねぇ。
それは問題文中のどこに定義されているのでしょう?
空気読め、って話なら、それこそただの読解問題なわけですし。
Re: (スコア:2)
そりゃ、勝手な仮定を置いてるからじゃないでしょうか。
ペンを6種類とできるなら、あってるんじゃないですか?
まあ元々が親が書いた問題文って事で伝聞なので合っている保証はないですけれども、以下の問題文でもって
6本ずつってあるんですし、「6種類を1本ずつ8人に配っていると
Re:焦点は立式じゃないかなあ (Re:問題は立式ではない (スコア:1)
いや、まぁそうなんですけど。
私はこれでも正解だと思っています。
もっと極端な話をしてしまえば、ペンをりんごに置き換えて答えを導出して、ペンをりんごに置き換えても問題のないことを証明できれば、それもやはり正解だと思います。
なんでしょうね、数学というものはいろいろな方向から答えを考えるべきだと思うのですよ。数学に限らず学問全般の話かもしれませんが。
任意の三角形、と問題に出されれば、じゃあまずは正三角形で考えてみるか、と考えるのは一つのテクニックですし、それは数学の一番楽しいところじゃないですか。
図形の問題で、補助線引いて考えるとか皆さんやったと思うんですが、今回のこれは補助線とか問題にないもの引くなという教育に感じているのですよ。それって初等教育としてまずくないですか。
解答は一つでも、導出法には無限の可能性がある。そのことを教えておく方が、よっぽど後々キいてくるんじゃないかと思うんですけどねぇ。
Re:焦点は立式じゃないかなあ (Re:問題は立式ではない (スコア:1)
例え習ったやり方ではなくても、ロジックが正しくて導出結果が正しければ正答とすべきという主張自体はわかるんです。
ただそれは、このテストだけを見た場合の話じゃないですか?そしてそれは、一回学習して知っているからじゃないでしょうか。
小学校6年間でのカリキュラムで、まず割り算引き算の際に混乱しないように、「かけられる数xかける数」で教えて、それを理解しているかのテストでの正答では、やはり無いと思うのです。
教育方針として「初等教育で導出法に無限の可能性がある」ことを、小学2年生に教えることが、正しいのかどうかってところかと。
だから、習っていないモノを使って解いてもOKとする方針で教えよ、それで混乱しないようにせよ、理解もさせよってのは、ちょっと厳しすぎやしないかな、と。
(少なくとも、ぽっと思いついた事ではなく、それなりに頑張ってカリキュラムは作ってくれてるハズなので)
例えるなら、時間も予算も限られてるC言語の新人教育教室やってるときに、「100までの素数を計算する関数を書け」って言ったら、素数25個をハードコーディングで返すのを書いてきたときに、不正解としたらどっかの課長が文句を言ってきている状況かなと。
そう書いて欲しくないならもっと厳密に定義しろ、合ってるんだから正解だ、お前がオカシイという主張自体は判るんです。
でも、そう言ってくる課長は別にC言語の教室を引き継いでくれるわけでもなければ、段階的に教えていこうという話も理解していない。正答だアリだとして、その新人の宿題を部内で採点させると丸になってる。
そうやって育った新人に、仕事の実装任せて良いのか、っていう話です。
理解していて、その上で屁理屈をこねてくるような小学生ならたぶんほっといても問題ないハズです。
でも、単純に間違えて理解していた子に対して父親が「6種類を1本ずつという考え方でも良いはずだ!」と言っちゃったら、その子の為にはならんのじゃないかなあと。いや、その先ずっと父親が算数の面倒見るならアリだとは思いますけど。
他にも色々ぶら下がってるのにもまとめて答えておくと、
「8人に6回配るやり方もあるよね」と、"子供が"主張するならOKだと思うんですが、
勝手に「そう子供が考えてるだろう」と考えて"その回答を書いた子供以外が"主張するのはNGだと思うのです。
それやったら、親は気分が良いかもしれませんが、子供は理解できないまま進むだけでしょう。
だからやっぱり習っていないことを使って他人が「こういう考え方もあるから正答じゃないのはオカシイ」というのは、教育としては間違っていると思います。
# 子供の考えを、筋道記載させない小テストの回答方法から慮るやり方が雑だ、という指摘はアリだと思うんですよ。
# ただ「こっちの方が良いんじゃないかなあ」とか、無責任にそこだけ口を出すと、やっぱ仕事でも嫌がられるでしょう:-P