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世界が幾つかに分けて把握されている、というふうに考えてみます。たとえば次のように。
A.私が認識した世界。B.私が認識していない世界。C.私の認識によらない、世界。
予言者の言う、終わり、って、どこにかかるんでしょうね。Cの終焉を予言者は予言しているのでしょうか?
でも、予言=認識している時点で、それはAじゃないのでしょうか?そうすると、Bの終焉は考慮の外となって、世界の全てが終わらないのではないでしょうか?
同じような話を、環境という言葉でも最近見受けました。
環境にとって人類は、悪性の存在だから、環境を保護するなら、人類を抹殺するしかない、と。人が生きていくのに適している環境を、人が壊すから、人類を抹殺する、という発想のようです。
世界とか環境って、こうやって意味を限定して使うとき、当たり前だけど、かならず小さく扱われますよね。だとすると、予言だとか、環境論って、必ず間違えているんじゃないかな?何かの証拠があったとして、たった一人が、その証拠を展開させた考えで終わらせられるほど、世界という概念は簡単には終わらない気がします。
#ちょっと暇だったので、戯言をば。
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アレゲは一日にしてならず -- アレゲ見習い
世界の終焉 (スコア:2)
世界が幾つかに分けて把握されている、というふうに考えてみます。たとえば次のように。
A.私が認識した世界。
B.私が認識していない世界。
C.私の認識によらない、世界。
予言者の言う、終わり、って、どこにかかるんでしょうね。
Cの終焉を予言者は予言しているのでしょうか?
でも、予言=認識している時点で、それはAじゃないのでしょうか?
そうすると、Bの終焉は考慮の外となって、世界の全てが終わらないのではないでしょうか?
同じような話を、環境という言葉でも最近見受けました。
環境にとって人類は、悪性の存在だから、環境を保護するなら、人類を抹殺するしかない、と。
人が生きていくのに適している環境を、人が壊すから、人類を抹殺する、という発想のようです。
世界とか環境って、こうやって意味を限定して使うとき、当たり前だけど、かならず小さく扱われますよね。だとすると、予言だとか、環境論って、必ず間違えているんじゃないかな?何かの証拠があったとして、たった一人が、その証拠を展開させた考えで終わらせられるほど、世界という概念は簡単には終わらない気がします。
#ちょっと暇だったので、戯言をば。