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私はどちらかといえば、教育面で「個性」を尊重すべきだという考えですが、「文字」「言語」については、個性をできる限り排除して、統一すべきだと思います。文字・言語というのは意思の疎通を図るためのものであって、みんなが好き勝手な文字・言語を使ったら、意思の疎通がとりにくくなり、不自由になるからです。
その証拠に、アメリカが「文字の書き方」も個性の一つとして尊重すべきだという教育を行ったせいで、個性的すぎる文字があふれ、他人が書いた手書き文章を読解するのが困難な状況となってしまいました。その結果、「手書き文章の手紙というのは、読みにくいので失礼」だというマナーができてしまい、活字が事実上強制されるようにな
「文字」「言語」については、個性をできる限り排除して、統一すべきだと思います。文字・言語というのは意思の疎通を図るためのものであって、みんなが好き勝手な文字・言語を使ったら、意思の疎通がとりにくくなり、不自由になるからです。
そうであれば、当然個人が標準に近づくことも必要である一方、標準の側で汲み取る項目をある程度狭め、意思を認めない部分を用意することにも重要な意味があると思います。ストーリーにあるような細かい字形の違いを区別しては、各個人が個人である以上、あらゆる標準字形からのずれに関して統一見解を用意する必要があります。
例えば「右」の「口」が接触していない字形を新たに「右の誤字」として定義しても、新たなはしご高を生むだけです。その差異は"右"と"右の誤字"を識別する以外の役にも立ちません。既存の定義された字の中で相互に識別できる限り、「この部分の違いは無視し、情報として考慮しません」と宣言した方が、言語を単純にして意思の疎通を円滑化する上では効果があるのではないでしょうか。
「この部分の違いは無視し、情報として考慮しません」という箇所を明示するというのは確かに良い方法ですね。
標準文字と、許容する変化の一覧を両方定義しておくと良い感じになるかもしれません。
「一覧として定義し管理するのは無駄だから、違いを考慮しません」というのが元コメントの意図ではないでしょうか。
少なくとも、『常用漢字表』(PDF) [bunka.go.jp]のP. 7、 「表の見方及び使い方」の「(付) 字体についての解説」の「第2 明朝体と筆写の楷書との関係について」(ページ番号も章節番号も振ってないので引用し難いことおびただしい)には、手書き文字の許容例が書いてあるんですがね。
常用漢字表では,個々の漢字の字体(文字の骨組み)を,明朝体活字のうちの一種を例に用いて示した。このことは,これによつて筆写の楷書における書き方の習慣を改めようとするものではない。字体としては同じであつても,明朝体活字(写真植字を含む。)の形と筆写の楷書の形との間には,いろいろな点で違いがある。それらは,印刷上と手書き上のそれぞれの習慣の相違に基づく表現の差と見るべきものである。以下,分類して例を示す。
ところが、学校教師はこんなもの見ずに勝手な基準で指導してくれるから困ったことになる。 筆順にしても、本当は1つに決まったものではないのに、1種類以外は認めない。バカにつける薬はないものかね。
それから、字形については、明朝体活字の細かいデザイン差まで気にするのは行き過ぎだと思います。 手書きにして変わらないなら、同じ文字だとみなすべきでしょう。
もちろん、文字として別なものは別扱いですよ。「萩」(はぎ)と「荻」(おぎ)は別の字だし、「斎」(さい)と「斉」(せい)は別の字です(どちらも「さいとう」の「さい」だから同じというなら、「地」と「池」も同じと言うことになります。なぜなら、どちらも「きくち」の「ち」だから。)。これらは異体字ですらない。
もっと言えば、「丘」と「岡」は異体字ではないけれど、意味が同じだからといって「異体字」と呼ぶ痛い人たちもいますね。知らないなら黙っていればいいのに。
オフトピ。
<http://kokugo.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/kijun/naikaku/pdf/joyokanjihyo_20101130.pdf&page=7>程度の表記がもっと普及すれば個人的にはうれしいと思うのですがそれとは別に、文部科学省はじめ国の府省庁がPDF文書の形で公開するドキュメント内にアンカーを施さないから目次や索引からジャンプできないというilliterateな状態はそろそろ我慢の限界に近い。※あくまで一個人の感想です。お上がそんなだから下々もそれに見合っていると思えるところもあり複雑な心境。
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あと、僕は馬鹿なことをするのは嫌いですよ (わざとやるとき以外は)。-- Larry Wall
むしろ字形を統一すべき (スコア:5, すばらしい洞察)
私はどちらかといえば、教育面で「個性」を尊重すべきだという考えですが、「文字」「言語」については、個性をできる限り排除して、統一すべきだと思います。文字・言語というのは意思の疎通を図るためのものであって、みんなが好き勝手な文字・言語を使ったら、意思の疎通がとりにくくなり、不自由になるからです。
その証拠に、アメリカが「文字の書き方」も個性の一つとして尊重すべきだという教育を行ったせいで、個性的すぎる文字があふれ、他人が書いた手書き文章を読解するのが困難な状況となってしまいました。その結果、「手書き文章の手紙というのは、読みにくいので失礼」だというマナーができてしまい、活字が事実上強制されるようにな
Re:むしろ字形を統一すべき (スコア:3)
「文字」「言語」については、個性をできる限り排除して、統一すべきだと思います。文字・言語というのは意思の疎通を図るためのものであって、みんなが好き勝手な文字・言語を使ったら、意思の疎通がとりにくくなり、不自由になるからです。
そうであれば、当然個人が標準に近づくことも必要である一方、標準の側で汲み取る項目をある程度狭め、意思を認めない部分を用意することにも重要な意味があると思います。
ストーリーにあるような細かい字形の違いを区別しては、各個人が個人である以上、あらゆる標準字形からのずれに関して統一見解を用意する必要があります。
例えば「右」の「口」が接触していない字形を新たに「右の誤字」として定義しても、新たなはしご高を生むだけです。その差異は"右"と"右の誤字"を識別する以外の役にも立ちません。
既存の定義された字の中で相互に識別できる限り、「この部分の違いは無視し、情報として考慮しません」と宣言した方が、言語を単純にして意思の疎通を円滑化する上では効果が
あるのではないでしょうか。
Re:むしろ字形を統一すべき (スコア:2)
「この部分の違いは無視し、情報として考慮しません」という箇所を明示するというのは確かに良い方法ですね。
標準文字と、許容する変化の一覧を両方定義しておくと良い感じになるかもしれません。
Re: (スコア:0)
標準文字と、許容する変化の一覧を両方定義しておくと良い感じになるかもしれません。
「一覧として定義し管理するのは無駄だから、違いを考慮しません」というのが元コメントの意図ではないでしょうか。
Re:むしろ字形を統一すべき (スコア:1)
少なくとも、『常用漢字表』(PDF) [bunka.go.jp]のP. 7、 「表の見方及び使い方」の「(付) 字体についての解説」の「第2 明朝体と筆写の楷書との関係について」(ページ番号も章節番号も振ってないので引用し難いことおびただしい)には、手書き文字の許容例が書いてあるんですがね。
ところが、学校教師はこんなもの見ずに勝手な基準で指導してくれるから困ったことになる。 筆順にしても、本当は1つに決まったものではないのに、1種類以外は認めない。バカにつける薬はないものかね。
それから、字形については、明朝体活字の細かいデザイン差まで気にするのは行き過ぎだと思います。 手書きにして変わらないなら、同じ文字だとみなすべきでしょう。
もちろん、文字として別なものは別扱いですよ。「萩」(はぎ)と「荻」(おぎ)は別の字だし、「斎」(さい)と「斉」(せい)は別の字です(どちらも「さいとう」の「さい」だから同じというなら、「地」と「池」も同じと言うことになります。なぜなら、どちらも「きくち」の「ち」だから。)。これらは異体字ですらない。
もっと言えば、「丘」と「岡」は異体字ではないけれど、意味が同じだからといって「異体字」と呼ぶ痛い人たちもいますね。知らないなら黙っていればいいのに。
Re:むしろ字形を統一すべき (スコア:1)
オフトピ。
<http://kokugo.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/joho/kijun/naikaku/pdf/joyokanjihyo_20101130.pdf&page=7>
程度の表記がもっと普及すれば個人的にはうれしいと思うのですがそれとは別に、文部科学省はじめ国の府省庁がPDF文書の形で公開するドキュメント内にアンカーを施さないから目次や索引からジャンプできないというilliterateな状態はそろそろ我慢の限界に近い。
※あくまで一個人の感想です。
お上がそんなだから下々もそれに見合っていると思えるところもあり複雑な心境。