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なお、来るのをやめるときには、届け出も発表も必要では ありません。
QUIT宣言をした人がQUITした試しはないと、よく言われたものです(nifty)。
ここでは初投稿をするのですが、「上記のコメント、鋭いぜ・・・」と思ってしまいコメントします。たぶんご本人すらもう読まないでしょうけど。(一回プレヴューしたのですが改行が反映されないみたいです・・・すいません)
他の参加型のサイトを使わせてもらっていたのですが、そこにおいても同様の問題があって、この問題には注視していました。
すこし大きく振りかぶるのですが・・・自分の私生活において自分の読書によって得た自分の所見というのは誰にもあると思うのです。
そして、(これは完全な私見であり立証されたものではないのですが、経験的に)ある人がどのような書物を読み重ねてきたかは、このようなサイトでの振る舞いにまさに人格の表裏一体の混成体として出てくると思います。←これを品性の問題として捉えることができるのか、ということも実は含んでいると思います。
なぜ書物の影響を言うのに生の人間の影響をいわないかというと、ちょっとそこも独自の意見を言ってしまうのですが、文明社会においては人間は文字媒体などで予習的に知識を補充しておいてから行動するように訓練されていると思うからなのです。事前の蓄積→教育の別名かもしれない。ここには自己教育も含みます。
むろん、人による社会的な教育の無効をいいたいのではないです。それは現実社会においてとても有効です。そして本来、ネットの匿名性に関わらず、現実社会の行為基準はそのままネットに移植されるべきはずです。しかし、現実はそうでない。だから、ネット社会というものの行為基準がどこで作られてきたかに迫る必要があると思っています。
こういう「場」において、生の人間の影響はどちらかというと印刷物よりも弱いだろうと思います。現実の世界においてすら、それらは発言や振る舞いと言う風に、目に見えるけど証拠には残らないものだから、意識して覚えておこうとしない限り消えていくものです。これに対して、印刷物は文字と言う形をとって現れてくるという点で、とてもこのような「場」に類似性があります。
類似性があるからと言って人間の生の影響に書物が常に優位にたつと言うつもりはありませんが、少なくとも、このように音声や振る舞いを必要としていないメディアにおいては、これまで人から受けた影響は後方に下がり、本当に文字媒体による積み重ねというものが如実に前面に出るのだと僕は考えています。
つまり・・・例えば、書物のジャンルは山ほどありますけど、ここであえて絞ってみます。その中の一つであるパソコン関連の書籍を見ても千差万別ですが、その中からどのようなものを選び、それをどのように読み、どのように知識化してきたか、そしてそれをどのように用いるのか、それらの基準は現実世界のその人の役割とは全く別個独立に存在し、このネット社会の振る舞いとして評価されるべきだということです。
こんな感じの帰結がでてきうると思います。「大量投稿などは品性の問題としても下品なものだからよすべきですね」という認識は現実社会と同じだ、このように考える人は人の影響と書物の影響とでバランスが取れている人なのでしょう、というような。
ゆえに、逆から見た場合、大量投稿をする人はそのバランスを失しているのだろう、というかんじに結ばれるのでしょう。大部分で賛成です。8割がた。・・・これも奇特な意見かもしれないのですが、革新的意見や芸術的発想というのも実は迷惑行為に見える人間の発想から生じてくる「余地がある」と思っているもので・・・2割引きました。
以上のような個人レベルのみならず、サイトの運営としてもいちいちチェックをしなきゃいけないわけだから、管理者の目線で言っても迷惑行為の時間的制限をするのはとてもよいことだと思います。
というのも、その人がこのサイトを使う自由を言うなら、他の加入者も同じく使う自由を有しているのであって、その人たちの使いやすさというのをわざわざ落とす自由までは付与されていないからです。したがって、意味の無い大量投稿をする自由は、観念できるけど、存在しません。
・・・書きながら思ったのですが、大量投稿とは短文なり長文なりが無意味に同じ人間から多数寄せられることですよね・・・。何故確認するかと言うと、なんか、一つの文章でも、分量が大量、ということも含むとすると・・・説明しようとしている自分も該当する気がしてきてすこし凹みそうになったからです。
言いたいことは大体以上です。読んでくれた方に感謝します。
追記:
冒頭に、同じような問題を知っていて、それに対し注視してきたと述べました。
ちなみに僕の名前が明示(なりすましというか、カタリ)されたわけじゃなかったので、間接的な不快を味わったにすぎないのですが、このサイトで僕が以前した発言をそのまま使っている(とおぼしき)人がいたのはショックでした。
しかも全然違う理解と文脈のもとで、その言葉だけ決め台詞のように使うわけですから、次に僕が使うとしたら僕が疑われるのではないかというような形の、本当に間接的な不快なのです。高度なPC技術を持っている人の助けを得ない限り、立証不能なため。
もし、この中で管理者の方が混じっておられるのであれば、僕がアカウント登録をした日付けが今日であることやIPアドレスなどを容易に調べることが可能だと思います。なんていうか、ここまで書いてきたのでそれなりに嫌疑もかかるかもしれないと思うので予防線を張っておこうと思いました・・・(苦笑)。
『マイノリティリポート』の例をいつも僕は出すのですが、殺人犯がこれ見よがしに証拠を残すはずが無い、これは証拠過剰だ、でっち上げだという形で、状況証拠から犯人は別にいるというプルーブが犯人の意図に反してなされてしまったクライマックスのシーンがあります。
つまり、僕がここまで僕なりの筋を通して論じてきたことは、喩えの中の表現を借りると、殺人犯がこんなに饒舌に語るだろうか??ということと類似しているでしょう、というふうにご理解いただければ・・・ありがたいです。余計に疑われたりして・・・(汗)
ともあれ、成り代わっている人間の発言を制限してくれるのは非常にいいことだと思います。そのために、僕のIPアドレスなどを調べることなどにあらかじめ同意しておきます。全く問題ありません。
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「毎々お世話になっております。仕様書を頂きたく。」「拝承」 -- ある会社の日常
これでslashdotさようなら (スコア:1, 荒らし)
制限を多くすれば人は少なくなる。
非常に自然な摂理です。
私は自ら崩壊の道を行く決断を歓迎します。
しかし一つ最後に言っておきましょう。
コメントがレベルが低いのは、人が多くなったわけではありません。
タ
あなたには使いたい掲示板を選ぶ権利がある (スコア:2, 参考になる)
それでよいのだと思います。
面白いと思えば積極的に読んだり投稿したりすればよいのだし、
たまに見るだけでいいやと感じたら思いついたときに軽く巡回
すればいいし、こんなところ嫌だというなら来なければいい。
で、居心地のいい場所
Re:あなたには使いたい掲示板を選ぶ権利がある (スコア:1)
QUIT宣言をした人がQUITした試しはないと、よく言われたものです(nifty)。
Re:あなたには使いたい掲示板を選ぶ権利がある (スコア:1)
さすがに読みがたいので改行入れておきます (スコア:1)
ここでは初投稿をするのですが、「上記のコメント、鋭いぜ・・・」と思ってしまいコメントします。たぶんご本人すらもう読まないでしょうけど。(一回プレヴューしたのですが改行が反映されないみたいです・・・すいません)
他の参加型のサイトを使わせてもらっていたのですが、そこにおいても同様の問題があって、この問題には注視していました。
すこし大きく振りかぶるのですが・・・自分の私生活において自分の読書によって得た自分の所見というのは誰にもあると思うのです。
そして、(これは完全な私見であり立証されたものではないのですが、経験的に)ある人がどのような書物を読み重ねてきたかは、このようなサイトでの振る舞いにまさに人格の表裏一体の混成体として出てくると思います。←これを品性の問題として捉えることができるのか、ということも実は含んでいると思います。
なぜ書物の影響を言うのに生の人間の影響をいわないかというと、ちょっとそこも独自の意見を言ってしまうのですが、文明社会においては人間は文字媒体などで予習的に知識を補充しておいてから行動するように訓練されていると思うからなのです。事前の蓄積→教育の別名かもしれない。ここには自己教育も含みます。
むろん、人による社会的な教育の無効をいいたいのではないです。それは現実社会においてとても有効です。そして本来、ネットの匿名性に関わらず、現実社会の行為基準はそのままネットに移植されるべきはずです。しかし、現実はそうでない。だから、ネット社会というものの行為基準がどこで作られてきたかに迫る必要があると思っています。
こういう「場」において、生の人間の影響はどちらかというと印刷物よりも弱いだろうと思います。現実の世界においてすら、それらは発言や振る舞いと言う風に、目に見えるけど証拠には残らないものだから、意識して覚えておこうとしない限り消えていくものです。これに対して、印刷物は文字と言う形をとって現れてくるという点で、とてもこのような「場」に類似性があります。
類似性があるからと言って人間の生の影響に書物が常に優位にたつと言うつもりはありませんが、少なくとも、このように音声や振る舞いを必要としていないメディアにおいては、これまで人から受けた影響は後方に下がり、本当に文字媒体による積み重ねというものが如実に前面に出るのだと僕は考えています。
つまり・・・例えば、書物のジャンルは山ほどありますけど、ここであえて絞ってみます。その中の一つであるパソコン関連の書籍を見ても千差万別ですが、その中からどのようなものを選び、それをどのように読み、どのように知識化してきたか、そしてそれをどのように用いるのか、それらの基準は現実世界のその人の役割とは全く別個独立に存在し、このネット社会の振る舞いとして評価されるべきだということです。
こんな感じの帰結がでてきうると思います。「大量投稿などは品性の問題としても下品なものだからよすべきですね」という認識は現実社会と同じだ、このように考える人は人の影響と書物の影響とでバランスが取れている人なのでしょう、というような。
ゆえに、逆から見た場合、大量投稿をする人はそのバランスを失しているのだろう、というかんじに結ばれるのでしょう。大部分で賛成です。8割がた。・・・これも奇特な意見かもしれないのですが、革新的意見や芸術的発想というのも実は迷惑行為に見える人間の発想から生じてくる「余地がある」と思っているもので・・・2割引きました。
以上のような個人レベルのみならず、サイトの運営としてもいちいちチェックをしなきゃいけないわけだから、管理者の目線で言っても迷惑行為の時間的制限をするのはとてもよいことだと思います。
というのも、その人がこのサイトを使う自由を言うなら、他の加入者も同じく使う自由を有しているのであって、その人たちの使いやすさというのをわざわざ落とす自由までは付与されていないからです。したがって、意味の無い大量投稿をする自由は、観念できるけど、存在しません。
・・・書きながら思ったのですが、大量投稿とは短文なり長文なりが無意味に同じ人間から多数寄せられることですよね・・・。何故確認するかと言うと、なんか、一つの文章でも、分量が大量、ということも含むとすると・・・説明しようとしている自分も該当する気がしてきてすこし凹みそうになったからです。
言いたいことは大体以上です。読んでくれた方に感謝します。
追記:
冒頭に、同じような問題を知っていて、それに対し注視してきたと述べました。
ちなみに僕の名前が明示(なりすましというか、カタリ)されたわけじゃなかったので、間接的な不快を味わったにすぎないのですが、このサイトで僕が以前した発言をそのまま使っている(とおぼしき)人がいたのはショックでした。
しかも全然違う理解と文脈のもとで、その言葉だけ決め台詞のように使うわけですから、次に僕が使うとしたら僕が疑われるのではないかというような形の、本当に間接的な不快なのです。高度なPC技術を持っている人の助けを得ない限り、立証不能なため。
もし、この中で管理者の方が混じっておられるのであれば、僕がアカウント登録をした日付けが今日であることやIPアドレスなどを容易に調べることが可能だと思います。なんていうか、ここまで書いてきたのでそれなりに嫌疑もかかるかもしれないと思うので予防線を張っておこうと思いました・・・(苦笑)。
『マイノリティリポート』の例をいつも僕は出すのですが、殺人犯がこれ見よがしに証拠を残すはずが無い、これは証拠過剰だ、でっち上げだという形で、状況証拠から犯人は別にいるというプルーブが犯人の意図に反してなされてしまったクライマックスのシーンがあります。
つまり、僕がここまで僕なりの筋を通して論じてきたことは、喩えの中の表現を借りると、殺人犯がこんなに饒舌に語るだろうか??ということと類似しているでしょう、というふうにご理解いただければ・・・ありがたいです。余計に疑われたりして・・・(汗)
ともあれ、成り代わっている人間の発言を制限してくれるのは非常にいいことだと思います。そのために、僕のIPアドレスなどを調べることなどにあらかじめ同意しておきます。全く問題ありません。
Re:さすがに読みがたいので改行入れておきます (スコア:1)
#399786 [srad.jp]は僕の投稿ではなく、masayama8さんの#399751 [srad.jp]に、改行とかを入れただけのものです。
紛らわしくなってしまってすみません。