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人生unstable -- あるハッカー
教える (スコア:0)
教えられない。教えるための技術は対象を理解して
その上にあることだと思う。教職とる人のほとんどは
そこまでいっていない。卒業するのがやっとのレベルです。
# 私の教えている(いた)大学に限った話かもしれませんが。
Re:教える (スコア:1)
教え方ってのはそれ自体が純粋な技術(スキル)なので、
そういった教育を受けていない人なら五十歩百歩かと。
知らないことを教えるのはアレだけど、
知ってて教え方が下手なのはこれまたアレかと。
Re:教える (スコア:0)
Re:教える (スコア:2, すばらしい洞察)
頭で理解していることと(自己と言う世界に閉じた話)、
人にソレを的確に伝えられるか(他者と言う世界に踏み込む話)は全く別の問題。
その証拠に、
あなたの両親の顔を知らない人に、
両親の顔を綺麗に説明できるかやってみると良いよ、
あなたがいつも見ていて当たり前の世界の話なのに、
いかに相手が誤解や思い込みをするかが面白いように分かるから。
教える(伝える)ってのは、知っているだけじゃなくて、
相手の知識レベルや性格なども見抜けない
Re:教える (スコア:3, すばらしい洞察)
子供達への「お話」をお願いした事があります。
その時、何かを「深く」知っているという事は
それだけで非常に大きな力なのだという事を実感しました。
専門教育でなく、子供に何かを教えるというのは、
「知識を与える」部分よりも「興味を与える」部分が大事で
それには、自分が対象を良く知っている事はもちろんですが
子供の状態を把握できる事もとても大切なのだと思います。
切りつめて言ってしまえば
自分がその事を「知らない」のだという事を理解させて、
それを「知りたい」と思うように誘導するのが理想で、
その為には「
Re:教える (スコア:0)
あることを深く知っている人物が子どもにおおいに刺激を与えるという点は確かにそうだと思いますので、そういう人が外部講師として、あるいカリキュラム開発のアドバイザーとして活躍できるようにする方が、教員を修士以上にするよりもよいのではないでしょうか。刺激という意味では修士の教員よりも宇宙飛行士やノーベル賞科学者の方がはるかにインパクト強いんですから。
# そういった人たちが素直に学校での学習に役に立つ話をするとは限りませんが
そうなると教員にはそういったきっかけ作りから始まる学習のサイクルをコーディネートする力が必要になります。そういうわけで修士取るなら教育学修士がいちばんスジが通ってると思うんですけどね。
教育のコーディネート (スコア:1)
> 理解を深めさせることは大きく違います。
もちろんそれは正論で、当然の事として両方必要です。
以下、極論 (でも、周りの子供達との会話の結果です)
科学に限らず、「知識」という意味でならば、「史上最大の公共図書館である」と私が認識しているWEBよりも強い物はありません。(根本的な存在意義はそういう部分に有った、と私は思っています) 教師一人が持つよりも遙かに膨大な「知識」をWEBは与えます。でも、それはコーディネートされたものでは無いのです。
無秩序なままのWEB上の知識は、ただの断片にしか過ぎませんので、教育という意味ではあまり有用ではないです。今のところは。 有用なのは、WEBの後ろに知恵を持った「人間」が存在している場合でしょうか。
教育というのは「学習のサイクルをコーディネート」する教師のために有るのではなく、「どういう事をしたら“知識=必要とする物”が手にはいるのか」を子供が学ぶ為に有るものです。(それが理解できれば、非常にたくさん存在している「教科書を教える」レベルの教師を子供は必要としないです)。でも、それを手に入れるまでの過程は個人差が大きいですし、「知識」の基礎的な部分(あまり面白みのない部分)を身につける段階で、子供が投げ出さないように気を付ける事が大事でしょうね。それは、人間を見る目の部分に負うところが大きいでしょうか。
> 教育学修士がいちばんスジが通ってる
一人の教師がバラバラなレベルの子供を相手にしている現状で、教師のテクニックを上げれば子供の学力低下に対応出来る、と考えたら無謀です。中学・高校で、「基礎的な知識」を覚えさせるという話ならば、子供達を進度別に振り分けて、クラス分けして学習させるのが最も教師が子供の状態の把握がし易く、かつ子供にとっても学習がし易い状態になります。(とりあえず、まるっきりわからない状態でいるよりは理解できる状態になる方が子供にとっても楽しいと思います)
問題は多分それ以前の「小学校」と「家庭」にあるでしょうね。 「科学が好きだったわけではないので現在も科学には興味がない」という教師や親が、子供が興味を持てるように教えるのは難しいでしょ? 日本人の平均で見れば、そういう大人の方が多いだろうという事は容易に予想できます。
そして、そこで興味を無くしてしまうと、「体系的なものを一度投げ出してしまうと、そこからもう一度やらない限り先には進めない」に則って、中学でも高校でもわからないままになります。 子供に基礎が無い時に、科学の専門的な知識や教育学のテクニックを持ち出すのは無意味です。
ちなみに恩師はノーベル賞級の科学者ですが、研究者として第一線から退いて以来、「学生の教育」を本分として活動されています。そして、「基礎部分が危うくなっている」という認識のもとに、出来の悪い教え子であった私のようなものの頼みに応じて、田舎の多いとは言えない子供達と大人達の為に話をして下さったりもします。
私自身は、大事なのは思考するための道具である「日本語」をきちんと使えるようにする事(言ってしまえば昔ながらの「読み書きそろばん」)だとおもっていますし、小学生の時にそれが身に付かなければ、それは子供の一生にとって不幸な事だろうと思っています。教科書を読んで内容の理解が出来ないのは、書き手か読み手かの日本語能力が不足している為かもしれません。科学以前の問題ですけれど。
再掲
教育というのは「教師が持っている知識を子供に与える」ものではない。それは、その人の残りの一生の間有効なもの、「どういう事をしたら“知識=必要とする物”が手にはいるのか」を子供が学ぶ為に有る。
# 非常に面白い切り口なので Anonymousが残念です